第十話「Memory="シーラの想い"」
「これは、なんと読むか分かりますか?」
わたくしが紙に書いた文字を指差すと、レイ君は難しい顔をしながら、じっとその一文字を見つめた。
「……えっと……『ラ』?」
「正解ですわ。では、こちらは?」
「こっちは……『ナ』」
「ええ。よくできました」
そう褒めると、レイ君は少し嬉しそうに笑い、またすぐ紙へ視線を戻した。
本当に真面目な子ですわ。
そんなレイ君の姿を眺めているうちに、ふと、ずっと昔のことを思い出した。
わたくしにも、こんなふうに机へ向かっていた時期があった。もっとも、今のレイ君のように穏やかな勉強ではなかったけれど。
幼い頃のわたくしは、それこそ朝から晩まで何かを学ばされていた。文字の読み書きに歴史、地理、計算、礼儀作法。食事の仕方や歩き方、話し方に至るまで細かく決められ、それが終われば魔法の勉強。その後には剣の鍛錬まで待っていた。
少しでも姿勢が崩れれば注意され、覚えたはずのことを間違えれば最初からやり直し。泣いたところで終わるわけでもなく、むしろ泣く暇があるなら続きをしなさいと叱られたものだ。
当時は、どうして自分だけがこんなにも多くのことを覚えなければならないのかと何度も思った。
今になって考えれば、あの頃に覚えたことには随分と助けられている。文字も計算も商売には欠かせないし、歴史や地理の知識は各地を旅するときに役立つ。礼儀作法だって、相手によっては商談を有利に進める武器になる。
だから、無駄だったとは思わない。
けれど。
あの頃の生活を思い出すと、今でも少しだけ息苦しくなる。
広すぎる建物。長い廊下。大きな部屋。何人もの人間が出入りし、どこへ行くにも誰かがそばにいる生活。欲しいものは大抵与えられたけれど、自分で選べるものは驚くほど少なかった。
そして、あの頃のわたくしはまだ——今とは違う名で呼ばれていた。
それを思い出すのは、もう随分と久しぶりだった。
そんな毎日の中でも、一つだけ楽しみにしていた時間がある。
剣の稽古だった。
剣そのものが好きだったわけではない。あの二人と一緒にいられる時間が好きだったのだ。
今はドガルとスガルと名乗っている、ドワーフ族の双子。
わたくしに剣を教えてくれた先生であり、家を離れてから今日まで、ずっと一緒に旅をしてきた二人だ。
二人は昔からほとんど変わらない。
背丈も、立派な髭も、初めて会った頃からどちらがどちらなのか分からないほど似ていた。けれど性格は少し違っていて、稽古の仕方を巡ってよく言い争っていた。
「お嬢には、まず型を叩き込むべきじゃ!」
「何を言っとる! 実戦で使えなければ何の意味もないじゃろう!」
「基礎もできとらん者を実戦に放り込んでどうする!」
「実戦の中で基礎も身につければよかろう!」
そんなことを言いながら、気づけば二人で喧嘩を始めている。当時のわたくしは、それを見るのが好きだった。
周りにいた者たちは、いつだってわたくしに気を遣っていた。言葉を選び、頭を下げ、決して失礼がないように振る舞う。
けれど、あの二人だけは違った。
駄目なことをすれば叱られた。転べば自分で立てと言われたし、剣を落とせば拾って構え直せと言われた。わたくしが怒れば二人も怒り、わたくしが笑えば二人も遠慮なく笑った。
そんな関係が、子供だったわたくしには心地よかったのだと思う。
ずっとそんな日々が続くのだと、どこかで思っていた。
——あの夜までは。
その日は、いつもと変わらない夜だった。
勉強を終え、湯浴みを済ませ、明日も朝から授業かと憂鬱になりながらベッドへ入った。いつ眠ったのかは覚えていない。
ただ、突然響いた大きな音だけは、今でも鮮明に覚えている。
——パリンッ!
ガラスが割れる音に目を覚ました。
「……え?」
まだ眠気の残る目を開いた瞬間、月明かりを背負った黒い影が見えた。
割れた窓。風に揺れるカーテン。床に散らばったガラス。そして、わたくしのすぐそばに立つ人影。
その手には、刃物が握られていた。
何が起きているのか理解するよりも早く、その刃が振り上げられた。
逃げなくては。
そう思ったのに、体が動かなかった。声も出ない。ただ、自分へ向かって振り下ろされようとしている刃だけが、やけにはっきりと見えていた。
——死ぬ。
生まれて初めて、自分の死を悟った瞬間だった。
けれど、刃がわたくしへ届くことはなかった。
甲高い金属音が部屋に響いた。
目の前に、小さな背中が二つあった。
ドガルとスガルだった。
そこから先のことは、あまり覚えていない。剣同士がぶつかる音や怒鳴り声、廊下を走る足音。恐怖で何もできずにいたわたくしの前で、二人だけがずっと戦っていた。
やがて襲撃者はいなくなった。けれど、それで終わりではなかった。
なぜ、あれほど厳重に守られていた場所へ入ることができたのか。なぜ、わたくしの部屋を知っていたのか。そして何より、誰がわたくしの命を狙ったのか。
ドガルとスガルはすぐに事情を察したらしい。
わたくしも、薄々分かっていた。認めたくはなかった。同じ場所で育った者たち。幼い頃には同じ食卓を囲み、一緒に笑ったことだってある。
それでも、人は立場一つで変わってしまう。血の繋がりさえ、理由にはならないほどに。
その夜、ドガルとスガルはわたくしを連れて、国を離れた。
名前も、立場も、それまでの暮らしも捨てた。
あの二人もまた、それまで呼ばれていた名を捨てた。
そして何年も、何年も旅をした。
最初の頃は、本当に何もできなかった。
食事は誰かが用意するものだと思っていたし、服が汚れれば新しいものが用意されるのが当たり前だった。野宿などしたこともなく、最初に地面の上で眠った夜は、ほとんど一睡もできなかった。
そんなわたくしに、二人は一から生き方を教えてくれた。
その中の一つが、商人だった。
最初に聞いたときは、わたくしに商売などできるはずがないと思った。
けれど、始めてみれば意外なほど楽しかった。
知らない土地へ行き、知らない人と話す。ある場所ではありふれた品物が、別の場所では驚くほど高く売れる。買う人の顔を見ながら値段を考え、時には値切られ、時にはこちらが交渉する。
失敗して三人揃って大損したこともあった。
それでも、自分で稼いだお金で初めて食事を買った日のことは、今でもよく覚えている。
そうして旅を続けるうちに、ドガルとスガルは先生ではなくなっていった。
護衛とも違う。言葉にするなら、きっと家族が一番近い。
だからこそ——あの日、二人を置いて逃げることなんて、わたくしにはできなかった。
——レイ君と出会う少し前。
最初に異変を察知したのは、わたくしだった。
「二人とも、止まってください」
周囲に、いくつもの魔力を感じた。
一つや二つではない。数十。それどころか、そのさらに奥からも次々と反応が増えていく。
「囲まれとるな」
ドガルが剣へ手をかける。
「右に同じくだ。どうやら、知らんうちに縄張りへ入ったようじゃの」
スガルの言葉通りだった。
わたくしたちが通っていた場所は、ピュラルドの群れの縄張りだったらしい。
すぐに引き返したけれど、もう遅かった。
砂丘の向こうから次々とピュラルドが姿を現した。その数は百を優に超え、わたくしたちを追ってくる。
そこからは、ひたすら戦い続けた。
剣を振り、魔法を放ち、一体倒せば次が来る。倒しても倒しても終わらない。腕は重くなり、呼吸は乱れ、魔力も目に見えて減っていった。
どれほど戦ったのか。一時間ほどだったのかもしれない。最後の一体が倒れたときには、三人とも立っているだけで精一杯だった。
それでも、同じ場所に留まっているわけにはいかなかった。
血の匂いに別の魔物が寄ってくる可能性がある。わたくしたちは疲れ切った体を無理やり動かし、その場を離れた。
それから数十分ほど歩いただろうか。
追ってくる気配がないことを確認し、ようやく少しだけ気を抜いた。
魔力は残っていない。二人も限界だった。
もう少し進んだところで休もう。そう話していた、そのときだった。
前方で何かが動いた。
巨大な体。
地面へ張り付くような太い胴体。そして、体の半分ほどもある大きな口。
——バルガ。
気づいたときには、すでに遅かった。
巨大な口が開き、舌が一瞬でこちらへ伸びてきた。
「——っ!」
「「お嬢!!」」
体に強い衝撃が走った。
ドガルとスガルが、わたくしを突き飛ばしたのだ。
地面へ倒れながら顔を上げる。
「逃げてください!!」
「右に同じくだ!! 生きてください、お嬢!!」
「待っ——」
言い終わるより早かった。
二人の姿が、消えた。巨大な舌に絡め取られ、そのままバルガの口の中へ引きずり込まれていった。
「…………」
一瞬、何も考えられなかった。
——逃げろ。
二人がそう言った。今なら、まだ逃げられるかもしれない。
わたくし一人なら。
けれど、足が動かなかった。
まただ。また、わたくしを助けるために二人が犠牲になった。
あの夜も。そして今も。
——嫌。
そんなのは嫌。
何かできるかもしれない。
きっと何か。
何か——。
そんなことを考えているうちに、逃げるための時間はなくなっていた。
気が付いたころには、目の前が暗くなり、わたくしもバルガに呑み込まれていた。
胃の中へ落ちたわたくしが最初に見たのは、座り込んでいる二人だった。
「ドガル! スガル!」
二人とも生きている。
それだけで胸がいっぱいになった。
けれど、わたくしの姿を見た二人は、喜ぶどころか血相を変えた。
「お嬢!? なぜ来たんじゃ!」
「逃げろと言ったじゃろうが!」
「そんなこと言われても、二人を置いていけるわけありませんでしょう!」
「「馬鹿者があぁああああ!」」
あれほど本気で怒鳴られたのは、初めてだったかもしれない。
それでも二人はすぐに立ち上がった。
自分たちも限界のはずなのに、剣を抜き、胃壁へ何度も突き刺す。
「ぬぅぅぅっ!」
「破れろぉぉぉ!」
けれど、傷一つつかない。何をしても、びくともしない。
——ああ。
ここで終わるのですね。不思議と、そう思った。
最後に二人と一緒なら、それでもいい。そんな考えが頭をよぎりかけた、そのときだった。
「ごほん」
突然聞こえた声に、三人揃って振り返る。
いつの間に入ってきたのだろう。つい先ほどまで、ここにはわたくしたち三人しかいなかったはずなのに、もう一人そこに立っていた。
しかも、まだ幼い子供だった。
その子——レイ君は、そんなわたくしたちを気にする様子もなく、小さな瓶を握ったまま笑いかけてきた。
そして、聞いたこともない言葉を口にした。
「ハロー」
何を言っているのか分からなかった。
「ワールド」
続けて、もう一つ。
「エグゼキュート!」
次の瞬間だった。
レイ君が持っていた小瓶が砕け、中から砂がこぼれ落ちた。
そしてまた声と共にその砂が増えていく。
「……え?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
レイ君が聞き慣れない言葉を発するたびに砂が増えていく。
何が起きているのか理解する暇もなく、バルガの体が激しく揺れ始める。必死に息を止めていると、突然ものすごい力で体が押し流された。
そして次に目を開けたとき、わたくしたちはバルガの外へ吐き出されていた。
三人とも、生きている。
ついさっきまで、もう助からないと覚悟していた。それなのに、こうして三人揃って外の空気を吸えている。
レイ君が、わたくしたちを助けてくれたのだ。
あのとき胸に込み上げてきた感情を、わたくしは今でも忘れられない。
もし、またこの子に会うことがあったなら。そのとき困っていたら、今度はわたくしが助けよう。
ドガルとスガルが、ずっとわたくしにしてくれたように。
まさか、その機会がこれほど早く来るとは思わなかったけれど。
レイ君たちと別れてしばらくした頃、遠くから凄まじい魔力を感じた。
足を止め、振り返る。
レイ君たちが帰っていった方角だった。
「戻りましょう」
わたくしはすぐにそう言った。
けれど、ドガルとスガルはすぐには頷かなかった。
当然だった。
あれほどの魔力を持つ何かがいる場所へ向かおうと言っているのだから、二人がわたくしの身を案じるのも無理はない。
しばらく黙っていたドガルが、やがて大きなため息をついた。
「……どうせ止めても行くんじゃろ?」
「ええ」
「右に同じくだ。 お嬢は昔から変わらんのう」
スガルも呆れたように笑った。
けれど、二人だって同じだったのだと思う。
命を救ってもらった借りを、そのままにしておきたくなかったのだ。
わたくしたちは来た道を戻った。
何時間も進み続けたのちに、途中で感じていた魔力が突然消えた。
本当に、突然だった。
それまで確かに存在していたものが、最初から何もなかったかのように消えてしまった。それでも最初に感じた方角を頼りに歩き続けたが、やがて日は沈み、辺りは暗くなった。
レイ君たちは見つからず、魔力も感じない。これ以上進むのは危険だと判断し、その日は野営することにした。結界を張り、火を起こし、明日になったらもう一度探そうと三人で話していたときだった。
——ドンッ!
突然、結界に何かがぶつかった。
三人揃って武器を取り、すぐに様子を確認しに向かう。そこで倒れていたのが——レイ君だった。
目を覚ましたレイ君に何があったのかを尋ねると、最初はうまく話すことができなかった。それでも少しずつ、途切れ途切れに何があったのかを話してくれた。
自分のせいで、みんな死んだ。自分が弱かったから。何もできなかったから。自分だけが生き残ってしまった。
そう言って、まだこんなに小さな子が、自分一人ですべてを背負おうとしていた。
わたくしは、ずっと誰かに救われてきた。あの夜はドガルとスガルに。そしてバルガに呑み込まれたときは、レイ君に。
だからこそ、今度は目の前で苦しんでいるこの子を、わたくしが助けてあげたいと思った。
レイ君は、本当に勇敢な子だ。
わたくしたちを助けるために自らバルガの中へ飛び込んできた。
大切な人たちを守るためにも、きっと最後まで必死に何かをしようとしたのだろう。それでも救えなかったという結果だけを見て、自分が弱かったからだと責めている。
だから、抱きしめた。何度も大丈夫だと伝え、泣き疲れるまでずっとそばにいた。
けれど、人を失った痛みが、そんな言葉だけで消えるはずがないことくらい分かっている。わたくしも、人を失う痛みを知っているから。
そして、レイ君が眠りにつく少し前。わたくしは彼を抱きしめたまま、耳元で静かに魔法を唱えた。
本来は、人の感覚へ干渉して幻を見せるための魔法。それを少しだけ応用して、乱れきった心を落ち着かせるために使った。
淡い光がレイ君の背中から漏れ、すぐに消えていく。しばらくすると呼吸もゆっくりになり、レイ君はわたくしの腕の中で眠りについた。
そして——今。
「シーラさん、これはなんて読むんですか?」
「こちらは『リ』ですわ」
「『リ』……」
レイ君は一度声に出して確認すると、忘れないように何度も紙へ書き始めた。その真剣な横顔を眺めていると、自然と頬が緩む。
こうして誰かに何かを教えていると、不思議な気分になる。
わたくしはずっと、教えられる側だった。
何度転んでも立たせてくれて、間違えれば叱ってくれた。そして本当に危険なときには、自分たちの命すら顧みず守ってくれた。
いつしか先生ではなく、家族になっていた二人。
ならば今度は、わたくしの番なのかもしれない。
この子には今、何かを教えてくれる人も、間違えたときに叱ってくれる人も、悲しいときに話を聞いてくれる人も必要なのだと思う。そして、泣きたいときには黙ってそばにいてくれる人も。
母親の代わりになれるなどと、大それたことを言うつもりはない。亡くなった人たちの代わりになれるとも思わない。誰かの代わりになど、きっと誰にもなれない。
それでも、この子がまた一人きりにならないように見守ることはできる。
かつて、ドガルとスガルがわたくしにしてくれたように。
「シーラさん! ちゃんと書けるようになりました!」
嬉しそうに紙を見せてくるレイ君に、思わず頬が緩む。
「ええ、正解ですわ。では次はこちらを覚えましょうか」
「はい!」
元気な返事とともに、レイ君はまた紙へ向かった。
この旅がいつまで続くのかは分からない。レイ君がこれからどこへ向かうのかも、いつかわたくしたちと別れる日が来るのかも分からない。
それでも、その日までは。
この子がもう一度、自分の足で前を向いて歩けるようになるまで、わたくしがそばで見守り続けよう。




