第十六話 西棟の扉
「西棟に、開かない部屋がある」
そう気づいたのは、五十八日目の掃除の時だった。
屋敷の西の端、廊下のいちばん奥。黒い木の扉に、錆びた錠が下りていた。
ホコリが積もっていた。
この屋敷で、ホコリが積もっている場所を見たのは初めてだった。
「ミルカ。ここは」
「あ」
パンかごを抱えたミルカの角が、しゅんと下がった。
「そこは……ヴェルナ様のお部屋です」
「先代の」
「三年間、誰も入っていません。掃除も禁止されています」
「鍵は」
「リーニャ様がお持ちです」
ミルカは声を落とした。
「でも、開けられたところを見たことがありません。一度も」
◇
俺は、その日一日、その扉のことを考えていた。
ガイゼルは言った。あの人も、最後は手が止まったんだ、と。
二十八人目は書き残していた。先代の死因は戦死。だが記録の日付と部隊の位置が合わない、と。
答えは、たぶん、あの部屋にある。
そして。
(――二十八人目は、それを調べて死んだ)
俺は自分の手の甲を見た。
十九回。紋章は、まだ光っている。
(あと何回残ってるかは、わからない)
わからないなら、使うしかなかった。
◇
その夜、俺は執務室の引き出しから鍵を持ち出した。
盗みだ。執事として最悪の行為だ。
錠は、油が切れていて、動かすのに三分かかった。
扉が開いた瞬間、埃の匂いが押し寄せてきた。
三年ぶんの、時間の匂いだった。
◇
その部屋は、想像していたものと違った。
武器がなかった。
鎧も、軍旗も、戦利品もない。
本だけがあった。
壁一面、天井まで。棚に収まりきらず、床にも積み上げられている。
俺はランプを近づけた。
背表紙の文字を追う。
人間国の詩集。植物図鑑。造船技術書。子ども向けの物語。料理の本。
(――全部、人間の本だ)
魔族の国で、人間の本を集める第三幹部。
リーニャの言葉が蘇った。
あの人も、変な人だった。魔族なのに人間の本を集めてて、部下に敬語を使って、それで、めちゃくちゃ強かった。
◇
机の上に、一冊だけ開いたままの本があった。
三年間、開きっぱなしだったのだ。
俺はそれを覗き込んだ。
人間国の民話集だった。
そして、余白に。
日本語が書いてあった。
『この話、日本の“かぐや姫”に似てる。竹じゃなくて麦だけど。
ヴェルナ様に説明したら「タケとは何か」と真顔で聞かれた。
説明できなかった。
十六人目』
◇
俺は、ランプを取り落としそうになった。
十六人目。
余白にこう書いた男だ。
『加護があると聞いた。死んでも朝に戻ると。だとしたら、俺は今日、何度目なんだ?』
震えた字で、そう書いた男。
その男が、先代の私室で、主に日本の昔話を説明しようとしていた。
説明できなくて、それを書き残していた。
俺は、その数字を頭の中で並べ直した。
この本は、三年間開いたままだった。三年前といえば、ヴェルナが死んだ年だ。
そして十六人目が屋敷にいたのは――ヨナの言葉によれば、その少し前。
「俺の前の奴は六週間だ」
ヨナが着任したのが三年三か月前。ということは、十六人目が死んだのは、そのすぐ前。
(十六人目が死んで、三か月後に、先代は死んでる)
背中を、冷たいものが伝った。
六年かけて壊れたんじゃない。
失って、三か月だ。
そして、その三か月に屋敷にいた執事が、一人いる。
(――ヨナ)
あの男は、先代が壊れていく三か月を、いちばん近くで見ていたことになる。
三か月見て、次の主が十二歳の子どもに代わって、一週間で走った。
(何も言わなかったな、あいつ)
(聞いても、言わなかっただろうな)
◇
俺は、本棚を端から調べた。
見つかったのは、机の引き出しの底だった。
封のされていない、一通の手紙。
宛名だけが、表に書かれていた。
『リーニャへ』
俺は、それを持ったまま動けなくなった。
三年前に書かれて、渡されなかった手紙。
(読むべきか)
(読んでいいのか)
ランプの火が、揺れた。
俺は封を開けようとして――
「何してるの」
◇
扉のところに、リーニャが立っていた。
寝間着に外套。素振りに行く格好だ。
その顔から、表情が抜け落ちていた。
「リーニャ様、これは」
「そこ、入るなって言ったわよね」
「……申し訳ございません」
「鍵は」
「執務室から、持ち出しました」
嘘をつく場面ではなかった。
俺は膝をついた。
リーニャは、ゆっくりと部屋の中に入ってきた。
三年ぶりに、彼女はその床を踏んだ。
そして、俺の手の中の手紙を見た。
赤い瞳が、大きく見開かれ――
右手が、上がった。
――デス:20
◇
石造りの天井。紫の光。
俺は、しばらく起き上がれなかった。
(……当たり前だ)
主の私室に無断で入り、鍵を盗み、遺品を漁った。斬られない理由がない。
(だが)
(あいつ、手紙を見た瞬間に、顔色が変わった)
俺は毛布を跳ね飛ばした。
(あいつ、あの手紙の存在を知らないぞ)
(知らないのに――何を怖がった?)
◇
五十八日目、二度目。
俺は鍵を盗まなかった。
代わりに、朝の紅茶を出した後、こう言った。
「リーニャ様。西棟の突き当たりの扉ですが」
カップが、止まった。
「掃除をしてもよろしいでしょうか」
「……だめ」
「かしこまりました」
俺は下がった。
その日は、それだけにした。
◇
五十九日目。
「リーニャ様。西棟の扉ですが」
「だめって言ったでしょ」
「ホコリが積もっております」
リーニャの手が、止まった。
ホコリ。
この屋敷で、その単語が持つ意味を、彼女はよく知っている。
「……」
「私は、この屋敷の執事でございます。ホコリのある部屋があるというのは、私の失点です」
「……あんた、それを言えば通ると思ってるでしょ」
「はい」
「ずるいわ」
◇
六十日目の夜。
リーニャは、鍵を持って西棟に来た。
俺はランプを持って、その後ろについた。
錠は、彼女の手でも三分かかった。
扉が開いて、埃の匂いが流れ出した時――彼女は、一歩も動けなかった。
「リーニャ様」
「……知ってる」
小さな声だった。
「この匂い、知ってる。あの人の部屋の匂い」
「はい」
「入りたくない」
「かしこまりました。では、私が掃除を」
「――待って」
彼女は俺の袖を掴んだ。
三年間、誰にも触れなかった手が、俺の袖を掴んでいた。
「……一緒に、入って」
◇
ランプの光が、本の壁を照らした。
リーニャは、ゆっくりと部屋を見回した。
「……本、こんなにあったの」
「はい」
「あの人、いつも読んでた。何が面白いのって聞いたら、『人間は面白いことを考える』って」
彼女は棚に手を伸ばして、途中でやめた。
「わたしは、読まなかった」
「なぜ」
「読んだら、あの人みたいになると思ったから」
リーニャは、自分の言葉に自分で驚いた顔をした。
そして、静かに続けた。
「あの人、優しかったの。部下にも、捕虜にも。……それで、死んだ」
俺は、息を止めた。
「戦死じゃないのか」
「知らないわ」
即答だった。
そして、その速さが、また答えになっていた。
「知らない。知りたくない」
◇
彼女は机の前で立ち止まった。
開いたままの民話集。
その余白の、読めない文字。
「……これ、なに」
「読めません」
嘘をついた。
十六人目が、かぐや姫を説明できなかったと書き残した文字を、俺は読めないと言った。
(――今は、まだだ)
(この子に、渡すものが多すぎる)
リーニャは、その本をそっと閉じた。
三年間、開きっぱなしだった本が、閉じられた。
「掃除して」
「かしこまりました」
「……全部、丁寧にやって。あの人、几帳面だったから」
◇
彼女が出ていったあと。
俺は机の引き出しの底から、あの手紙を取り出した。
『リーニャへ』
封は、開けなかった。
代わりに、燕尾服の内ポケットにしまった。
(六の月十三日)
(あと十三日)
(渡すなら、その前の夜だ)
なぜそう思ったのかは、自分でもわからなかった。
ただ、この手紙は、彼女が何かを決める前に読むべきものだという気がした。
決めた後では、遅い気がした。
◇
その夜、余白に書いた。
『ミルカへ。
先代の部屋に入った。人間の本が壁一面にあった。
十六人目の書き込みがあった。かぐや姫の話をしようとして、失敗したらしい。
あんたと同じだ。説明できないものを、それでも誰かに話そうとした跡があった。
三十四人目』
書き終えて、俺はランプを消した。
六の月十三日まで、あと十三日。
デス:20
(第十七話につづく)




