第十五話 監察官
村を出る時、一人の男とすれ違った。
長身の若い男だった。旅装の上から剣を吊るしている。背筋がまっすぐで、歩き方に隙がなかった。
すれ違いざま、男が俺を見た。
一瞬だけ、目が合った。
それだけだ。何も起きなかった。
だが俺は、丘を登りきるまで、その視線の感触を背中から拭えなかった。
「ユウマ。遅い」
「申し訳ございません」
(……気のせいだ)
そう思うことにした。
◇
屋敷に戻ると、待っていたのは書類の山だった。
『ヴェルド村進攻 部隊配置案』
俺はそれを、五日かけて作り直した。
リーニャの言った通りに。東から囲んで、人を外に出してから焼く形に。
だが、作れば作るほど、まずいことがはっきりしてきた。
(――これ、通らないぞ)
軍事的に見れば穴だらけだ。囲みを開けて人を出すということは、そこから逃げられるということでもある。討ち漏らしが出る。時間もかかる。兵の損耗も増える。
『適性審査』の四文字が、頭の中で点滅していた。
こんな案を出せば、上はこう言うだろう。
――甘い。やはりあの子どもには荷が重い。
◇
「ミルカ。過去五年の作戦記録、全部出せ」
「また!?」
「また、だ」
「ユウマ様、最近わたしのこと、資料を出す機械だと思ってませんか」
「思ってない。パンを焼く機械だとも思ってない」
「褒められてる気がしません」
◇
五十七日目。
黒い封蝋の書状が届いた三度目の朝、ガイゼルが来た。
今度は正式な旅装で、部下を四人連れていた。
「よお、リーニャちゃん」
「監察官殿。ご苦労さま」
リーニャは執務室で、あの背の高い椅子に座って迎えた。
俺は壁際に控えた。何も言わない。目立たない。この屋敷で俺が最も上達した技術だ。
「早速だがな。作戦案、見せてもらったぞ」
ガイゼルは羊皮紙を放り投げた。
執務机の上で、それがばさりと広がった。
「これは何の冗談だ」
◇
「東の街道を開けて、住民を外に誘導。そのうえで村を焼く」
ガイゼルは、太い指で図面を叩いた。
「逃がすつもりか」
「誘導よ」
「同じことだろうが」
「違うわ」
リーニャは、まっすぐ彼を見返した。
「四百人を村の中で焼けば、死体が四百。それだけよ。外に出せば、生きたまま捕らえられる」
「捕らえてどうする」
「労働力」
俺は、その言葉を壁際で聞いていた。
(――そう来たか)
彼女は、俺が三日かけて探した理屈に、自力で辿り着いていた。
「西部戦線の補給路、人手が足りてないでしょう。書類、あなたも読んでるはずよ。四百人いれば、荷馬車の押し手が二百人は確保できる」
「……」
「焼いた村からは何も出ない。生きた村からは人が出る」
ガイゼルは、しばらく黙っていた。
そして、笑った。
「なるほどな。数字の話にすれば、上も文句は言えねえ」
「そうよ」
「――で?」
灰色の巨体が、机の上に身を乗り出した。
「本当は、なんで逃がしたいんだ」
◇
執務室の空気が、止まった。
リーニャの表情は、変わらなかった。変わらなかったが、肘掛けを握る指が、わずかに白くなった。
「意味がわからないわ」
「わかるだろ。俺はお前を三年見てる」
ガイゼルの声が、低くなった。
「三年前のお前なら、こんな案は書かねえ。北から焼いて終わりだ。実際、そう書いてただろ。一昨年のオルド村も、去年のカーレンの砦も」
その二つの地名を、俺は書類で見たことがあった。
どちらも、生存者の記録がなかった。
「変わったな、リーニャちゃん」
「……変わってないわ」
「変わったよ」
ガイゼルの視線が、ゆっくりと動いた。
そして――壁際の俺で、止まった。
「なあ、執事」
「はい」
「この案、誰が書いた」
◇
俺は、迷わなかった。
「私でございます」
嘘だった。
図面を引いたのは俺だが、案を出したのは彼女だ。
だが今この場で「リーニャ様のご発案です」と言えば、それは「あの子どもが甘くなった」という証言になる。
「ほう」
ガイゼルの目が、細くなった。
「執事が作戦案を書くのか」
「数字の整理は執事の仕事でございます。捕虜の輸送計画も、宿営の食糧計算も、すべて事務でございますので」
「へえ」
「もっとも、私が書いたのは算術だけです。判断はリーニャ様がなさいました」
我ながら、うまく綱を渡ったと思った。
功績は主に、責任は自分に。
だが。
「――そうか」
ガイゼルが、笑った。
嫌な笑い方だった。
「じゃあ、お前が甘いんだな」
丸太のような腕が、動いた。
――デス:19
◇
石造りの天井。紫の光。
「……理不尽だ」
俺は毛布の中で唸った。
「今のは俺、悪くないだろ!」
いや、悪かった。
目立った。
三十日以上かけて磨いてきた「執事は見えないほうがいい」という原則を、俺は自分から破った。かばうつもりで前に出て、結果、彼女の作戦に「執事が書いた」という汚点をつけた。
(――違う)
(俺が答えちゃいけなかったんだ)
(あいつが答えるべきだったんだ)
俺は起き上がって、羽根ペンを取った。
◇
五十七日目、二度目。
執務室。羊皮紙が机に広がる。
「――で? 本当は、なんで逃がしたいんだ」
ガイゼルの声。
俺は壁際で、息を止めていた。
(頼む)
(言ってくれ)
リーニャは、しばらく黙っていた。
そして、椅子から立ち上がった。
小さな体が、机の向こうの巨体を、まっすぐに見上げた。
「焼くのは、いつでもできるからよ」
「あ?」
「村は逃げないわ。人は逃げる。だから先に人を取る。順番の問題」
「屁理屈だな」
「戦術よ」
リーニャは机を回り込んで、ガイゼルの前に立った。
背丈は、相手の胸にも届かない。
「監察官殿。あなたは三年前、わたしがこの椅子に座った時、なんて言った?」
「……」
「ガキには無理だ、って言ったわね」
「言ったな」
「その通りだったわ」
リーニャは、あっさりと認めた。
「三年前のわたしは、焼くしか知らなかった。それしか思いつかなかったから」
赤い瞳が、まっすぐ上を向いていた。
「今は、他のやり方も書ける。それを成長と呼ばないなら、あなたが幹部会に報告しなさい。第三幹部は三年で選択肢が増えました、って」
◇
執務室が、静まり返っていた。
ガイゼルは、しばらくリーニャを見下ろしていた。
そして、鼻を鳴らした。
「……ちっ」
「お帰りはあちら」
「まだ帰らねえよ。監察官だぞ、俺は」
ガイゼルは椅子にどかりと座った。壊れかけた。
「六の月十三日、俺も現場に出る」
「知ってるわ」
「言っとくがな、リーニャちゃん」
彼は、太い指を一本立てた。
「当日、手が止まったら、俺が指揮を取る。それが監察ってもんだ」
リーニャは、答えなかった。
答えないまま、自分の椅子に戻って、腰を下ろした。
足が、床に届いていた。
◇
その夜。
俺は中庭で墓標を数えていた。三十三個。今夜も三十四個目はない。
「執事」
背後から、声がした。
振り返ると、ガイゼルが立っていた。
一人だった。手には酒瓶を持っている。
「……第五幹部様」
「かしこまるな。俺は酔ってる」
三メートルの巨体が、墓標の列に目をやった。
「三十三個か。増えたな」
「はい」
「なあ。お前、あの子の何なんだ」
「執事でございます」
「そうか」
ガイゼルは酒を飲んだ。
そして、ぽつりと言った。
「先代も、そう言ってたよ」
◇
俺は、顔を上げた。
「ヴェルナ様は、こう言ってた。『執事なんて、いくらでも来る』ってな」
「……」
「そのくせ、一人死ぬたびに、自分で墓を掘ってた」
灰色の顔が、月に照らされていた。
「あの人は強かったよ。俺なんかより、ずっとな」
「なぜ、そのお話を私に」
「さあな」
ガイゼルは酒瓶を傾けた。
「――あの人も、最後は手が止まったんだ」
心臓が、跳ねた。
「手が止まった、とは」
「聞くな」
「第五幹部様」
「聞くな」
その声には、酔いがなかった。
ガイゼルは背を向けて、歩いていった。
数歩進んで、立ち止まって、こちらを見ずに言った。
「執事。あの子に長生きしてほしいなら、余計なことを教えるな」
「……」
「知った奴から死ぬんだよ、この屋敷は」
◇
一人になった中庭で、俺は月を見上げた。
先代ヴェルナ・ブラックマンの死因は「戦死」。だが記録の日付と部隊の位置が合わない。
――あの人も、最後は手が止まったんだ。
二十八人目の残した二つ目の項目が、はっきりと形を持ちはじめていた。
(手が止まった幹部は、どうなる)
(四件とも処分されている)
俺は羊皮紙を握りしめた。
六の月十三日まで、あと十六日。
デス:19
(第十六話につづく)




