第九話「SavePoint2= "シーラ商隊";」
シーラさんのおかげで、少しだけ気持ちが落ち着いた。
目元を袖で拭い、ずるっと鼻をすする。
すると、シーラさんが懐から白い布を取り出した。
「もう……袖で拭いてはいけませんわ」
「え?」
返事をするより先に、目元をそっと拭われる。
涙で濡れた頬を拭いて、それから鼻の下まで。
まるで小さな子供をあやすみたいに。
「…………」
さすがに申し訳なくなってシーラさんを見る。
けれど、嫌そうな顔なんて少しもしていなかった。
むしろ僕と目が合うと、安心させるように優しく微笑んでくれる。
本当にこの人は優しい。
なんというか……。
お母さんみたいだ。
「…………ん?」
そこまで考えたところで、ようやく我に返った。
僕、何してるんだ?
今日初めて会った人に抱きついて、子供みたいに泣きじゃくって。
そのうえ、涙どころか鼻まで拭いてもらっている。
急に顔が熱くなった。
「あ、あの!」
慌ててシーラさんの腕から抜け出す。
「あら?」
「ご、ごめんなさい! 僕、もう大丈夫です!」
「まあ。レイ君、急にどうなさいましたの?」
「いや、その……本当にありがとうございます。でも、もう落ち着いたので!」
「そう?」
シーラさんは僕の顔を覗き込んでから、ほっとしたように微笑んだ。
「それなら、よかったですわ」
「…………はい」
恥ずかしい。
たぶん今、顔が真っ赤になっている。
散々泣き叫んだ挙句、今日初めて会った女の人にずっとあやされていたのだ。
思い返せば返すほど恥ずかしくなってくる。
でも。
シーラさんのおかげで落ち着くことができた。
さっきまで胸の中を埋め尽くしていた苦しさが、ほんの少しだけ小さくなっている。
そのときだった。
「お嬢」
少し離れたところからドガルさんが口を開いた。
「なんですの?」
「今日は体を洗えてないから、臭かったんじゃないですかい?」
「なっ!?」
シーラさんの顔色が変わった。
「わ、わたくし、臭かったですの!?」
「えっ」
ものすごい勢いでこちらを向く。
「レイ君! 私、臭かった!?」
「え!? い、いや、そういう意味で離れたわけじゃ——」
「ちょっとドガル!」
「へい」
「嗅いで!」
シーラさんが腕を差し出した。
「お断りします」
即答だった。
「なんでですの!?」
「命の危険を感じますので」
「どういう意味ですの!?」
シーラさんの視線が、今度はスガルさんへ向く。
「スガル!」
「お嬢」
「あなたは!?」
「右に同じくです」
「あなたたちぃぃぃ!!」
二人が揃ってすっと視線を逸らした。
「お、お嬢。砂漠を何日も旅してりゃ誰だって多少は」
「多少は!?」
「右に同じくだ」
「あなたも同罪ですわよ!」
さっきまでの静かな夜が嘘みたいに騒がしくなる。
僕は三人を見ながら、思わず、
「……ふっ」
小さく笑ってしまった。
「あ」
自分でも驚いた。
笑えるとは思わなかった。
レナたちのことを忘れたわけじゃない。
胸の奥は今でも痛い。
それでも、ほんの一瞬だけ笑えた。
シーラさんもそれに気づいたらしい。
怒っていた顔を緩めると、僕に優しく笑いかけた。
「……よかった」
「え?」
「いいえ。なんでもありませんわ」
そう言うと、シーラさんは何事もなかったように服を整えた。
「それよりレイ君。お水をどうぞ。あれだけ泣いたのですもの、喉が渇いているでしょう?」
「あ……ありがとうございます」
差し出された水を受け取り、ゆっくりと口に含む。
冷たい水が、痛くなった喉を通っていく。
「…………おいしい」
少しずつ飲んでいると、シーラさんが僕の隣へ腰を下ろした。
「ところで、レイ君」
「……はい?」
「もしよろしければ、わたくしたちと一緒に来ませんこと?」
「え?」
思わず水を飲む手が止まった。
「今朝もお話ししましたけれど、私たちは商人ですの。各地の街や村を巡って、品物を売ったり買ったりしながら旅をしておりますわ」
シーラさんは焚き火へ小枝を一本放り込んだ。
ぱちっ、と火の粉が夜空へ舞う。
「このヴァルグラ大陸では、あと二つほど村を回る予定ですの。それが済めば、アルベルロ王国へ戻りますわ」
「アルベルロ王国……」
その名前には聞き覚えがあった。
今朝、ラキさんから聞いたばかりだ。
竜人族が襲われないよう、取り決めを交わした国。
そして、ラキさんの息子であるロキさんが騎士をしている国。
「…………」
すぐには返事ができなかった。
本当は、村へ戻りたい。
ラキさんを探したい。
ロナさんだって、まだ生きているかもしれない。
村のみんなだって。
全員が死んだと、この目で確かめたわけじゃない。
だったら、探しに戻るべきなんじゃないか。
そう思う。
でも——。
僕は膝の上で拳を握った。
戻るって、どこへ?
僕は村の場所すら分からない。
ラキさんに抱えられて空を飛び、必死に逃げて、そこから当てもなく砂漠を歩き回った。
どっちから来たのかすら、もう分からなくなっている。
それに、仮に村へ戻れたとして。
あの男がまだいたら?
僕一人で、何ができる?
「…………」
何もできない。
今まで生きてこられたのだって、僕が強かったからじゃない。
レナが助けてくれた。
ラキさんが守ってくれた。
ロナさんが食事を作ってくれた。
村のみんなが僕を受け入れてくれた。
僕はずっと、誰かに守ってもらっていただけだ。
一人で水を探す方法も知らない。
食べ物を手に入れる方法も、危険な魔物から身を守る方法も知らない。
それなのに、一人で村を探すなんて無茶だ。
かといって——。
ちらりとシーラさんたちを見る。
この人たちに村探しを手伝ってもらう?
それも違う。
シーラさんたちは、僕を助けてくれた。
水をくれて、こうして休ませてくれている。
それなのに、あの男がいるかもしれない場所へ一緒に来てほしいなんて言えない。
僕のせいで、この人たちまで危険な目に遭ったら。
もう——。
誰かが傷つくのは嫌だ。
「…………」
なら、今は離れた方がいい。
少なくとも、一人で砂漠をさまようよりはずっといい。
それにシーラさんたちは、いろいろな土地を旅している。
一緒にいれば、この世界のことをもっと知れるかもしれない。
生きる方法だって学べるかもしれない。
そして、アルベルロ王国にはロキさんがいる。
いつかロキさんに会えたなら、村の場所へ戻る方法だって分かるかもしれない。
今すぐ戻れなくても。
いつか、必ず戻る。
そのためにも——。
僕は、生きなきゃいけない。
顔を上げた。
「……シーラさん」
「はい」
「お願いします!」
僕は頭を下げた。
「僕を、一緒に連れていってください!」
一瞬の沈黙。
そして、
「ええ!」
シーラさんは嬉しそうに笑った。
「では、決まりですわね!」
僕の前へ手を差し出す。
「改めまして。これからよろしくお願いいたしますわ、レイ君」
「……はい!」
その手を握る。
「よろしくお願いします!」
すると、ドガルさんとスガルさんも近づいてきた。
ドガルさんが僕の左手を握る。
スガルさんが右手を握った。
「レイタン、歓迎するぜ!」
「右に同じくだ。よろしく、レイタン」
「……タン?」
聞いたことのない言葉だった。
「どういう意味ですか?」
「『タン』は、名前の後ろにつけるケシウですの。『さん』よりも、目上の方や敬意を示したい相手に使いますわ」
ケシウ。
聞いたことのない言葉だけど、たぶん『敬称』みたいな意味だろう。
それで、『さん』よりも目上の人に使うなら——。
「様」みたいなものか?
……でも。
ドガルさんとスガルさんから「レイ様」と呼ばれていると思うと、なんだかむずがゆい。
レイ様。
……うん。
やっぱり慣れそうにない。
僕の中では『殿』くらいの意味だと思っておこう。
レイ殿。
……うん。
そっちの方がちょっと格好いい。
「ところで、レイ君。お腹は空いていませんこと?」
「えっと、今は……大丈夫です」
さすがに食欲はなかった。
「そう。でしたら、今日はもう休みましょうか」
「賛成じゃ。」
「右に同じくだ。」
三人は慣れた手つきで寝る準備を始めた。
地面へ厚手の布を広げ、その上へ寝袋のようなものを並べていく。
僕も手伝おうとしたけれど、
「レイ君は座っていてくださいまし」
と止められてしまった。
しばらくして準備が終わる。
すると、シーラさんが少し申し訳なさそうに僕を見た。
「ただ……一つ困ったことがございますの」
「?」
「レイ君の寝具がありませんわ」
「あ……」
当然だ。
今日突然一人増えたのだから、用意されているはずがない。
「ですので——」
シーラさんが自分の寝具をぽんぽんと叩いた。
「今夜は私と一緒に寝てくださいまし」
「え」
固まった。
さっきまで抱きしめられて泣いていた記憶が、一気によみがえる。
「あ、いや、その……」
「お嬢」
ドガルさんが神妙な顔で口を開いた。
「やはり匂いが……」
バシンッ!
「痛ぇ!」
シーラさんの平手が飛んだ。
「右に同じ——」
バシンッ!
「まだ言い終わっていない」
「言わなくても分かりますわ!」
二人が頭を押さえてうずくまる。
シーラさんはしばらく二人を睨みつけていたが、やがて不安そうに自分の服を嗅いだ。
「…………」
そして、ちらっと僕を見る。
「レイ君」
「はい?」
「……本当に、臭います?」
「そ、そんなことないです!!」
反射的に答えてしまった。
「本当?」
「本当です!」
「そう!」
ぱっと表情が明るくなった。
「でしたら問題ありませんわね!」
「は、はい……。それでお願いします」
「ええ。こちらへいらっしゃいな」
シーラさんが先に寝具へ入る。
そして掛け布を持ち上げ、僕を招いた。
「…………」
なんだろう。
ものすごく入りづらい。
でも、ここで断る理由もない。
「……失礼します」
なぜかそんな言葉が口から出た。
僕はおそるおそる隣へ入り、シーラさんに背中を向ける。
これなら大丈夫。
そう思ったのも束の間。
「もう、レイ君」
「え?」
肩を掴まれ、くるりと体をひっくり返された。
目の前にシーラさんの顔がある。
近い。
「…………っ」
また顔が熱くなった。
けれどシーラさんは気にした様子もなく、僕の頭へそっと手を添えた。
「今日は、本当に大変でしたわね」
「…………」
シーラさんが、僕の体をそっと抱き寄せる。
「レイ君」
耳元で、優しい声がした。
「今夜は何も考えなくてよろしいのですわ」
「…………」
「ゆっくり、お休みなさい」
「……はい」
ぎゅっと抱きしめられる。
恥ずかしい。
少し前の僕なら、きっとそう思っていた。
でも今は、それよりもシーラさんの温もりが心地よかった。
シーラさんが耳元で、何かを小さく囁いている。
「——、——————————。
————————、——————。
————、————《————》」
聞いたことのない言葉だった。意味も分からない。
子守唄……だろうか。
そう思ったときだった。
胸元が、一瞬だけ淡く光った。
「……?」
自分の体から光ったように見えたけれど、ほんの一瞬のことだった。
疲れているせいかもしれない。
それよりも、不思議なことが起きていた。
シーラさんの囁きを聞いているうちに、さっきまで胸の奥を締めつけていた苦しさが、少しずつ遠ざかっていく。
悲しいはずなのに。
レナたちのことを思い出せば、今だって胸は痛いはずなのに。
それでも今だけは、その痛みがずっと遠くにあるように感じた。
どうしてだろう。
でも、もう考える力も残っていなかった。
ずっと歩き続けたせいなのか。
泣き続けたせいなのか。
それとも、こうして誰かに抱きしめられて安心したからなのか。
急にまぶたが重くなる。
シーラさんの声が、少しずつ遠くなっていく。
温かい。
その温もりに身を預けたまま、僕の意識はゆっくりと沈んでいった。
そしてそのまま、静かに眠りへ落ちた。
//——
目を覚ますと、シーラさんたち三人はすでに起きていた。
焚き火はほとんど消えかけていて、赤くなった炭から細い煙が立ち上っている。
夜の冷たさはまだ少し残っていたけれど、東の空はうっすらと明るくなり始めていた。
「あら、レイ君。おはようございます」
シーラさんがこちらに気づき、柔らかく微笑む。
「おっ、おはようございます! すみません、寝すぎちゃいました」
慌てて体を起こす。
「大丈夫ですぜ、レイ殿」
ドガルさんが僕を見るなり、にやりと笑った。
「それより、よだれがついてますぜ」
「右に同じくだ。かなりの量ですぜ」
「えっ?」
口元へ手をやる。
べっとり。
「…………」
思ったよりすごい。
慌てて腕で拭うと、三人が一斉に笑い出した。
「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですか!」
「いやいや、レイ殿。なかなか見事でしたぜ」
「右に同じくだ。寝具に地図が描けそうでしたぜ」
顔が一気に熱くなる。
昨日あれだけ泣いて、最後はシーラさんに抱きしめられながら寝て。
そのうえ朝から大量のよだれ。
もう少し格好よく新しい朝を迎えたかった。
「ふふっ」
シーラさんまで口元を押さえて笑っている。
「もう……」
恥ずかしい。
でも、昨日より少しだけ、笑われても嫌じゃなかった。
昨日まであんなに苦しかった胸の奥も、今は不思議なくらい静かだった。
「では、そろそろ出発いたしましょうか」
シーラさんが立ち上がる。
「レイ君は荷台に乗ってくださいまし」
「分かりました」
少し離れたところに、大きな荷車が止まっていた。
荷台は、元の世界で見た軽トラックくらいの大きさだろうか。
木で作られた箱型の荷台には、布で覆われた荷物や木箱がいくつも積まれている。
そして、その前方。
見たことのない生き物が二頭、並んで立っていた。
「……なんだ、あれ」
馬に似た長い脚。
でも首は少し長く、背中にはラクダのような膨らみがある。
足先も馬の蹄というより、砂へ沈みにくそうな幅広い形をしていた。
馬とラクダを無理やり混ぜたような姿だ。
気になって、心の中で唱える。
『Inspect』
monster_Kalva
{
Name = "Kalva"
Level = 21
HP = 92
MP = 25
……
}
カルバ。
どうやら、そういう名前らしい。
レベルは二十一。
あのとき戦ったサビットより低い。
なのに、HPはカルバの方が高かった。
レベルが高ければ、全部の能力が上というわけではないらしい。
考えてみれば当然か。
今表示しているステータスはかなり絞っている。
本当はもっと細かい項目があるはずだ。
もしかすると、サビットの方が素早さみたいな能力ではずっと上だったのかもしれない。
「レイ君?」
「あ、すみません!」
気づけばシーラさんたちが準備を終え、こちらを見ていた。
僕は慌てて荷台へ乗り込む。
ドガルさんとスガルさんは前方の御者席へ。
シーラさんは僕と同じ荷台へ上がってきた。
「それでは出発いたしますわ。レイ君、かなり揺れますから、もし気分が悪くなったらすぐにおっしゃってくださいませ」
「ありがとうございます」
ドガルさんが手綱を握る。
そして。
「シャブァァァァァァッ!!」
「え?」
謎の掛け声が砂漠に響いた。
カルバたちが一斉に歩き出す。
ガタンッ!
「うわっ!」
思ったより揺れる。
「い、今のなんですか!?」
「掛け声ですぜ!」
「それ必要なんですか?」
「気分ですぜ!」
「右に同じくだ。シャブァァァァァァッ!」
「…………」
馬車——いや、カルバ車とでも言うんだろうか。
木製の車輪が砂の上を進むたび、荷台がガタガタと揺れる。
しばらくして少し慣れてくると、僕は荷台の端から外を眺めた。
朝日に照らされた砂漠が、どこまでも続いている。
昨日までは、ずっと見慣れた景色だった。
でも今日は。
同じ砂漠なのに、少し違って見えた。
「シーラさん」
「はい?」
「あと二つ村を訪れるって言ってましたけど、まずはどこへ行くんですか?」
「ジャラヴァ村ですわ」
「ジャラヴァ村……」
聞いたことのない名前だ。
「レイ君は、この辺りの地理にはお詳しくて?」
「いえ。まったくです」
「でしたら、簡単に説明いたしますわね」
シーラさんは荷物の中から紙とペンのようなものを取り出し、簡単な図を描き始めた。
「まず、わたくしたちが今いるのはヴァルグラ大陸。その中でも北部に位置するラグニア地方ですわ」
「ラグニア地方」
「ええ。そして、これから向かうジャラヴァ村は、ここから東へ進んだ場所にございます」
シーラさんが砂に描いた線の先へ、小さな丸を付ける。
「人族が、およそ百人ほど暮らしている村ですの」
「百人も……」
思わず声が出た。
竜人族のラグナ村より、ずっと多い。
「そこでは、どういうものを売るんですか?」
「さまざまですわ。旅の途中で仕入れた珍しい品を売ることもございますし、その土地でしか手に入らないものを買い付けることもございます」
「へぇ……」
「ですが、ヴァルグラ大陸で一番大きな商売は——結界魔法ですわね」
「結界魔法?」
「ええ」
シーラさんが頷く。
「ヴァルグラ大陸は、他の大陸と比べても魔物が非常に多い土地です。それに、強力な魔物も多く生息しておりますの」
「だから、村の周りに結界を?」
「その通りですわ」
シーラさんが嬉しそうに頷いた。
「魔物が嫌う魔力を結界として張ることで、村へ近づきにくくするのです。完全に防げるわけではありませんけれど、被害は大きく減らせますわ」
「……なるほど」
昨夜のことを思い出す。
炎へ向かって走っていた僕は、何もない場所へ思い切りぶつかった。
おそらくあの時も、魔物を近づけないために、結界を張っていたのだろう。
それに僕は真正面からぶつかった……
よく考えると、ものすごく格好悪い。
「ところで、レイ君」
「はい?」
シーラさんが少し不思議そうに僕を見る。
「以前から気になっていたのですけれど、どうしてレイ君はヴァルグク語しか話せませんの?」
「ヴァルグク語?」
聞き返す。
「僕が話してる言葉って、そういう名前だったんですね」
「ええ。ヴァルグク語は、このヴァルグラ大陸全域で広く使われている言葉ですわ」
「へぇ……」
初めて知った。
一年間、毎日のように使っていたのに。
水を『ム』と呼ぶことから始まって、レナに何度も教えてもらった言葉。
ちゃんと名前があったんだ。
「わたくしは最初にレイ君と出会ったとき、人族だとすぐに分かりましたので、当然イグラシャル語を話すものだと思っておりましたの」
「イグラシャル語?」
また知らない言葉が出てきた。
「それは、人族が使う一般的な言葉なんですか?」
「ええ。人族の国では最も広く使われておりますし、世界共通語と呼ばれることもございますわ。ほかの大陸でも通じる場所は多いですの」
「そんな言葉があるんだ……」
「ですから、それをまったく知らないというのが少し不思議でして」
シーラさんが首を傾げる。
「レイ君は、竜人族の中でお生まれになったのですか?」
「えっと……」
言葉に詰まった。
異世界転移。本当はそう説明したい。
でも。そもそも、この言葉で『異世界』ってなんて言うんだ?
『転移』は?
分からない。
説明しようにも、必要な単語を知らなかった。
それに。
全部を話していいのかも、まだ分からない。
「……生まれたのは、もっと違う場所です」
「まあ」
「でも、記憶をなくしていて……気づいたら竜人族の村の近くにいました。それから一年くらい、そこで暮らしていて」
少しだけ嘘を混ぜる。
「そのときに、言葉を教えてもらいました」
「記憶を……」
シーラさんの表情が少し曇った。
「そうでしたのね」
「はい」
「ですが、一年でここまで言葉を覚えられるなんて。レイ君は頭もよろしいのですね」
「えっ」
思わず固まった。
頭がいい?
僕が?
「そんなことないですよ」
即答した。
頭の中で、なぜかソシャゲの十連ガチャみたいに答案用紙が次々と現れる。
R——30点。
R——35点。
R——30点。
N——15点。
R——40点。
大爆死。
これが僕の赤点ガチャだ。
『今回も駄目だったか……』
そんな気分になったところで。
——キラァァァン!
脳内で派手な光が弾けた。
確定演出。
虹色!
そして現れたのは——。
算数、百点。
SSR。
「……ふっ」
思わず鼻で笑ってしまう。
そう。
全部駄目なわけじゃない。
算数だけは得意だった。
ありがとう、算数。
君だけがお母さんの機嫌を取り繕ってくれていた。
「レイ君?」
「あっ、なんでもないです!」
危ない。
いきなり一人で笑う変な子になるところだった。
……いや。
もうなってるかもしれない。
「そうですわ」
シーラさんが何かを思いついたように手を合わせた。
「レイ君。ジャラヴァ村までは、およそ三週間ほどかかりますの」
「三週間!?」
「ええ。この後の旅もかなり長くなりますわ」
思った以上に遠い。
「でしたら、その時間を使って、わたくしがイグラシャル語をお教えいたしましょうか?」
「えっ?」
思わず身を乗り出す。
「いいんですか!?」
「もちろんですわ」
シーラさんは微笑んだ。
「わたくしも、移動中は暇ですもの」
「ありがとうございます! お願いします!」
「ええ。では、今日から始めましょう」
「はい!」
こうして僕は、シーラさんから新しい言葉を教えてもらうことになった。
荷台は相変わらず、大きく揺れている。
前ではドガルさんがカルバを操り、スガルさんが何やら聞いたことのない歌を熱唱している。
シーラさんは僕の隣に座り、さっそく紙に文字を書き始めていた。
いままでなら、この時間はレナと一緒にいた。
村の中を歩いたり。
くだらない話をしたり。
言葉を教えてもらったり。
思い出した瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
「…………」
さっきまで少しだけ楽になっていたはずなのに。
レナのことを考えると、それでも痛かった。
きっと。
この痛みは、すぐには消えない。
これから何度も思い出すと思う。
そのたびに、また苦しくなる。
でも。
荷台の外を見る。
見たことのない道。
見たことのない景色。
これから向かう、知らない村。
そして、知らない言葉。
昨日まで僕の世界は、ラグナ村だけだった。
あの村が、この世界のすべてだった。
でも。
これからは違う。
僕はもっと、この世界を知らなきゃいけない。
生きる方法を。
戦う方法を。
自分の力の使い方を。
そしていつか——。
ラグナ村へ戻る。
そのために。
今の僕にできることを、一つずつやっていこう。
「レイ君?」
「はい!」
「ではまず、簡単な挨拶から始めましょうか」
シーラさんが笑う。
「お願いします!」
カルバの引く荷車は、朝の砂漠をゆっくりと進んでいく。
どこへ続いているのか。
その先に何があるのか。
僕にはまだ、何も分からない。
それでも。
昨日までとは違う場所へ向かっている。
ほんの少しだけ前へ。
こうして、僕の新しい生活が始まった。
そんな僕の隣で、シーラさんが最初の言葉を教えるように、ゆっくりと口を開いた。
「コブナジャラワ! レイ!」




