第八話「Continue="生きよう";」
月明かりを頼りに、僕はただ砂漠を歩き続けていた。
途中で何度か方向を変えた。村へ戻ろうとしているつもりだったけれど、正しい方向なのかなんて分からない。
見えるのは、どこまでも続く砂丘だけ。
足は痛い。体も冷え切っている。
それでも立ち止まる気にはなれなかった。
どこでもいい。
誰か。
誰か一人でもいいから——。
「…………」
俯いたまま砂を踏みしめる。
一歩。
また一歩。
そのときだった。
「……?」
遠くで、何かが光った。
ほんの小さな赤い光。
夜の砂漠の向こうで、ゆらゆらと揺れている。
僕は足を止めた。
「……火?」
目を細める。
見間違いじゃない。
——炎だ。
そこにきっと誰かがいる……。
そう思った瞬間、さっきまで鉛みたいに重かった足が勝手に動き出した。
「……っ!」
足を速める。
それでも足りなくなり、やがて走り出した。
砂に足を取られながら、それでも必死に炎へ近づいていく。
誰かがいる。
その事実だけで、胸の奥にほんの少しだけ熱が戻った。
そして同時に、ありもしない期待が、頭をよぎる。
もしかしたら。
本当に、もしかしたら——。
「レナ……」
口から名前が漏れた。
あんなものを見たのに。
血も。
鱗も。
灰も。
分かっている。
——それでも!
「レナ……!」
足が速くなる。
もしかしたら生きているかもしれない。
ラキさんも。
ロナさんも。
みんな逃げ延びて、どこかで僕を探しているのかもしれない。
「レナ!!」
近づくにつれて、炎の向こうに人影が見えてきた。
一人。
二人。
そして——三人。
「……三人」
心臓が大きく跳ねた。
考えるより先に叫んでいた。
「レナあぁああ!! ラキさん!! ロナさん!!」
返事はない。
それでも、僕は走った。
「……うっ……レナぁぁぁ!!」
残っていた力をすべて振り絞って、炎へ向かって駆ける。
あと少し。
もう少しで——。
——ドンッ!
顔と体に、突然強い衝撃が走った。
何もない空間に、正面からぶつかった。
その勢いのまま大きく弾き飛ばされ、背中から砂の上へ叩きつけられる。
「がっ……!」
肺から空気が押し出された。
……何が起きた?
目の前には何もない。
壁も。
岩も。
なのに、そこには確かに何かがある。
見えない壁。
起き上がろうと腕に力を込める。
でも、もう体が言うことを聞かなかった。
「レ……ナ……」
ぼやけていく視界の向こうで、人影が動く。
炎のそばにいた三人が、こちらへ近づいてきていた。
誰かが何かを叫んでいる。
でも、もう聞き取れない。
「…………」
そこでようやく気づいた。
……レナじゃない。
三人の背中には、翼がなかった。
頭にも、角がない。
期待していたものが、一瞬で崩れた。
張り詰めていた糸が切れたように、全身から力が抜けていく。
最後に見えたのは、僕へ駆け寄ってくる三人の姿だった。
そこで僕の意識は、再び途切れた。
//——
『レイ……!』
声がする。
遠くから聞こえていたはずなのに、その声は少しずつ近くなってくる。
『レイ!!』
レナだ。
聞き間違えるはずがない。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
——ああ。レナの声だ。
『レイ! いい加減起きないと、お母さんが怒るよ!』
その声と一緒に、懐かしい匂いがした。
何度も嗅いだことのある、朝ご飯の匂い。
鍋の中で何かが煮える音。
食器を並べる小さな音。
いつもの朝だ。
『そうだぞ、レイ。ロナを待たせるとどうなるか……』
ラキさんの声がする。
『レイ? 悪い子にはご飯抜きよ?』
今度はロナさん。
『ほら、レイってば! 起きて!』
そして、またレナの声。
……あぁ。
起きなきゃ。みんなが待ってる。
重たいまぶたの向こうに、見慣れた家の中がぼんやりと浮かんでいる気がした。
朝の光が差し込む窓。
いつもみんなで囲んでいた焚き火。
その向こうで、レナが頬を膨らませながら僕を呼んでいる。
ラキさんは呆れたように笑っていて、その隣ではロナさんが朝ご飯を並べている。
いつもと何も変わらない。
昨日までずっとそこにあった、僕の日常。
でも……もう少しだけ、このままでいたい。
温かい。
安心する。
ここにいれば、何も怖くない。
僕の大好きな日常だ。
レナがいて。
ラキさんがいて。
ロナさんがいて。
みんなでご飯を食べて、くだらないことで笑って。
今日が終わっても、また明日が来る。
明日が終わっても、その次の日が来る。
そんな毎日が、これからもずっと続いていく。
ずっと——。
そう思った瞬間、目の前の景色が白く滲んだ。
「……あれ?」
レナの顔がぼやけていく。
ラキさんも。
ロナさんも。
さっきまで聞こえていた食器の音も、鍋の音も、少しずつ遠くなっていく。
「待って……」
手を伸ばそうとする。
でも、届かない。
レナが何かを言っている。
けれど、その声はもう聞こえなかった。
代わりに、まぶたの向こうから強い光が差し込んでくる。
……眩しい。
「……レナ?」
ゆっくりと目を開ける。
返事はなかった。
朝ご飯の匂いもしない。
食器の音も聞こえない。
目の前に広がっていたのは、見慣れた家の天井ではなかった。
——そこは、砂漠だった。
「……え?」
レナも。
ロナさんも。
ラキさんも。
どこにもいない。
「待って……」
僕は起き上がろうとした。けれど、体が動かない。力が入らないというより、体そのものが自分のものじゃなくなったみたいだった。
「……?」
それどころか、胸のあたりに妙な冷たさを感じる。
何だ?
確かめるように視線を下へ向けて、息が止まった。
服も肌も、上半身が真っ赤に染まっている。
胸から腹にかけてべったりと血がこびりつき、服から染み出した赤が砂にまで広がっていた。
「な……に、これ……」
こんなに血が出ているのに、不思議と痛みはない。
ただ、冷たい。体の中から少しずつ何かが抜け落ちていくような、気持ちの悪い冷たさだけが残っている。
腕を動かそうとしても、やっぱり指一本動かなかった。
そのとき——。
ザッ。
砂を踏む音がした。
ザッ。
一歩。
ザッ。
また一歩。
誰かがこちらへ近づいてくる。
なのに、おかしい。
足音は確かに近づいているはずなのに、どこから聞こえているのか分からない。右から聞こえたと思えば、次の瞬間には真後ろから聞こえる。
首を動かすこともできない僕には、確かめることすらできなかった。
ザッ。
また一歩。
心臓が、その音に合わせるように大きく跳ねる。
来る。
誰かが来る。
まだ姿も見えていないのに、体の奥が逃げろと叫んでいた。
来るな。
来ないでくれ。
けれど、足音は止まらない。
やがて視界の端に影が落ちた。人の形をした黒い影がゆっくりと僕の上へ覆いかぶさり、一人の男の顔が視界に入り込む。
金色の髪。
細められた目。
薄く吊り上がった口元。
見覚えのある顔だった。でも、一瞬だけ名前が出てこない。
——誰だ?
「誰だ、じゃないだろ」
「…………え?」
男が笑った。
「ひどいな、お前」
背筋が凍った。
今のは、声に出していない。
僕は何も言っていない。
なのに、こいつは僕の考えに答えた。
おかしい。
そう思うのに、なぜかそれ以上疑問には感じなかった。
「…………!」
そこで記憶が繋がった。
忘れるはずがない。忘れられるはずがない。
——ザヴィ・レイヤード。
あの男だ。
「ひっ……」
息が引きつった。
怖い。
逃げたい。
叫びたい。
見たくない。
なのに体は動かず、目を閉じることすらできない。
ザヴィはそんな僕を見下ろしながら、楽しそうに口元を歪める。
「お前、自分の大事な家族を殺した男の顔を忘れるのか?」
「…………」
「酷いやつだな」
「……い……」
喉から、かすれた声が漏れた。
「……いや……だ……」
「嫌だ?」
ザヴィが首を傾げる。
「お前、本当に悲惨なやつだな」
笑っている。
僕が怯えているのを楽しむみたいに。
「お前のせいで、全員死んだ」
「……違……」
「レナも」
やめろ。
「ラキも」
やめて。
「ロナも」
聞きたくない。
耳を塞ぎたいのに、腕は動かない。それどころか、ザヴィの声だけが異様にはっきりと耳の奥へ入り込んでくる。
「村の連中も、全員」
「やめろ……」
「全部、お前のせいだ」
「あ……あぁ……」
違う。
僕が殺したんじゃない。
そう言いたいのに、声にならない。
——お前のせいだ。
——お前が弱いから。
——全員死んだ。
——全部、全部全部全部、お前のせいだ。
ザヴィの声が頭の中で何度も繰り返される。目の前の男はもう口を動かしていないのに、それでも声だけが聞こえ続けていた。
「それなのに、今度は自分だけ命乞いか?」
「ちが……僕は……」
「情けないな」
ザヴィがゆっくりと手を上げた。
その手のひらを見た瞬間、あの時の恐怖が一気に蘇る。
まずい。
逃げなきゃ。
逃げろ。
逃げろ。
——逃げろ!
頭の中では叫んでいるのに、体はぴくりとも動かない。
まただ。
また、何もできない。
「じゃあ——」
ザヴィが笑った。
僕が一番見たくなかった笑顔で。
「死ね」
次の瞬間——。
轟音とともに、世界が真っ白に弾けた。
次の瞬間、何かが僕の中へ流れ込んできた。
それが何なのか理解するより先に、見覚えのない光景が次々と頭の中を駆け抜けていく。
知らない景色。
知らない場所。
知らない人。
青い空。見たことのない街。巨大な何か。誰かの笑顔。泣いている人。伸ばされた手。
一つの景色を理解するよりも早く、次の景色が上から塗り潰していく。
「な……んだ……これ……」
僕の記憶じゃない。
絶対に違う。
こんな場所を知らないし、こんな人たちにも会ったことがない。
そう思うのに、胸の奥だけが知っていると訴えていた。
初めて見るはずの景色なのに、ずっと昔に一度見たことがあるような、不思議な感覚が消えない。
映像はどんどん速くなっていく。
頭が追いつかない。
「やめ……」
これ以上入ってきたら、頭がおかしくなる。
そう思った瞬間、すべての映像がぴたりと止まった。
「……?」
音まで消えた。
自分の呼吸も、心臓の音も何一つ聞こえない。
——真っ白な場所だった。
部屋なのか、外なのか、それすら分からない。壁も床も天井もない。それなのに僕は、確かにそこに立っていた。
足元を見ても何もない。影すら落ちていない。
ただ、どこまでも白い。
果てがあるのかどうかすら分からないほど、真っ白な世界。
そして、その中央に一人の女性が立っていた。
僕に背を向けている。
腰よりも長い真っ白な髪は、風なんてないはずなのに、水の中にでもいるようにゆっくりと揺れていた。
身につけている服も白い。肌も異様なほど白い。
いや。
白いというより、淡く光っているように見えた。輪郭が周囲の白へ溶け込んでいて、じっと見ていると、どこからが彼女の体なのかさえ分からなくなってくる。
人間……?
そう思ったのに、すぐに違うと感じた。
理由なんて分からない。角も翼もなく、見た目だけなら普通の人間と変わらないはずなのに、本能みたいなものが自分と同じものだと思ってはいけないと訴えている。
さっきザヴィを見たときとは違う。
怖い。
でも、逃げたいとは思わなかった。
むしろ、目を離してはいけないような気がした。
「……誰?」
僕の声が、何もない世界へ吸い込まれていく。
女性がゆっくりと振り返った。
真っ白なまつ毛。
白い瞳。
瞳孔さえ見えない。
そして、その顔には穏やかな微笑みが浮かんでいた。
僕を見つけて安心したみたいな、優しい笑顔。
「…………」
息を呑む。
……知らない。
絶対に知らない人だ。
会ったことなんてない。
——なのに。
どうしてだろう。
懐かしい。
ずっと昔から知っているような気がする。それどころか、ずっと会いたかった人にようやく会えたような、不思議な安心感さえあった。
女性は何も言わず、ただ僕を見つめて微笑んでいる。
その笑顔には喜びも悲しみも見えない。
優しいはずなのに、何を考えているのかまるで分からなかった。
「……あなた……誰なの?」
返事の代わりに、女性の唇が動いた。
「——————よ。————え」
「……え?」
声は聞こえた。
なのに、大切なところだけが抜け落ちている。
「何……?」
女性は変わらず微笑んだまま、もう一度口を開いた。
「——の——よ。——か———え」
まただ。
言葉は聞こえているはずなのに、ところどころだけ音が消えている。
まるで誰かが、僕に聞かせないようにしているみたいだった。
「分からない……」
僕がそう言っても、女性の微笑みは変わらない。
怒ることも、困ることもない。
ただ静かに僕を見つめながら、何かを伝えようとしている。
「聞こえないよ! もう一回言って!」
女性は答えない。
ただ、変わらない笑顔で僕を見つめている。
そのとき、僕の体が不意に後ろへ引っ張られた。
「え……?」
女性の姿が遠ざかっていく。
足を動かそうとするが、止まらない。体だけがどんどん後ろへ流されていく。
「待って!!」
女性は追いかけてこない。
手を伸ばすこともしない。
ただ最初から変わらない穏やかな微笑みを浮かべたまま、遠ざかっていく僕を静かに見つめていた。
まるで——こうなることを最初から知っていたみたいに。
「何なの!? ここはどこなの!? あなたは誰なの!?」
返事はなかった。
白かった世界が、端から少しずつ黒く染まっていく。
闇が白を飲み込み、女性の姿もその中へ消えていく。
それでも最後まで、彼女の表情だけは変わらなかった。
優しく。
静かに。
僕へ微笑んでいた。
「待って……!」
やがて、その姿も完全に見えなくなった。
何もなくなった。
音も。
光も。
あの女性も。
最後まで、言葉の意味は分からなかった。
ただ、あの笑顔だけが妙に頭から離れなかった。
初めて会ったはずなのに。
ずっと前から、僕のことを知っていたような——。
そんな気がした。
その奇妙な感覚だけを胸に残して、僕の意識は再び深い闇の底へと沈んでいった。
//——
——パチッ。
どこか遠くで、何かが弾ける音がした。
…………。
——パチッ。
また聞こえる。
——パチッ。
何の音だろう。
でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ、どこか懐かしい。
温かくて。
安心する。
この感じを、僕は知っている。
——初めてこの世界へ来た日。
砂漠で倒れ、何も分からないまま目を覚ましたときも、こんな感覚だった。
あのとき、目を開けた僕の前には——。
「……レナ……?」
重たいまぶたを、ゆっくりと開く。
ぼやけた視界の向こうで、誰かが僕を覗き込んでいた。
黒い髪が揺れている。
一瞬だけ期待した。
でも——違う。
そこにいたのは、レナじゃなかった。
「……っ! レイさん!」
黒髪の女性が、大きく目を見開いた。
その顔にはすぐに安堵が広がり、胸を撫で下ろすように息を吐く。
「よかった……! 本当によかった……目を覚ましてくださって……!」
「……シーラ……さん?」
今朝、砂漠で出会った商人のシーラさんだった。
まだ頭がぼんやりしている。
視線を少し横へ動かすと、焚き火を挟んだ向こう側に、見覚えのある小柄な男の人が二人いた。
スガルさんとドガルさんだ。
どうして三人がここに?
「どう……して……」
声を出すだけで、喉がひどく痛んだ。
シーラさんは僕のそばへ膝をついたまま答える。
「レイさんたちとお別れした後のことです。お二人が戻られた方角から、尋常ではないほど大きな魔力を感じましたの」
「尋常じゃ……ない、魔力……」
「ええ」
シーラさんの表情が曇る。
「ただ事ではないと思いまして、わたくしたちも急いでこちらへ向かいました」
その言葉を引き継ぐように、ドガルさんが続ける。
「じゃが、向かっている途中でその魔力がぷつりと消えての。どこへ行けばいいのか分からなくなってしまったんじゃ」
ドガルさんはそこで一度言葉を切った。
「仕方なく、しばらくその場で休憩しておったんじゃが……突然、結界のほうから大きな音がしての。
何事かと見に行ってみれば、お主が倒れておったというわけじゃ」
「……結界」
あの見えない壁。
そうか。あれは、この人たちが張っていた結界だったんだ。
あの結界にぶつかって、僕は意識を失った。
そこまで思い出したところで、意識を失っている間に見ていた光景がふいに頭をよぎった。
真っ赤に染まった、自分の身体。
思わずお腹へ目を落とす。
夢の中では、あれだけ血まみれだった。
けれど今は、そんなものどこにもない。
ほっと胸を撫で下ろしたところで、もう一つの違和感に気づく。
「……あれ?」
痛くない。
あの男に強く殴られた胸。
息をするだけでも痛かったはずなのに、今は何ともなかった。
服には吐いた血がわずかに残っている。それなのに、胸を押してみても痛み一つない。
「傷はもう大丈夫ですわ。私が治しておきました」
「それより——」
シーラさんが僕の顔を覗き込む。
「一体、何があったのですか?」
「……何が?」
その言葉を聞いた瞬間、頭の中に、映像が浮かんだ。
ラキさんの腕の中。
空を飛んでいた。
そして遠くに見えた、夜空を染めるほどの巨大な炎。
村へ戻って。
——あいつがいた。
ラキさんが戦って。
僕は逃げて。
それから——。
レナと。
レナと——。
「…………あ」
胸の奥が、急に痛くなった。
息ができない。
「……あぁ……」
「レイさん?」
「う……ぁ……」
違う。
思い出したくない。でも、止められない。
頭の中に、あの光景が次々と蘇ってくる。
「うぁああああああああああっ!!」
叫び声が勝手に喉から飛び出した。
「レイさん!?」
胸を押さえる。
苦しい。
胸の奥を、誰かに力いっぱい握り潰されているみたいだった。
頭が熱い。
耳の奥で、自分の心臓の音が鳴り続けている。
ドクン。
……ドクン。
…………ドクン。
「僕は……」
唇が震える。
「僕は……僕は……!」
「レイさん、落ち着いてください!」
「僕が悪いんです!!」
声を出した瞬間、自分で言ったその言葉が、胸の奥へ突き刺さった。
「僕が……弱かったから……僕のせいで!」
違う。
言いたくない。
認めたくない。
でも、言葉が止まらない。
「みんな……みんな……!」
喉が震える。
「死んじゃったんだ……」
その言葉が自分の耳に届いた瞬間、胸の奥に押し込めていたものが、どうしようもない現実に変わった。
本当に、全部が終わってしまったような気がした。
もう、みんないない。
ラキさんも。
ロナさんも。
レナも。
僕だけが生き残った。
「僕が……もっと強かったら……」
助けられたかもしれない。
もっと何かできたかもしれない。
もっと。
もっと。
もっと——。
考えれば考えるほど、自分を責める言葉ばかりが浮かんでくる。
「僕は逃げただけなんです……! 何もできなかった……! 僕だけ……僕だけ……!」
「レイさん」
「僕なんか……」
喉の奥から、かすれた声が漏れた。
「僕なんか、生きてても……」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど、その考えが自然に胸へ落ちてきた。
そうだ。
何のために生きるんだ。
帰る場所もない。
待ってくれている人もいない。
大切だった人たちは、みんないなくなった。
僕だけ生き残って。
——何になるんだ。
「もう……いいんです……」
「……レイさん?」
「もう……どうでも……」
視線が落ちる。
「僕も……レナのところに……」
そこまで言った瞬間。
シーラさんの表情が変わった。
「レイさん」
「…………」
さっきまでとは違う。
少しだけ強い声だった。
「こちらを見てください」
「…………」
「レイさん」
それでも顔を上げられない僕に、シーラさんは少しだけ間を置いて——。
「……レイ君」
「…………え?」
初めて、そう呼ばれた。
ゆっくりと顔を上げる。
シーラさんは、悲しそうな顔で僕を見ていた。
「レイ君は、すごい人ですわ」
「……僕が?」
「ええ」
シーラさんは小さく頷いた。
「まだこんなに小さいのに、今日、わたくしたち三人を助けてくださいましたでしょう?」
「…………」
「わたくしたちが、あのときどれほど絶望していたか……レイ君はご存じないでしょうね」
シーラさんは静かに続ける。
「あの魔物に呑み込まれて、何をしても外へ出られなくて。もうここで死ぬのだと、わたくしは本気で思っておりました」
「…………」
「スガルも、ドガルも同じです。三人とも、もう諦めかけていました」
そこで、シーラさんは少しだけ笑った。
「そんなとき、レイ君が来てくださった」
あのときのことを思い出す。
バルガに呑み込まれた三人。
僕はただ、自分にできそうなことをやっただけだ。
「そして、わたくしたちを助けてくださいました。あれほど巨大な魔物から、たった一人で」
「でも……」
「本当に、すごい力ですわ」
「…………」
「レイ君は、本当にすごい」
シーラさんが、もう一度そう言った。
けれど、その顔からゆっくりと笑みが消えていった。
僕を見つめる瞳が揺れる。
そして何かに気づいたように、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……でも」
シーラさんの手が伸びてくる。
何をするのかと思った次の瞬間。
僕の体は、柔らかな温もりに包まれた。
「え……」
抱きしめられていた。
優しく。
壊れ物を扱うみたいに、そっと。
「レイ君は……まだ子供なのですよ」
耳元で、シーラさんの声が聞こえた。
「…………」
「わたくし、忘れておりました」
背中に回された手に、少しだけ力が込められる。
「不思議な力を使って、わたくしたちを助けてくださって……あまりにも立派に振る舞っていらっしゃったから、つい忘れてしまっていました」
シーラさんの手が、ゆっくりと僕の頭を撫でる。
「でも、こうして見ると……まだこんなに小さい」
「…………」
「本当なら、大人に守られていてもおかしくない年頃ですのに」
その言葉を聞いた瞬間。
胸の奥が、また痛くなった。
守られる。
その言葉で思い出してしまう。
ラキさんの大きな背中。
ロナさんの優しい笑顔。
そして。
いつも僕の隣にいてくれたレナ。
「僕が……」
「…………」
「もっと……僕が……」
「大丈夫です」
「でも……」
「大丈夫」
頭を撫でる手は止まらない。
「全部の責任を、レイ君一人が背負う必要なんてありません」
「……違います……僕が……」
「違いませんわ」
いつもの上品な口調。
でも今は、どこか母さんに叱られているときのような、不思議な温かさがあった。
「わたくしたちがもっと早く辿り着いていれば、何かできたかもしれません。 別の誰かがそこにいれば、結果が変わったかもしれません」
「…………」
「だから、何もかもをレイ君一人のせいにすることなんて、誰にもできません」
「でも……僕は……」
「大丈夫」
「僕が……もっと……」
「大丈夫です」
「僕が……」
「大丈夫」
何度否定しても。
何度自分を責めても。
シーラさんは同じ言葉を返してくれた。
頭を撫でながら。
僕を抱きしめながら。
何度も。
——何度も。
「大丈夫ですよ」
「…………っ」
その声を聞いているうちに、出なくなっていた涙が、一滴だけ頬を伝った。
「あ……」
それをきっかけに、堰を切ったように涙が溢れ出した。
「僕が……ぼ……くが……っ、うぅ……」
「ええ」
「うぁあああああああああっ!!」
シーラさんの胸に顔を押しつけ、声を上げて泣いた。
苦しい。
悲しい。
寂しい。
レナ、ラキさん、ロナさんに会いたい。
もう一度、声が聞きたい。
もう一度、一緒にご飯を食べたい。
もう一度、くだらないことで笑いたい。
「レナ……っ! ラキさん……! ロナさん……」
「…………」
シーラさんは何も言わなかった。
ただ、僕を抱きしめてくれていた。
背中を優しくさすりながら。
時々、頭を撫でながら。
まるで泣き止ませようとするのではなく、泣きたいだけ泣いていいと言ってくれているみたいだった。
「大丈夫」
優しい声がする。
「大丈夫ですから」
その言葉だけを、何度も繰り返してくれた。
//——
どれくらい泣いていたのか分からない。
気づけば、あれほど激しかった嗚咽も少しずつ小さくなっていた。
「…………」
シーラさんの服を握ったまま、ゆっくりと息を吐く。
辛い。
何も変わっていない。
レナが死んだことも。
ラキさんやロナさんがいなくなったことも。
どれだけ泣いたって、変わらない。
胸の奥には、まだ大きな穴が開いている。
たぶん、明日になったって痛い。
その次の日も。
ずっと痛いのかもしれない。
「……シーラさん」
「はい」
「僕……」
言葉が詰まった。
さっきまで、もう終わりにしてしまいたいと思っていた。
レナのところへ行きたいと、本気で思った。
今だって、その気持ちが全部消えたわけじゃない。
でも——。
目を閉じる。
レナの顔が浮かんだ。
初めて会った日。
言葉が通じない僕に水をくれた。
笑いながら、この世界の言葉を教えてくれた。
僕が怖くて動けなくなったときは、前に立って守ってくれた。
最後だって。
自分が危険なのに、僕を守ろうとしてくれた。
ラキさんも。
ロナさんも。
いつだって僕を生かそうとしてくれた。
「…………」
もし今ここにレナがいて、僕が、
『もう死にたい』
なんて言ったら。
どんな顔をするだろう。
きっと。
「……怒るだろうな」
小さく呟いた。
「え?」
シーラさんが僕を見る。
「レナだったら……」
『何言ってるの!』
そんな声が聞こえてくる気がした。
『せっかく助かったんだから、生きなきゃ駄目でしょ!』
きっと、レナならそう言う。
ラキさんだって。
ロナさんだって。
僕を助けたことを後悔するようなことは、望まないはずだ。
「…………」
僕は何度も、あの三人に助けられた。
この世界で初めて倒れたときも。
帰る場所がなかったときも。
何も分からなかったときも。
ずっと。生きられるようにしてくれた。
だったら。
ここで僕が全部終わらせたら。
その全部を、無駄にしてしまう気がした。
「……怖いです」
「ええ」
「これから……どうすればいいのかも、分かりません」
「ええ」
「また……死にたいって思うかもしれない」
シーラさんは否定しなかった。
ただ、僕の手を握ってくれた。
「それでも構いません」
「…………」
「そのときは、また誰かに頼ればいいのです」
優しく笑う。
「一人で全部抱え込む必要なんてありませんわ」
「…………」
僕は握られた手を見る。
温かい。
一人じゃない。少なくとも今は。
悲しみは消えていない。
きっと、簡単には消えない。
レナのことを思い出せば、また泣くと思う。
もう全部終わりにしたいと思う日だって、あるかもしれない。
それでも——
生きよう。
今は、それだけでいい。
レナたちが何度も守ってくれた、この命を。
今度は僕自身が、投げ出さないようにしようと思った。




