第十四話 ヴェルド村
魔族の領地から人間国の国境まで、馬車で二日。
そして道中、俺は学んだ。
リーニャ・ブラックマンは、馬車に弱い。
「……ユウマ」
「はい」
「この乗り物、揺れすぎじゃない?」
「馬車とはそういうものでございます」
「気持ち悪いわ」
「窓をお開けしましょうか」
「開けなさい」
俺は窓を開けた。風が入って、フードがめくれ、黒い髪が舞った。
リーニャは深呼吸をひとつして、それから小さく言った。
「……ありがと」
(今、なんて言った?)
俺は聞こえなかったふりをして、荷物を積み直した。
聞き返して死ぬのは、四十五日目で懲りている。
◇
国境を越えると、空の色が変わった。
紫が、薄れていた。
丘の向こうに、青い空があった。
「……あ」
俺は、思わず声を出していた。
前世で毎日見ていた色だ。何の感慨も持たずに通り過ぎていた、ただの空の色。
「なによ、変な声出して」
「いえ。空が」
「青いでしょ。人間の国はそうなの」
リーニャは、つまらなそうに言った。
「魔族の国は魔素が濃いから、紫に見えるだけ。空はどこも同じよ」
「同じ、ですか」
「同じ空の下で、殺し合ってるだけ」
十五歳が言う台詞じゃなかった。
◇
ヴェルド村は、丘のふもとにあった。
麦畑。水車。石造りの小さな教会。
そして、四百人ぶんの生活。
洗濯物が風に揺れ、犬が走り、子どもが叫び、じいさんが道端で居眠りをしていた。
リーニャは、丘の上でそれを見下ろしていた。
「東に街道。西は森。北の丘が高い」
淡々と、彼女は言った。
「北から火をかければ、風で南に流れる。南は畑だから、よく燃える」
「……」
「逃げるとしたら東の街道。そこに部隊を置けば、囲める」
俺は、何も言えなかった。
言えないまま、その横顔を見ていた。
赤い瞳は、家を見ていなかった。人も見ていなかった。
地形しか、見ていなかった。
(――そうか)
(そうやって、三年間やってきたのか)
見なければ、殺せる。
◇
「行くわよ」
「え、村へですか」
「井戸の位置と、備蓄の量を確認しないと」
リーニャはフードを深く被った。
俺は、そこで初めて、致命的な問題に気がついた。
「あの、リーニャ様」
「なに」
「その角」
黒髪の隙間から、小さな二本の角が覗いていた。
リーニャの動きが、止まった。
「……忘れてたわ」
「忘れてたんですか!?」
「だって、いつも被ってるもの」
「人間の村です! 魔族が入るんですよ!?」
「じゃあ、どうするのよ」
◇
結論から言うと、俺はその日、一度死んだ。
フードで隠して村に入り、井戸を確認し、パン屋の前を通ったところで、風が吹いた。
フードが、めくれた。
「――魔族だ!」
「魔族が出たぞ!」
村の広場に、鐘が鳴り響いた。
キーン、コーン。
(ミルカの夢だ)
そんなことを考えている場合ではなかった。
鍬を持った男たちが走ってくる。子どもが泣き、母親が家に駆け込む。
そして、俺の隣で。
リーニャの右手が、上がった。
「待――」
やめてください、とは言えなかった。
ガイゼルの時に学んだからだ。彼女の判断に執事が口を出せば、それは彼女を否定することになる。
だから俺は、別のことをした。
彼女の前に、立った。
「な――」
黒い鎌が、俺の背中を貫いた。
止まらなかったのだ。振り下ろす軌道の上に、俺が飛び込んだのだから。
倒れながら、俺は見上げた。
リーニャの顔が、真っ白になっていた。
――デス:18
◇
宿の天井。木の梁。
石造りでも紫でもない天井を見て、俺は自分がどこにいるか思い出した。
国境の宿。その日の朝。
「……そうか。朝に戻るってことは、場所も朝の場所か」
首を触る。ある。背中も、ある。
(間に合った)
いや、間に合っていない。あいつにあんな顔をさせた時点で、俺の負けだ。
俺は飛び起きて、荷物の中から布を引っ張り出した。
◇
その日、二度目の朝。
「リーニャ様。これを」
「……なにこれ」
「頭巾でございます。人間国の農婦がよく被っております。昨夜、宿の女将から譲っていただきました」
嘘だった。二時間前に叩き起こして買った。
リーニャは、その野暮ったい布を手に取って、じっと見た。
「わたしに、これを被れと」
「はい」
「魔王軍第三幹部に」
「はい」
「……ふうん」
彼女は被った。
角がきれいに隠れた。ついでに、めちゃくちゃ農村の子どもに見えた。
「変じゃない?」
「お似合いです」
「嘘つき」
「本当です」
嘘ではなかった。
ただ、似合っている方向が、たぶん彼女の望んでいる方向ではなかった。
◇
ヴェルド村は、平和だった。
俺たちは荷売りの兄妹ということにして、村に入った。
(また兄妹だ)
(もう慣れた)
リーニャは井戸を数え、納屋の大きさを目で測り、水車の水量を確かめた。
淡々と、正確に。
そして、教会の前で足を止めた。
石造りの、小さな教会だった。鐘楼に、あの鐘が下がっている。
扉が開いていて、中から子どもたちの声が聞こえた。
「……なに、あれ」
「学び舎かと」
覗くと、十人ほどの子どもが床に座って、神父らしき老人の話を聞いていた。
黒板はない。四角い机もない。
それでも。
「――ミルカ」
俺は、思わずつぶやいていた。
「なに?」
「いえ。何でもございません」
◇
その時、教会から女の子が飛び出してきた。
六つか七つか。麦わらの髪の子だった。
その子は、リーニャを見て、ぱっと顔を輝かせた。
「あ、新しい子だ!」
「え」
「授業、いっしょに聞く?」
小さな手が、リーニャの手を掴んだ。
リーニャの体が、石みたいに固まった。
(――まずい)
(触られてる。人間に。子どもに)
俺は一歩、踏み出しかけて――止めた。
止めて、見ていた。
リーニャは、掴まれた手を見下ろしていた。
その手を振り払うことも、鎌を出すことも、しなかった。
「……わたし、」
「なに?」
「わたし、六つじゃないわよ」
「わたしは六つだよ!」
「そう」
「じゃあ何個?」
リーニャは、しばらく黙ってから、ぼそりと言った。
「……十五個」
「すごい! 大人だ!」
女の子が、きらきらした目でリーニャを見上げた。
大人だ、と。
その言葉を、この世界の誰も、あいつに言ったことがなかった。
◇
リーニャは、結局、授業を最後まで聞いていった。
石の床に座って、麦わらの子の隣で、教会の窓から差す光の中で。
神父の話は、収穫の感謝と、来月の祭りの準備についてだった。何も面白くない話だった。
俺は後ろの壁にもたれて、それを見ていた。
(――女神)
(あんたの言う「攻略度」ってのは、こういうのは数えるのか?)
(数えないなら、あんたの数字はゴミだ)
◇
帰り際。
麦わらの女の子が、リーニャに小さな麦の穂を握らせた。
「はい。おみやげ」
「……なんで」
「なんとなく」
女の子は走っていった。
リーニャは、その麦の穂を持ったまま、動かなかった。
「リーニャ様」
「……なによ」
「参りましょう」
「……うん」
丘を登る途中、彼女は一度も振り返らなかった。
一度も振り返らないというのは、そうしようと決めていないとできないことだ。
◇
丘の上に着いた時、彼女は言った。
「北から火をかけるって、さっき言ったわね」
「はい」
「あれ、なし」
「……は?」
「東から囲んで、人を外に出してから焼く。そのほうが確実よ」
俺は、彼女の横顔を見た。
嘘だ、と思った。
囲んで外に出す方が確実なわけがない。逃がす分だけ、討ち漏らしが増える。軍事的には明らかに悪手だ。
十二歳で椅子に座って、三年間書類を読み続けた彼女が、それを知らないはずがない。
(――あいつ、今、逃がす算段をしてる)
俺は、口を開いた。
何を言うべきか、十八回死んだ頭で、必死に探した。
そして、言った。
「かしこまりました。部隊の配置図を作り直しておきます」
リーニャが、こちらを見た。
赤い瞳が、少しだけ揺れた。
「……あんた、何も聞かないのね」
「執事ですので」
「そればっかり」
「はい」
彼女は麦の穂を、ローブの内側にしまった。
「帰るわよ」
「かしこまりました」
◇
その夜、宿で。
俺は羊皮紙を開いて、余白に書いた。
『ミルカへ。
教会を見た。子どもが十人、床に座って話を聞いていた。
黒板はなかった。机もなかった。
でも、鐘は鳴った。キーンコーンだった。
あんたのいた場所は、たぶん、あれの立派なやつだ。
三十四人目』
ペンを置いて、窓の外を見た。
青い空が、暗くなっていた。
六の月十三日まで、あと二十日。
そして――俺はまだ知らなかった。
同じ日、同じヴェルド村に、王都から一人の剣士が到着していたことを。
村人たちが「勇者様」と呼びはじめた、その男のことを。
デス:18
(第十五話につづく)




