第十七話 三か月のあいだに
六十一日目。
「ミルカ。今日、街に出る」
「またですか」
「また、だ」
「何を買ってくるんですか」
「情報だ」
「それ、お金で買えるんですか」
「たいてい、もっと高いもので払う」
ミルカは首をかしげて、それから、パンをひとつ差し出した。
「じゃあ、これ持っていってください。高いもので払うなら、腹は減らさないほうがいいです」
俺はそれを受け取って、少しのあいだ、この子に礼を言えないことを恨んだ。
言えば、余白に書かれた三十通ぶんの積み重ねを、彼女に説明することになるからだ。
◇
あの路地に、ヨナはいなかった。
二日、探した。
三日目の夕方、俺は市場の裏手にある物置小屋の陰で、その男を見つけた。
痩せ方が、前より深くなっていた。
「……よお」
「探した」
「探すなよ。目立つ」
ヨナは咳をした。乾いた、嫌な咳だった。
「言っとくが、俺はもう何も知らねえぞ」
「先代の最期のことだ」
咳が、止まった。
「……帰れ」
「あんた、あの三か月、屋敷にいたな」
ヨナの目が、初めて泳いだ。
「十六人目が死んだ三か月後に、ヴェルナ・ブラックマンは死んでる。その三か月に屋敷にいた執事は、あんた一人だ」
「……調べたのか」
「本を見つけた。十六人目が余白に書いてた。かぐや姫の説明ができなかったって」
ヨナは、長いあいだ黙っていた。
そして、地面に座り込んだ。
「……あの本、まだあるのか」
「開いたままだった。三年間」
「そうか」
彼は、両手で顔を覆った。
◇
「十六人目の名前は、シンヤっていった」
ヨナは、指の隙間から話しはじめた。
「俺が着任した時には、もう墓になってた。だから会っちゃいねえ。だが、ヴェルナ様は毎日その名前を呼んでた」
「毎日」
「執務室で、廊下で、寝室で。誰もいないのに『シンヤ』って。……最初は気味が悪かったよ」
彼は乾いた笑いを漏らした。
「あの人、それまでは完璧だったんだ。冷静で、強くて、部下に敬語を使う変わり者で。それが、三か月で崩れた」
「何があった」
「何も」
「何も?」
「そうだ。何も起きてない」
ヨナは顔を上げた。
「ただ、名前を呼ぶ相手がいなくなった。それだけだ。それだけで、人は壊れるんだよ」
◇
「そして三か月後、南のヴィッセ砦を落とす作戦があった」
俺は、その地名を書類で見た記憶がなかった。
「知らないだろうな。記録が消されてるからな」
ヨナは膝を抱えた。
「捕虜が六十人出た。処分しろって命令が下りた。それが普通だ。魔王軍じゃな」
「……」
「ヴェルナ様は、逃がした」
夕暮れの光が、物置小屋の壁を赤くしていた。
「六十人、全部だ。夜のうちに縄を切って、街道まで送って、それで戻ってきて、報告書に『処分済み』って書いた」
「バレたのか」
「三日でな」
「誰に」
ヨナは、答えなかった。
俺は待った。
風が、市場の裏を通り抜けていった。
「……七日後に、あの人は死んだ」
「戦死と記録された」
「戦場になんかいねえよ」
ヨナの声が、かすれた。
「屋敷の中庭で死んだんだ」
◇
俺は、その言葉を理解するのに時間がかかった。
中庭。
墓標が三十三個並んでいる、あの中庭。
「俺は二階の窓から見てた」
ヨナは、震える手で自分の膝を掴んでいた。
「夜中だ。中庭にヴェルナ様が立ってた。鎌を持って。逃げようと思えば逃げられたはずだ。あの人は強かったんだから」
「逃げなかったのか」
「立ってた。ただ、立ってた」
「……相手は」
「聞くな」
「ヨナ」
「聞くなって言ってんだろ!」
叫んで、彼は咳き込んだ。
長い咳だった。
俺は待った。ずっと待った。
そして、ヨナはようやく、掠れた声で言った。
「――灰色の、でかい男だ」
◇
胃の底が、冷たくなった。
「ガイゼル」
「第五幹部だ」
ヨナは頷いた。
「あの男が、命令書を読み上げてた。『第三幹部ヴェルナ・ブラックマンは、職務遂行不能と認められる』って」
「……」
「あの人は、一度も鎌を振らなかった」
「……」
「振れば勝てたかもしれねえのに、振らなかった。俺はそれを二階から見てて、震えて、動けなくて」
ヨナは自分の顔を殴るように押さえた。
「そんで一週間後に、十二の子どもがあの椅子に座った」
「……それで、逃げたのか」
「逃げたよ」
彼は俺を見上げた。
「あの子の顔を見たら、次はあの子だってわかったからだ」
◇
俺は、しばらく何も言えなかった。
言葉が出てくるまでに、たっぷり時間がかかった。
「ヨナ」
「なんだ」
「六の月十三日、ヴェルド村だ」
「……知ってる」
「来てくれ」
ヨナの目が、大きく開いた。
「何を言ってる」
「あんたが見たものを、証言できる人間は、この世界にあんた一人だ」
「証言して何になる。相手は幹部だぞ」
「わからない。だが、あいつが手を止めた時に――先代と同じことが起きるなら、そこにあんたがいるかどうかで、何かが変わるかもしれない」
「変わらねえよ」
「変わらないかもしれない」
俺は膝をついた。
執事として、ではなく。
「頼む」
「……やめろ」
「頼む、ヨナ」
「やめろって言ってんだろ!」
彼は立ち上がって、よろけながら走っていった。
俺は追わなかった。
三年逃げた男を、走って捕まえられるとは思わなかった。
◇
屋敷に戻ったのは、真夜中だった。
門をくぐると、大広間に明かりがついていた。
リーニャが、あの椅子に座っていた。
「……遅い」
「申し訳ございません」
「どこ行ってたの」
「街でございます」
「何しに」
「買い出しに」
「何も持ってないじゃない」
俺は自分の手を見た。
空だった。
朝にミルカからもらったパンさえ、ヨナの前に置いてきていた。
「……売り切れておりました」
リーニャは、何も言わなかった。
右手が、上がった。
――デス:21
◇
石造りの天井。紫の光。
「嘘が下手すぎる……」
俺は毛布の中で反省した。
四十五日目に地図の件で殺された時と、同じ失敗だ。
言えないことがある時に、下手な嘘で埋めようとする。
あいつはそれを、いちばん嫌がる。
(言えないなら)
(言えないって、言えばいいのか)
◇
六十三日目、二度目の夜。
大広間に、明かりがついていた。
「……遅い」
「申し訳ございません」
「どこ行ってたの」
俺は、椅子の前に立った。
そして、頭を下げた。
「申し上げられません」
リーニャの手が、止まった。
「……は?」
「街に行っておりました。誰かに会っておりました。何のためかは、申し上げられません」
「わたしに隠し事をするの」
「はい」
「執事のくせに」
「はい」
俺は顔を上げた。
「ただ、これだけは申し上げます。リーニャ様の不利益になることは、一切しておりません」
赤い瞳が、じっとこちらを見ていた。
長い時間だった。
俺は、鎌が出ることを覚悟していた。
だが。
「……ふうん」
リーニャは、頬杖をついた。
「じゃあ、いいわ」
「……よろしいのですか」
「あんたが嘘つかなかったから」
彼女は立ち上がって、俺の横を通り過ぎた。
そして、すれ違いざまに、小さな声で言った。
「次からは、遅くなるって言いなさい。心配するでしょ」
◇
その夜、白い部屋の夢を見た。
コツ。コツ。コツ。
「――お久しぶりです」
女神ルミナリアは、微笑んでいなかった。
光の板が、勝手に現れた。
『攻略度:34%』
「三十四」
「六十三日で三十四パーセント。前例のない数字です」
「褒めてるのか」
「いいえ」
女神は、光の板を消した。
「三十四人目。あなた、余計なことを調べましたね」
白い空間の温度が、下がった気がした。
「先代の話です。中庭の話です。灰色の男の話です」
「……」
「言ったはずです。余計なことを調べた者から順に、順調ではなくなりました」
俺は、拳を握った。
そして、言った。
「あんた、あの子を助ける気はないのか」
女神は、答えなかった。
代わりに、俺の手の甲を指さした。
紋章が、以前より薄く見えた。
「加護の残りを、お知らせしておきます」
「……」
「あと、少しです」
六の月十三日まで、あと十日。
デス:21
(第十八話につづく)




