第七話「BREAKPOINT();」
//—— Rei ——
ラキさんが、僕を見る。
何も言わなかった。
ただ、その目だけで分かった。
——レナを頼んだ。
そう言っているような気がした。
「……っ」
僕は歯を食いしばり、レナの腕を掴んだ。
「行くよ!」
「嫌っ!」
全力で引っ張る。
でも、レナは動かなかった。
「お父さん!!」
泣き叫ぶ。
「嫌だ! お父さん! お父さん!!」
何度も。
何度も。
その声を聞くたびに、胸が締めつけられる。
僕だって嫌だ。
ラキさんは、この世界に来てから僕を家族として迎えてくれた。
血なんてつながっていない。
それでも。
僕にとっては、もうお父さんと同じくらい大切な人だ。
逃げたくない。
僕も残りたい。
何かできるかもしれない。
でも——。
「…………」
これは。
そんなことを言っていられる相手じゃない。
ラキさんはすでに僕たちへ背を向けていた。
剣を構え、金髪の男と向かい合っている。
僕の視界に、二人のステータスが浮かび上がる。
player_Raki
{
Name = "Raki"
Level = 728
HP = 32027
MP = 57440
……
}
初めてラキさんのステータスを見たとき、僕はその数字に絶句した。
レベル七百二十八。
僕からすれば、化け物みたいな強さだった。
でも。
その先にいる男は——。
player_XaviLayerd
{
Name = "XaviLayerd"
Level = 2361
HP = 167800
MP = 351880
……
}
「…………」
桁が違った。
レベル二千三百六十一。
あれだけ化け物じみていたラキさんの数字が、小さく見える。
勝てない。
数字だけで、嫌というほど分かってしまう。
そしてラキさん自身も分かっていた。
だから。
『絶対に生きろ!!』
あんなことを言ったんだ。
「……っ」
奥歯を強く噛みしめる。
(ごめんなさい、ラキさん)
僕はもう一度レナを引っ張った。
「行くよ!」
「嫌だ!!」
「レナ!」
「もう嫌だよ!! お母さんも! お父さんまで!!」
動かない。
力いっぱい引っ張っているのに、僕のほうが引き戻されそうになる。
やっぱり竜人族だ。
僕なんかとは、力が違いすぎる。
「レナ!!」
僕はレナの頬を両手で挟んだ。
無理やり僕のほうを向かせる。
「聞いて!!」
「っ……!」
涙でぐしゃぐしゃになった赤い瞳が、僕を見る。
「お父さんの覚悟を無駄にしちゃ駄目だ!!」
「…………!」
「僕だって嫌だよ!」
声が震えた。
「でも! 僕たちがここに残ったら、ラキさんは僕たちを守りながら戦わなくちゃいけない!」
「…………」
「だから行こう!」
レナの腕から、ほんの少し力が抜けた。
今しかない。
その隙に、全力で腕を引く。
走った。
「お父さん……!」
レナが振り返る。
直後。
——ドォォォン!!
背後から、とてつもない衝突音が響いた。
「っ!」
地面が揺れる。
砂埃が一気に舞い上がり、もうラキさんの姿は見えなかった。
何が起きているのか分からない。
振り返るな。
走れ。
今の僕にできることを考えろ。
視界に自分のステータスを表示する。
Level = 5
HP = 53
MP = 12
PP = 16
走りながら考える。
残りPPは十六。
何を書く?
どうすれば逃げられる?
どうすれば——。
「……そうだ」
ステータス。
僕には、この世界のプログラムが見える。
だったら自分自身のステータスを書き換えることはできないのか?
『Edit』
走りながら、編集画面を開く。
いつもの黒い画面が現れた。
僕は頭の中でキーボードへ指を置く。
Level *=
そこまで入力した瞬間。
「……っ」
文字の下に、赤い波線が表示された。
エラー。
その下に、小さな文字が浮かび上がる。
『Access Error: Variable "Level" is read-only.』
read-only——読み取り専用。
つまり——。
「見ることはできても……書き換えられないってことか」
駄目だ。
さすがにそんな都合よくはいかない。
「だったら……!」
周囲を見る。
砂。
どこを見ても砂。
地平線の向こうまで。
この場所で僕が誰よりも大きな力を引き出せるもの。
それがあるとすれば、間違いなくこの砂漠だ。
でも……。
砂を増やしたところで、どうする?
地面の砂を九万九千九百九十九倍にしたところで、増えた砂は行き場を失って上へ吹き飛ぶだけだ。
それだけで、あの男を倒せるとは思えない。
「…………」
だったら。
小瓶の砂を頭上に投げて、何度もHelloWorldを実行するのは?
九万九千九百九十九倍。
さらに九万九千九百九十九倍。
それを繰り返せば、とんでもない量になる。
さすがに、あの男だって——。
「……いや、そもそも駄目だ」
すぐに考えを捨てる。
そんな量の砂を一気に増やせば、あの男どころか僕とレナまで巻き込まれる。
何より、それじゃあいつには当たらない。
あの男の速さは異常だ。
さっきだって、逃げた僕たちに一瞬で追いついた。
必要なのは、力じゃない。
不意打ちだ。
あいつが攻撃だと気づいたときには、もう避けられないような——。
完全に虚を突く一撃が必要だ。
「…………」
何か。
何かないのか。
僕の力だからできること。
砂漠だからできること。
あの男が、絶対に予想できないこと。
ゲームを作っていたときだってそうだった。
一つの処理だけじゃできないことでも、別の処理と組み合わせれば——。
「…………」
「…………あ」
足が止まりかけた。
一つ。
思いついた。
もし、あいつの"見えていない場所"から攻撃できるとしたら——。
「……できるかもしれない」
倒す必要はない。
あんな化け物。
僕が倒そうなんて考えるほうがおかしい。
必要なのは——逃げるための時間だ。
僕とレナが逃げるための時間だけ稼げればいい。
そしてこの方法なら、僕にしかできない。
この砂漠だからこそできる。
「…………」
僕は"AddWater"のコードを開いた。
m *= 9;
倍率を書き加えていく。
m *= 99999;
PPが減る。
そのときだった。
背後が白く染まった。
「——っ!?」
振り返る暇すらなかった。
次の瞬間。
ドォォォォォォォォォォン!!
「ぐっ——!」
体が宙を舞った。
「……っレナあぁあ!!」
地面へ叩きつけられる。
「がっ……!」
胸に、今まで感じたことのない痛みが走った。
息ができない。
「ごほっ……!」
咳と一緒に、口から血が落ちる。
立たないと。
逃げないと。
そう思うのに。
腕に力が入らない。
「……レ、ナ……」
霞む視界を動かす。
右斜め。数十メートル先。
レナがいた。
生きている。
でも、地面に座り込んだまま、怯えた顔で動けなくなっていた。
そして。
レナの前に金髪の男が立っていた。
分かる。
この後、何が起こるのか。
僕たちは殺される。
「……嫌だ」
こんなの嫌だ。
レナを守るって決めた。
強くなるって決めた。
今日だってそのために初めて一人で魔物を倒した。
なのに。
ここで終わる?
「……ふざけるな」
震える腕で地面を掴む。
立てない。
だったら。
このままでいい。
僕はレナと男の間へ視線を向けた。
砂。
そこにある砂だけを意識する。
「HelloWorld」
男がこちらを見る。
「Execute」
瞬間。
——ドンッ!!
レナと男の間の砂が爆発するように増えた。
「きゃっ!」
勢いに押され、レナの体が後方へ吹き飛ばされる。
これでいい。
あいつから離せれば。
でも。
男は動かなかった。
「…………ほう」
足元から大量の砂が噴き上がったというのに。
ただ、不思議そうに僕を見ている。
「…………っ」
僕は背中に残っていた小瓶を掴む。
中身は——水。
最後の一本。
それを。
男へ向かって投げた。
瓶が宙を舞う、男の頭上へ。
「AddWater」
男が瓶を見上げる。
「Execute!!」
パリンッ!!
瓶が砕けた。
次の瞬間。
空が水で埋まった。
「…………?」
およそ——五万リットル。
重さにすれば、約五十トン。
巨大な水の塊が、一気に落下する。
ズドォォォォォォン!!
地面が揺れた。
水が四方へ弾け飛び、僕の方まで広がる。
でも。
「ははっ」
「…………」
笑っていた。
男は片手を頭上へ掲げている。
たったそれだけで、五十トン近い水を受け流していた。
「面白いな、お前」
水が男の腕を伝い、地面へ流れ落ちていく。
「お前——」
男が僕を見る。
「神の子か?」
「…………」
神の子。
何を言ってるんだ。
意味なんて分からない。
そんなこと今はどうでもいい。
「…………」
僕は笑った。
「?」
男が眉を動かす。
だけどもう遅い。……計画通りだ。
僕が見ているのは男じゃない。
その足元。
水が、砂へ染み込んでいる。
乾ききった砂が水を吸い込む。
男の足元だけ。
そのさらに下へ染み込んだ水だけを、僕は意識した。
そして。
ゆっくり口を開いた。
「Execute」
瞬間。
目の前の男の地面が爆発した。
——ドッッッッッッッッ!!
その衝撃は僕の方まで来る。
気づけば体が浮いて、後方に吹き飛んでいた。
空中でかすかに見える。
初めて。
男の顔から笑みが消えていた。
足元の砂へ染み込んだ大量の水。
さらに九万九千九百九十九倍へ膨れ上がろうとする。
逃げ場を失った水が、砂をまとめて上空へ吹き飛ばした。
轟音。
地面がえぐれる。
巨大な穴が生まれる。
男の体が、初めて宙へ浮き穴に落ちかけていた。
「まだ……!」
これだけじゃない。
吹き飛んだ砂。
舞い上がった砂。
崩れ落ちようとしている砂。
男の周囲。
僕はその範囲を一つとして意識する。
そして。
増やす。
「HelloWorld——」
喉から血の味がする。
それでも叫ぶ。
「Execute!!」
——轟音。
音というより衝撃だった。
増殖した砂が行き場を失い、あらゆる方向へ爆発的に広がる。
大量の砂が男へ一瞬にして覆いかぶさっていくのが見えた。
上から。
横から。
そして崩れた地面の中へ。
一瞬にして、男の姿が消えた。
「がっ!」
地面へ叩きつけられた。
もう、指一本動かすのもつらかった。
「——————!!」
遠くから声がする。
「——イ!! レイ!!」
「…………」
レナだ。
よかった。
生きてる。
「レイ!」
レナが駆け寄ってくる。
僕の横に膝をつき、倒れている僕の体を抱き起こした。
「血が……どうしよう……」
レナの手が震えている。
僕の口元についた血を拭ってくれる。
「ごめん……」
「……え?」
「ごめん、レイ……」
大粒の涙が僕の頬に落ちた。
「私が……私がこんなんだから……!」
「…………」
「お母さんにも……お父さんにも……レイにも……! 私、何もできなくて……ずっと守ってもらって……!」
そんなこと。
どうでもいい。
レナが無事なら。
それで——。
ズッ。
「…………え?」
地面から。
細い光が伸びた。
一本。
二本。
三本。
僕が作り出した巨大な砂の山を、内側から貫くように白い光が空へ伸びていく。
——あの男が、もう来る。
//—— Rena ——
砂の山から伸びる白い光を、私はただ見つめていた。
分かる。
あの男は、まだ生きている。
そしてきっと、もうすぐここまで来る。
私は腕の中へ視線を落とした。
「……レイ」
口元には血が滲んでいる。
息をするたび、苦しそうに胸が上下していた。
さっきまで、あれだけ必死に戦っていたのに、今はもう自分で起き上がることすらできない。
それでも、レイは私を守ってくれた。
こんなになるまで。
私を守るために戦ってくれた。
「……なんで」
震える指で、頬についた砂をそっと払う。
「なんで、こんなになるまで……」
その頬に触れた瞬間。
今朝のことを思い出した。
『うん、頑張ってくる』
笑っていた。
たった数時間前。
私はいつものようにレイを見送った。
それだけだった。
お父さんも帰ってくる。
レイも帰ってくる。
お母さんの作った料理を、みんなで食べる。
明日になったら、またいつもの一日が始まる。
そんなことを疑いもしなかった。
「…………」
でも。
もう、いない。
サナさんも。
お母さんも。
お父さんも。
みんな。
最後まで、私を生かそうとしてくれた。
『レナ。生きて』
お母さんの声が、耳の奥に残っている。
『絶対に生きろ!!』
お父さんの声も。
「…………っ」
胸が痛くなった。
そうだ、私は生きなきゃいけない。
二人が命を懸けて逃がしてくれたんだから。
ここで死んだら、お母さんとお父さんは、何のために——。
「……嫌だ」
レイを抱いたまま、私は首を振った。
「死なない」
自分に言い聞かせる。
「私も……レイも……絶対に死なない」
逃げる方法を考える。
翼はない。
走る?
駄目。
レイは立つことすらできない。
私が背負えば?
逃げ切れる?
無理だ。
あの人は、空を飛んでいる私に一瞬で追いついた。
隠れる?
それも駄目。
一度逃げた私を、簡単に見つけ出した。
「だったら……戦う?」
自分の手を見る。
震えている。
戦闘訓練なんて、まともに受けたこともない。
あの人は、お母さんでも倒せなかった。
お父さんでも止められなかった。
レイがあれだけのことをしても、まだ——。
ズズッ。
砂の山から、白い光が大きく漏れ出してくる。
「…………」
時間がない。
それでも考える。
何かあるはず。
何か。
私も生きて。
レイも生きられる方法が。
「お願い……」
頭を必死に動かす。
「何か……何かないの……?」
でも、何も浮かばなかった。
どれだけ考えても、出てくる答えは、全部同じだった。
このままなら、二人とも死ぬ。
「…………」
涙が落ちた。
「嫌だよ……」
死にたくない。
まだ、やりたいことがいっぱいある。
レイともっと話したい。
また二人で出かけたい。
くだらないことで笑いたい。
お父さんとお母さんのことだって、もっと聞きたかった。
お兄ちゃんにも会ってみたかった。
大人になった自分がどんな姿なのかも見てみたい。
「……生きたい」
声に出した。
はっきりと。
「私だって……生きたいよ……」
お父さん。
お母さん。
二人が私に何を願ったのか。
分かってるよ。
だから。
私だって、最後まで生きるつもりだった。
逃げるのを諦めたくなんてなかった。
でも。
「…………」
腕の中を見る。
レイがいる。
まだ温かい、まだ生きている。
でも、このままならレイまで死ぬ。
「…………」
その瞬間、一つだけある方法が浮かんだ。
私は自分の腕を見る。
黒い鱗。
竜人族の体を守る、特別な鱗。
これなら——。
「…………」
できる。
レイだけなら。守れる。
そう考えた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
「生きろって……言われたのに……」
涙が止まらなくなる。
「私に……生きてって……」
なのに。
砂の山を見る。
光が強くなっていた。
もう時間がない。
そこで、ふと思った。
お母さんは、あのときどんな気持ちだったんだろう。
私を投げ飛ばして。
『生きて』
そう言ったとき。
死にたかったわけじゃないはずだ。
お父さんも。
『絶対に生きろ』
そう叫んだとき、本当は一緒に逃げたかったはずだ。
「……そっか」
ようやく分かった。
二人は、自分の命を捨てたかったんじゃない。
最後まで生きようとしていた。
それでも、どうしても選ばなければならない瞬間が来てしまった。
だから。
一番大切なものを守った。
「…………」
涙を拭う。
怖さは消えない。
震えだって止まらない。
でも、私はもう一度レイを見る。
「ごめんね」
もしお父さんとお母さんがここにいたら、きっと怒る。
お前も生きろって。
最後まで諦めるなって。
だから、これは正しいことなのか、分からない。
それでも——。
「レイまでいなくなるのは……もっと嫌だ」
今日だけで、大切な人をたくさん失った。
もうこれ以上、目の前で失いたくなかった。
私はレイの頬に触れる。
「今度は……」
声が震えた。
「私が守るから」
//—— Rei ——
レナの声が聞こえた。
さっきまで泣いていたはずなのに、妙に静かな声だった。
顔を上げる。
「私が守るから」
「……え?」
レナが笑っている。
涙の跡を残したまま。
「いっぱい守ってくれて、ありがとう」
「何……言ってるの?」
嫌な予感がした。
ものすごく。
「レナ?」
レナの体から、一枚の鱗が浮かび上がった。
「え?」
また一枚。
黒い鱗が淡い光をまとい、僕の周囲へ集まり始める。
「レナ、何してるの?」
答えてくれない。
「待って!」
一枚。
十枚。
百枚。
鱗が僕の周りを包み込む。
「レナ!」
動こうとする。
でも、体に力が入らない。
「やめて!」
鱗が腰まで上がってくる。
胸まで。
首まで。
「レナ!!僕と一緒にっ——」
「レイ」
レナが僕の言葉を遮った。
「大丈夫」
レナの顔が、少しずつ鱗に隠れていく。
「嫌だ……」
分かった。
分かってしまった。
「嫌だよ……」
レナが何をしようとしているのか。
「僕、レナを守るために強くなろうって……」
涙が溢れる。
「今日だって……!」
レナが笑った。
「うん」
「だったら!」
「嬉しかったよ」
「…………」
その一言で。
何も言えなくなった。
「レイ」
最後に残った、小さな隙間。
そこから。
レナの赤い瞳だけが見えていた。
「…………」
何か言わなきゃ。
今。
言わなきゃいけないことがある。
なのに。
頭が真っ白で、言葉が出てこない。
レナの唇が、ゆっくり動いた。
「マシャラハ」
「……え?」
知らない言葉だった。
「何……?」
聞き返す。
でも、レナは答えなかった。
ただ泣きながら、笑っていた。
「レナ?」
最後の一枚の鱗が
視界を塞いだ。
「レナ!!」
暗闇。
「レナ!」
何も見えない。
「待って!」
体から力が抜けていく。
「まだ……!」
音が遠ざかる。
意識が沈んでいく。
「レナ……!」
最後まで、僕はその名前を呼んでいた。
さっきの言葉が何だったのか、どういう意味だったのか分からないまま。
ただなぜだろう。
あのときのレナの顔だけは、意識が途切れるその瞬間まで——。
僕の目に焼きついていた。
//——
どれくらい時間が経ったのか、分からない。
何も見えなかった。
右も。
左も。
上も。
下も。
ただ、真っ暗だった。
「…………」
ここは、どこだ?
ぼんやりとした頭で考える。
体が重い。
胸も痛い。
何があったんだっけ。
僕は——。
「…………っ」
記憶が戻ってくる。
白い光。
砂の山。
僕を抱きしめていたレナ。
宙に浮かび上がった、黒い鱗。
『今度は——私が守るから』
そして。
最後に見えた、レナの顔。
『マシャラハ』
「——レナ!!」
一気に意識が覚醒した。
「レナ!!」
叫ぶ。
返事はない。
「レナ!! どこ!?」
起き上がろうとする。
「ぐっ……!」
胸に激痛が走った。
息が詰まる。
でも、そんなことどうでもよかった。
「レナ!」
手を伸ばす。
硬いものに触れた。
「……これ」
鱗だ。
僕の周囲を隙間なく覆っている。
レナの鱗。
そうだ。
僕はこれに包まれて——。
「レナ! 聞こえる!?」
返事はない。
「レナ!!」
鱗を叩く。
何度も。
何度も。
「ここから出して!」
必死に拳を打ちつける。
ガンッ。
ガンッ。
ガンッ。
「レナ!!」
やがて一枚の鱗がわずかにずれた。
そこから、さらさらと砂が入り込んでくる。
「……砂?」
隙間に指を突っ込む。
痛む腕を無理やり動かし、砂を掻き出す。
一度。
二度。
三度。
少しずつ。
少しずつ。
隙間が広がっていく。
「っ……!」
その瞬間。
ザァァァッ——。
大量の砂が中へ流れ込んできた。
「うわっ!」
顔を覆う。
でも同時に光が見えた。
「…………」
月明かりだった。
どうやら僕は、砂の中に埋まっていたらしい。
幸い、それほど深くはなかった。
砂を掻き分け、這うようにしてようやく地上へ顔を出した。
「はぁ……はぁ……」
青白い月明かりが、どこまでも続く砂丘を照らしている。
冷たい風が頬を撫でた。
静かだった。
あまりにも静かだった。
「…………レナ?」
返事はない。
聞こえるのは。
風に流された砂が、さらさらと地面を這っていく音だけ。
「レナ!」
もう一度叫ぶ。
「レナ! どこ!?」
声だけが、夜の砂漠へ消えていった。
「…………」
心臓が速くなる。
嫌な感じがした。
怖かった。
本当はもう、分かっていたのかもしれない。
でも、考えないようにした。
「レナ……?」
歩き出す。
足元がおぼつかない。
体中が痛む。それでも探した。
「レナ」
一歩。
「レナ……」
もう一歩——。
そのときだった。
ザクッ。
「……?」
足の裏に、砂とは違う感触があった。
足をどける。
「…………」
黒い……砂。
月明かりの下、砂の色がそこだけ違っていた。
しゃがみ込んで指で触れる。
「…………」
乾いている。
でも分かった。
「……血?」
黒く変色した、大量の血だった。
それは小さな染みなんかじゃない。
僕の体よりも大きいくらいの範囲に広がっていた。
「…………」
心臓が。
ドクン、と鳴った。
「違う……」
思わず口から出た。
「違う」
誰の血かなんて分からない。
あの男かもしれない。
知らない誰かかもしれない。
だから。
「レナのじゃない」
そう呟いて。
顔を上げた。
「…………え?」
血の跡の周囲。
月明かりを反射するものがあった。
一枚。
その向こうにも。
一枚。
そして、また一枚。
「…………」
拾い上げる。
黒い鱗。
見間違えるはずがなかった。
一年間毎日のように見ていた。
手を繋いだとき。
隣を歩いたとき。
笑っているレナを見たとき。
いつもそこにあった。
「……レナの」
声が震える。
「鱗……」
周囲を見る。
そこら中に落ちていた。
一枚や二枚じゃない、数え切れないほどの鱗が、砂の上に散らばっている。
「…………」
それでも。
レナはいなかった。
「レナ?」
呼んでみる。
「…………」
「レナ」
返事はない。
「……どこ?」
探す。
血の跡の周りを、何度も何度も。
「レナ?」
いない。
「隠れてるんでしょ?」
自分でも何を言っているのか分からなかった。
「もう大丈夫だから」
何が大丈夫なんだ。
「出てきてよ」
返事はない。
「レナ」
そして。
ようやく気づいた。
地面がおかしい。
「……これ……」
砂が、固まっている。
ところどころ黒く変色し、ガラスみたいに溶けて固まっていた。
砂がこんなふうになるほどの、熱。
「…………」
その周りには、白っぽい灰のようなものが、風に吹かれて残っている。
「…………」
頭の中で。
全部がつながってしまった。
大量の血。
散らばった鱗。
溶けた砂。
白い灰。
そして。
レナだけが。
どこにもいない。
「…………あ」
分かってしまった。
「……あ……」
分かりたくなかった。
「あぁ……」
声が出ない。
喉の奥から、空気だけが漏れる。
「……レナ?」
もう一度呼ぶ。
返事はない。
「レナ……」
膝から力が抜けた。
砂の上に崩れ落ちる。
「……嘘だ」
違う。そんなわけない。
「だって……」
さっきまでいた。
僕を抱きしめていた。
僕に笑ってくれた。
『今度は私が守るから』
声だって覚えている。
最後に。
『マシャラハ』
意味の分からない言葉を残して。
「何なんだよ……」
砂を握る。
「マシャラハって……何なんだよ……」
答えてくれる人はいない。
「僕、分かんないよ……」
涙が砂に落ちた。
「ちゃんと教えてよ……」
いつもそうだった。
僕がこの世界の言葉を分からなかったとき、レナが教えてくれた。
水を"ム"と呼ぶことも。
食べ物の名前も。
村のみんなの名前も。
僕が間違えるたびに笑って。
何度でも、分かるまで教えてくれた。
なのに。
「最後だけ……」
声が震える。
「最後だけ、分かんないままじゃん……」
返事はなかった。
考えたくなかった。
でも。
もう。
分かってしまった。
「…………っ」
レナは僕を守ったあとここで。
あの男の攻撃を受けた。
遺体すら残らないほどの熱で。
焼かれた。
「…………」
僕は。
守れなかった。
「……なんで」
涙が落ちる。
「なんでだよ……」
強くなるって決めた。
レナを守れるくらい、強くなるって。
そう……決めたばっかりだった。
「今日……」
声が震える。
「今日、初めて一人で魔物を倒したんだよ……」
レベルが上がった。
嬉しかった、これで一歩レナに近づけたと思った。
「まだ……レベル五だよ……」
笑おうとした。
でも、声にならなかった。
「まだ全然……追いついてないのに……」
これからだった。
もっと強くなって。
もっとプログラムを書けるようになって。
いつか、レナに追いついて。
今度こそ。僕が——。
「うあぁ……」
喉の奥から、声が漏れた。
「うああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
叫んだ。
何度も。
何度も。
「レナぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
夜の砂漠に。
僕の声だけが響いた。
誰も答えてくれない。
「うああああああああああああ!!」
砂を殴った。
何度も。
拳が痛くなっても。
血が滲んでも、止められなかった。
「なんでだよ!!」
何に怒っているのかも分からなかった。
あの男に。
自分に。
この世界に。
「なんで……!」
守れなかった。
レナを。
ロナさんを。
ラキさんを。
誰一人。
「僕……何にもできなかった……」
力があると思っていた。
プログラムが使える。
この世界で僕だけの力。
それがあれば。
いつか何かできると思っていた。
でも。
「……何が……HelloWorldだよ……」
声が枯れていく。
「何が……プログラムだよ……」
砂を増やせても。
水を増やせても。
何十トンという物量を生み出せても。
一番守りたかった人を、守れなかった。
「……返してよ……」
誰に言ったのか分からない。
「レナを……返してよ……」
返事はなかった。
ただ、冷たい風だけが吹いていた。
//——
どれくらい泣いていたんだろう。
分からない。
気づけばもう声が出なくなっていた。
「…………」
寒い。
昼間はあれだけ暑かった砂漠が夜になると、嘘みたいに冷えていた。
震えているのが寒さのせいなのか、それともまだ泣いているせいなのか自分でも分からなかった。
「…………」
僕は砂の上に落ちていた鱗を拾い上げる。
「…………」
冷たかった。
レナの鱗なのに。
もう、レナの温かさは残っていなかった。
「……持っていくから」
掠れた声で呟く。
「いいよね……」
腰に残っていた空の小瓶を取り出す。
その中へ。
鱗を一枚。
そして。
その周りにあった砂を、少しだけ入れた。
白い灰が混じった砂。
「…………」
蓋を閉める。
ぎゅっと。
両手で握りしめた。
「…………行かなきゃ、ここで立ち止まってたら……」
立ち上がる。
足がふらつく。
どこへ?
分からない。
目の前にはどこまでも砂漠が続いている。
「…………」
村はどっちだ?
分からない。
ラキさんと別れた場所は?
分からない。
ここがどこなのかすら分からない。
僕は歩き出した。
一歩。
また一歩。
行き先なんてない。
ただ、ここにいたら凍えてしまう。
だから歩く。
「…………」
一年前。
僕は突然、この世界に飛ばされた。
何も分からなかった。
言葉も。
場所も。
自分に何が起きたのかも。
でもレナがいた。
手を差し伸べてくれた。
ラキさんがいた。
ロナさんがいた。
僕を家族として迎えてくれた。
だから。
ここは異世界だったけど。
いつの間にか帰る場所ができていた。
「…………」
それがなくなった。
村がどこにあるのかも分からない。
みんなが生きているのかも分からない。
隣には誰もいない。
手を伸ばしても。
もう。
握ってくれる手はない。
「…………」
そこでようやく気づいた。
僕にはもう帰る場所はない。
「…………」
足跡だけが、月明かりに照らされた砂漠へ、一つずつ残っていく。
一人分。
僕の足跡だけ。
振り返っても。
そこには誰もいなかった。
僕はまた。
一人になった。




