第十八話 八十四パーセント
六十四日目の朝、俺は自分の計算が合わないことに気づいた。
紅茶を淹れながら、湯気を見ながら、頭の中で数字を並べていた。
女神は言った。
歴代最高は、二十八人目の四パーセントでした。
そして俺は今、三十四パーセント。
(――おかしい)
先代ヴェルナ・ブラックマンは、十六人目を失って壊れた。名前を呼び続け、捕虜六十人を逃がし、中庭で鎌を振らずに死んだ。
あれが「無力化」でないなら、何が無力化だ。
あれは、百パーセントだ。
なのに歴代最高が四パーセント?
(女神は、嘘をついてる)
湯が沸騰しすぎて、俺はやり直した。
◇
「ミルカ。西棟の掃除を続ける。手伝ってくれ」
「はい! ……あの、掃除ですよね?」
「掃除だ」
「本当に掃除ですよね? ユウマ様が掃除って言う時、たいてい掃除じゃないんですけど」
「今日は本当に掃除だ。ついでに本を全部開く」
「掃除じゃないじゃないですか!」
◇
俺たちは、その日から三日かけて、あの部屋の本を一冊ずつ開いた。
三百二十七冊あった。
そして、そのうち四十一冊に、日本語の書き込みがあった。
全部、同じ筆跡だった。
シンヤ。十六人目。
◇
『植物図鑑。ヴェルナ様が「この花は毒か」と聞いてきた。違うと答えたら、庭に植えた。
毒じゃない花を植える魔族の幹部って、なんなんだ』
『造船の本。俺は船なんか作れない。だが「海を見たことがあるか」と聞かれたので、あると答えた。
しばらく黙ってから、「そうか」と言われた。
この人、海を見たことがないらしい』
『料理の本。厨房のミルカという子に渡した。喜んでいた。
あの子、俺の国の言葉が読めるような顔をした時がある。気のせいか』
俺は、その一行で手を止めた。
(――十二年前から、あんたはそこにいたんだな)
窯の前で今もパンを焼いている子のことを思って、俺は少しだけ息を吐いた。
◇
そして、四十一冊目。
いちばん奥の棚の、いちばん下。
子ども向けの物語の本だった。
表紙が擦り切れて、何度も読まれた跡があった。
その裏表紙の内側に、びっしりと文字が詰まっていた。
『読む奴がいるとは思わないが、書いておく。
女神に会った。夢の中でだ。数字を見せられた。
八十四パーセントだそうだ。
「歴代最高です」と言われた。うれしくなかった。
俺は今日、ヴェルナ様に「海を見に行きませんか」と言った。
あの人は笑った。笑ってから、「職務がある」と言った。
その顔が、断りたくなさそうだったので、俺は嬉しかった。
嬉しかったのに、夜になって、怖くなった。
この数字が百になったら、何が起きるんだ?
女神は「無力化されます」と言った。
幹部が無力化されたら、魔王軍は何をする?
答えは考えるまでもない。
俺は明日、女神にこう言うつもりだ。
降ります、と。
シンヤ』
◇
その先には、何も書かれていなかった。
俺は裏表紙をめくり、次のページを見て、また戻った。
何もない。
シンヤの記録は、そこで終わっていた。
「降ります」と書いた翌日から、何もない。
◇
俺は本を閉じた。
閉じてから、しばらく床に座り込んでいた。
「ユウマ様……? あの、大丈夫ですか」
ミルカが心配そうに覗き込んできた。
「……ミルカ。この本、見たことあるか」
「あります。ヴェルナ様が、よく読んでらっしゃいました」
「よく?」
「はい。子ども向けのお話なのに、何度も何度も」
俺は、擦り切れた表紙を撫でた。
読まれすぎた理由が、わかった。
この本の裏表紙には、シンヤの最後の言葉が書いてある。
シンヤを失ってから、死ぬまでの三か月。
読めないはずの文字を、あの人はその三か月のあいだ、何度も何度も開いていたのだ。
(八十四パーセントだ)
(三年前に、八十四まで行った男がいる)
(そいつが「降ります」と言った翌日に、記録が途切れてる)
(そして女神は、俺にその男の数字を一度も見せなかった)
◇
女神は、俺にこう言った。
『三十三人は、彼女を「倒すべき敵」として見ました。だから死にました』
『歴代最高は、二十八人目の四パーセントでした』
『あなたは今、とても良い仕事をしています。順調です』
全部、俺に「自分は特別だ」と思わせるための言葉だった。
三十三回失敗して、三十四回目。
その物語を信じさせておけば、俺は走る。
(――だが、本当は一度成功してるんだ)
(成功した結果が、あの中庭だ)
俺は立ち上がった。
「ミルカ。掃除を続けよう」
「は、はい」
「本は、元の場所に戻す。一冊残らず、元の通りに」
「どうしてですか?」
「――誰かがまた読むかもしれないからだ」
◇
その夜、俺は死んだ。
理由は、間抜けとしか言いようがない。
執務室で書類を渡す時、身をかがめた拍子に、燕尾服の内ポケットから手紙が滑り落ちた。
床に落ちた封筒の表が、上を向いた。
『リーニャへ』
ヴェルナ・ブラックマンの筆跡で。
リーニャの顔から、音もなく血の気が引いた。
「……なに、それ」
「これは」
「なにそれ」
彼女の声が、震えていた。怒りではなかった。
「なんで、あんたが持ってるの」
「先代のお部屋で」
「なんで、わたしに渡さなかったの」
俺は答えられなかった。
正解を知っていたからだ。渡すのは、彼女が何かを決める前でなければ意味がない。だから待っていた。
だが、それをそのまま言えば、「お前が決める前に操作したかった」と告白することになる。
「……申し上げられません」
その言葉は、昨日は通った。
今日は、通らなかった。
右手が、上がった。
――デス:22
◇
暗かった。
いつもなら、目を閉じた次の瞬間には天井がある。
今回は、暗いままだった。
(……あれ)
(戻らない)
音がなかった。感覚がなかった。自分の輪郭がどこにあるのかもわからなかった。
女神の声が、遠くで聞こえた気がした。
『あと、少しです』
(――冗談じゃない)
(まだだ)
(あの子に、まだ何も渡してない)
指先が、震えた。
震えた、ということは、指先があった。
◇
石造りの天井。紫の光。
俺は跳ね起きて、そのまま床に膝をついた。
全身が汗だくだった。心臓が、肋骨を殴っていた。
「……戻った」
首を触る。ある。
手の甲を見る。
紋章は、光っていた。
前より、確実に薄く。
(何秒だ)
(あの暗闇、何秒だった)
俺は震える手で、羽根ペンを取った。
『第百十九版・第一項 手紙は肌に着けて持て。落とすな。』
書いてから、俺はそのペンをへし折りそうになった。
(違う)
(書くべきことは、そこじゃないだろ)
◇
俺は羊皮紙をめくって、余白のいちばん最後に書いた。
『三十四人目より。
この帳面を読む人間が、この先いるのかはわからない。
いないほうがいいと思っている。
だが、いるかもしれないので、書いておく。
女神は、歴代最高の数字を隠している。
三年前に、八十四まで行った男がいた。名前はシンヤ。十六人目だ。
そいつは「降ります」と言った翌日に、記録が途切れている。
この数字は、上がるほど危ない。あの子にとっても、自分にとっても。
女神の言葉を信じるな。
三十四人目』
◇
書き終えて、俺は窓の外を見た。
紫の空が白みはじめていた。
六十七日目の朝が来る。
(あと六日)
俺は内ポケットに手を当てた。
手紙は、そこにあった。
(――渡す)
(あいつが、村へ発つ前の夜に)
そして、その時に俺は全部言うつもりだった。
女神のことも、シンヤのことも、ヴェルナのことも、中庭の灰色の男のことも。
二十八人目が言おうとして死んだことを、全部。
(そのあと殺されるなら、それでもいい)
(朝には戻れないかもしれないけど)
俺は燕尾服の袖に腕を通した。
扉の向こうで、いつもの声がした。
「おはようございます、ユウマ様。起きていらっしゃいますか?」
「起きてる」
六の月十三日まで、あと六日。
デス:22
(第十九話につづく)




