第十一話「Import="新しい知識";」
カルバ車に揺られながら、僕はシーラさんにイグラシャル語を教えてもらった。
途中、カルバを休ませるために何度か休憩を挟みながら進み続け、気づけば空が赤く染まり始めている。
最初は知らない言葉を一から覚えるなんて大変そうだと思っていたけれど、イグラシャル語は思っていたよりも簡単だった。
というのも、文法が日本語とかなり似ているのだ。
基本的には単語さえ覚えてしまえば、知っている言葉を順番に並べるだけである程度の会話ができる。
文字も見たことのない形ばかりだったけれど、漢字みたいに一文字ごとに意味や読み方がいくつもあるわけではない。
覚えること自体は、それほど難しくなさそうだ。
ただ、一つだけ問題がある。
「……文字、多いなぁ」
僕はシーラさんが紙に書いてくれた文字の一覧を眺めながら呟いた。
最初に覚えたヴァルグク語は、とにかく文字の種類が少ない。
文法には少し変わったところがあったけれど、覚える文字そのものが少なかったおかげで、思ったより早く喋れるようになった。
それに比べて、イグラシャル語は文字の種類がかなり多い。
普通に生活するだけなら、そのうち慣れるだろう。
でも、僕の能力で使うとなると話は別だ。
僕のプログラムは、一文字書くごとにPPを消費する。
同じ意味の命令を書くなら、一文字でも短い方がいい。
そう考えると、これからも能力を使うときはヴァルグク語にかなりお世話になりそうだ。
「レイ君、もうここまで理解できるなんて、やっぱりすごいですわ」
「本当ですか?」
褒められて、少し嬉しくなる。
実を言うと、僕自身も驚いていた。
元の世界にいた頃は、勉強なんて全然頭に入ってこなかった。
教科書を読んでいる途中でゲームのことを考え始めて、気づけば一ページも進んでいないなんてこともしょっちゅうだった。
なのに、この世界へ来てからは妙に物覚えがいい。
一度聞いた単語も頭に残りやすいし、レナにヴァルグク語を教えてもらっていたときも、最初こそ苦労したけれど、一年で会話には困らないくらいになった。
環境が変わったからなのか。
それとも、この世界に来たこと自体に何か関係があるのか。
今の僕には分からない。
「これなら、アルベルロ王国へ着く頃には、不自由なくお話しできるようになっていそうですわね」
「シーラさんの教え方が上手だからですよ。ありがとうございます!」
「あらまぁ、レイ君ったら。ふふっ、本当に教えがいのある生徒ですわ」
シーラさんが嬉しそうに僕の頭を撫でる。
「…………」
やっぱり、この人は僕をものすごく子供扱いしてくる。
まあ、昨日あれだけ泣きわめいて、最後には抱きしめられながら寝たんだから、そう思われても仕方ないのかもしれないけど。
なんとも言えない気持ちで撫でられていると、前の御者席からドガルさんが振り返った。
「お嬢! あんまりレイ殿を子供扱いするのはやめていただきたいですぜ! レイ殿は、わしらの命の恩人ですぜ!」
「右に同じくだ!」
スガルさんも大きく頷く。
「いいじゃない! レイ君はまだ子供ですのよ!」
「お嬢だって、まだ子供ですぜ!」
「なっ!?」
シーラさんの眉がぴくりと動いた。
「何をおっしゃいますの! 私はもう十六歳ですのよ! 立派な成人ですわ!」
「十六!?」
今度は僕が声を上げた。
「……どうしましたの?」
「いや……もっと年上かと思ってました」
「…………」
まずい。
シーラさんの笑顔が固まった。
「レイ君。それは、どういう意味かしら?」
「い、いや! 老けてるって意味じゃないですよ!」
「わたくし、まだ何も言ってませんわよ?」
「…………」
墓穴を掘った。
御者席から「ぶふっ」と吹き出す音が聞こえた。
「ドガル!」
「わ、わしは何も言ってませんぜ!」
「右に同じくだ。わしは三十歳くらいだと思ってましたぜ」
「スガル!!」
シーラさんは二人を睨みつけている。
それにしても驚いた。僕と三歳しか変わらないなんて。
失礼だけど、とてもそうは見えなかった。
シーラさんは背が高い。正確には分からないけれど、おそらく百七十センチ後半くらいはあるだろう。
それに、何より言葉遣いが上品だ。
落ち着いた振る舞いも相まって、てっきり大人の女性だと思っていた。
そういえば、この喋り方。
もしかして、シーラさんって貴族だったりするんだろうか。
「そういえば、シーラさんたちはアルベルロ王国へ戻るって言ってましたけど、出身もそこなんですか?」
「いいえ。わたくしたちは、東にあるフィオレナ大陸の出身ですわ」
「フィオレナ大陸……」
また新しい地名だ。
「どんなところなんですか?」
「そうですわね……」
シーラさんは少し懐かしそうに目を細め、遠くの景色へ視線を向けた。
「とても自然豊かな大陸ですわ。森も、川も、花畑もございますし、この辺りとはまるで違いますの。いつかレイ君にも見せて差し上げたいくらい綺麗なところですわ」
「行ってみたいです!」
「ふふっ。そうですわね」
そこまで言ってから、シーラさんの表情がほんの少しだけ曇った。
「……ですが、わたくしたちは少々事情がありまして、今はフィオレナ大陸へ帰ることができませんの」
「事情?」
「ええ。少し、複雑な事情がございますの」
それ以上、シーラさんは話さなかった。
代わりに手元の紙へ新しい文字を書き始める。さっきまでとは明らかに様子が違った。たぶん、あまり触れてほしくない話なのだろう。
僕だって、話したくないことはある。だから、これ以上聞くのはやめておいた。
それからしばらくして、御者席からドガルさんの声が飛んできた。
「お嬢! そろそろ今日はこの辺りで休みましょうぜ!」
「右に同じくだ。ケツが痛いですぜ」
「そうですわね。暗くなる前に準備いたしましょう」
カルバ車がゆっくりと速度を落とし、やがて完全に止まった。
長時間揺られていたせいか、地面へ降りると足元がまだ揺れているような変な感覚がする。
三人は慣れた様子ですぐに野営の準備を始めた。
ドガルさんとスガルさんが荷台から薪や寝具を下ろし、手際よく並べていく。
一方、シーラさんは少し離れた場所へ立つと、静かに目を閉じた。
「……?」
何をするんだろう。
やがてシーラさんの唇が動き始める。
「——よ、——————————。
————————、————を——が————。
——と——を——、——の——を——————《————》」
「…………」
ほとんど分からない。
習い始めて一日目なのだから当然だけれど、知らない単語が多すぎて、僕にはところどころしか聞き取れなかった。
しかし、最後の言葉が発せられた瞬間。
ブゥン——。
低い音とともに、僕たちを囲むように地面から淡い光が立ち上がった。
「うわっ……!」
光は四方へ伸び、やがて僕たちを囲む巨大な箱のような形を作る。
正方形の壁。いや、壁だけじゃない。頭上にも薄い光が広がり、まるで僕たちの周りに透明な家が建ったみたいだった。
けれど、それも数秒だけだった。
淡く輝いていた壁は徐々に透明になり、最後には完全に見えなくなる。
「もしかして、今のが結界ですか?」
「ええ、そうですわ」
シーラさんが振り返る。
「レイ君には、まだ詠唱の内容までは分かりませんわよね」
「はい。ほとんど何を言ってるのか……」
「でしたら——」
シーラさんは紙を一枚取り出すと、先ほどの詠唱を書き記してくれた。
僕にも分かるように教えてもらいながら読み解いていくと、大体こんな意味らしい。
「境界よ、我が名のもとに形を成せ。
我が内に巡る魔力を汝が糧とし、我が定めし地を汝が座と定める。
内と外を隔て、害意ある者の侵入を拒み続けよ——《レグナ》」
「…………」
もう一度、最初から読む。
そこで、ふと思った。
これ。なんだかプログラムに似てないか?
『境界よ、我が名のもとに形を成せ』
まず最初に、何の魔法を使うのかを決めている。
プログラムで言うなら、最初に扱うものを指定するようなものだ。
そして『我が内に巡る魔力を汝が糧とし、我が定めし地を汝が座と定める』
ここでは、使う魔力と魔法を発生させる場所を決めている。
最後に『内と外を隔て、害意ある者の侵入を拒み続けよ』
これは、魔法が実際に何をするのか。つまり、挙動や出力の指定だ。
「なるほど……」
魔法なんて、もっと感覚的なものだと思っていた。
炎を出したいから炎魔法。
水を出したいから水魔法。
そんな単純なものだと。
でも実際は違うらしい。
何を生み出すのか。
どこへ生み出すのか。
どう動かすのか。
それらを詠唱によって一つずつ定めている。
意外と、理にかなっているようだ。
「…………」
これなら。
もしかすると魔法も——。
そこまで考えたところで、僕は一度思考を止めた。
今はまだ、分からないことが多すぎる。まずは実際の魔法をもっと見てみよう。
僕は先ほど光の壁が現れた場所へ近づいた。
「確か、この辺りだったよな……」
目の前には何もない。
試しに軽く拳を突き出してみる。
すかっ。
「うわっ!?」
壁に当たると思っていた拳がそのまま通り抜け、勢い余って前へつんのめる。
「おっとっと……!」
後ろから、シーラさんの笑い声が聞こえた。
「ふふっ。レイ君、危ないですわよ」
「あれ? 結界は?」
「レイ君は対象に含めておりますから、自由に出入りできますの」
「そんなことまで指定できるんですか?」
「もちろんですわ」
すごい。
単純に壁を作るだけじゃなく、誰を通して誰を通さないのかまで決められるらしい。
ますますプログラムみたいだ。
僕が感心している間に、ドガルさんたちは焚き火の準備を終えていた。
シーラさんは薪の前へしゃがみ、右手をかざす。
そして、再び詠唱を始めた。
今度はさっきより短い。まだ分からない単語はいくつかあったけれど、大体の意味は聞き取れた。
「炎よ、我が名のもとに形を成せ。
我が内に巡る魔力を汝が糧とし、我が掌を汝の座と定める。
——、——————続けよ——《イグニス》」
詠唱が終わると同時に、シーラさんの掌に小さな炎が灯った。
「おお……!」
揺らめく炎を薪へ近づける。
ぱちっ。
乾いた木が爆ぜ、一気に炎が広がった。
続いてスガルさんが大きな樽を運んでくる。
「お嬢、こっちも頼みますぜ」
「ええ」
シーラさんが樽へ掌を向けた。
「水よ、我が名のもとに形を成せ。
我が内に巡る魔力を汝が糧とし、我が掌を汝の座と定める。
——、——————————《ミュラ・ネフィア》」
次の瞬間、掌から大量の水が流れ出した。
ざああああっ、と勢いよく樽へ注がれていく。
「す……すごい!」
思わずシーラさんへ駆け寄る。
「シーラさんって、こんなにたくさん魔法を使えるんですね!」
「ふふふっ」
シーラさんは得意げに笑うと、腰に両手を当てて胸を張った。
「そうですわ! これでもわたくし、魔法に関してはなかなかのものなんですのよ!」
「まあ、肝心なときに魔力切れで死にかけてましたがね」
「右に同じくだぁ」
「ちょっ……!」
シーラさんの得意げな顔が一瞬で崩れた。
「し、仕方ありませんでしょう! あのときはピュラルドの大群と戦った直後だったんですのよ!」
「もしかして、バルガに食べられる前の話ですか?」
「え、ええ……」
シーラさんが少し恥ずかしそうに頷く。
「助けていただいた身で言い訳はしたくありませんけれど、魔力切れさえ起こしていなければ、わたくしたちもそれなりには戦えたんですのよ?」
「ピュラルドの大群には参りましたぜ」
ドガルさんが焚き火のそばへ座りながら言う。
「たまたま通った場所が、奴らの縄張りだったみたいでなぁ。気づいたときには囲まれてましたぜ」
「右に同じくだ! 一時間は戦いましたぜ!」
スガルさんも隣へ腰を下ろす。
「わしらもヘトヘトだったからな! 元気いっぱいなら、バルガの胃なんぞ真っ二つでしたぜ!」
「右に同じくだ。今度、証明するためにもう一度食われてみましょうぜ」
「いや、それはやめてくださいよ!」
命を懸けてまでそんな確認はしたくない。
でも三人が本当に強いのかは気になる。
僕はシーラさんへまず意識を向けた。
『Inspect』
player_SheilaKleina
{
Name = "SheilaKleina"
Level = 205
HP = 8160
MP = 23444
……
}
「二百五レベ!?」
思わず叫んでしまった。
「ど、どうしましたの、レイ君!?」
「あっ……! ご、ごめんなさい。なんでもないです!」
慌てて誤魔化しながら、今度はドガルさんへ視線を向ける。
player_DogalHaminton
{
Name = "DogalHaminton"
Level = 389
HP = 14350
MP = 8546
……
}
続いて、スガルさん。
player_SugalHaminton
{
Name = "SugalHaminton"
Level = 389
HP = 14350
MP = 8546
……
}
「…………」
同じだ。
レベルだけじゃない。
HPもMPも、表示されている数値が全部同じ。
双子だからって、ステータスまで一緒になるものなのか?
いや、それより。
確かバルガのレベルは百六十くらいだったはずだ。
つまり三人の言っていたことは、たぶん本当だ。
万全の状態だったなら、あのバルガにも十分余裕で勝てたのだろう。
「皆さん……本当に強いんですね」
「ふふっ。わたくしは幼い頃から魔術を習っておりましたから」
シーラさんが少し誇らしげに答える。
「わしらも小さい頃から、ずーっと二人で戦ってきたからなぁ!」
ドガルさんが腕を組む。
「右に同じくだ。わしらは現在、一万四千六百戦、一万四千六百引き分けじゃ」
「全部引き分け!?」
「双子ですからな」
「それ関係あります!?」
思わずツッコミを入れると、三人が笑った。
でも、強い理由はなんとなく分かる。
三人とも、ずっと鍛錬を続けてきたんだ。
レベルだけじゃない。
魔法の使い方も、戦い方も、経験も。
僕とは何もかもが違う。
「…………」
ふと、レナのことを思い出した。
確かレナのレベルは、ドガルさんやスガルさんと同じくらいだったはずだ。二人がこれだけ強いのに、レナはまだ十三歳だった。そう考えると、改めて竜人族という種族がどれだけ強かったのかが分かる。
レナだけじゃない。ラキさんも、ロナさんも。僕が当たり前のように一緒に暮らしていた家族は、本当はとんでもなく強い人たちだった。
「……やっぱり、すごかったんだな」
小さく呟くと、胸の奥がほんの少しだけ痛んだ。それでも不思議と、今は悲しさだけじゃなかった。
本当に少しだけだけど、そんな人たちに家族として迎えてもらえたことを、誇らしく思えた。
「さて」
そんな僕の気持ちを切り替えるように、シーラさんがぱんっと手を叩いた。
「食事の前に、そろそろ身体も洗ってしまいましょうか」
「身体を?」
「ええ。レイ君、昨日からずっと砂まみれでしょう?」
言われて自分の服を見る。
確かにひどい。
砂漠を歩き回ったせいで服は砂と埃まみれだし、転んだ跡も残っている。
自分では慣れてしまっていたけれど、考えてみればかなり汚れているはずだ。
「それに、わたくしたちもそろそろ限界ですの」
「限界?」
「ピュラルドの群れと戦ってから、まともに身体を洗えていませんのよ。魔力がほとんど残っていませんでしたから、水魔法に使う余裕もありませんでしたの」
そう言いながら、シーラさんは自分の髪を一房つまみ、少し嫌そうな顔をした。
「昨日は結界を維持するだけで精一杯でしたし……ようやく魔力も戻ってきましたから、今日はちゃんと洗えますわ」
「待ちに待った水浴びですぜ!」
焚き火の向こうからドガルさんが嬉しそうに声を上げる。
「右に同じくだ。わし、そろそろ自分も臭う気がしてきましたぜ」
「ちょっと! そういうことを言わないでくださいまし! わたくしまで臭うみたいではありませんの!」
「お嬢も同じ日数洗ってませんぜ?」
「…………」
「右に同じくだ!」
「あなたたちは少し黙っていなさい!」
二人を睨みつけてから、シーラさんは何事もなかったかのように僕へ向き直った。
「……では、まずはレイ君から。じっとしていてくださいまし」
「は、はい」
シーラさんが僕の前へ立ち、両手を頭の上へ向けた。
「水よ、我が名のもとに形を成せ。
我が内に巡る魔力を汝が糧とし、我が掌を汝の座と定める。
我が魔力を————、——に——せ。
——、—————————《ミュラ・ネフィア》」
掌から水が湧き出す。
けれど、その水は地面へ落ちなかった。
シーラさんの両手の間に、ぷかぷかと浮かんでいる。
「……水が浮いてる」
その水の塊が僕の頭へ近づいてきた。
ちゃぷん。
頭全体が水に包まれる。
「んっ……あったかい!」
水じゃない。ちゃんとお湯だ。
熱すぎず、ぬるすぎない。ちょうどいい温度だった。
「動かないでくださいましね」
「はい!」
そこへドガルさんが、細長い葉っぱのようなものを持ってきた。
「お嬢、いれますぜ」
「ありがとう」
シーラさんが葉を水の中へ入れる。
すると。
ぶくぶくぶくっ。
「うわっ!?」
一気に泡立った。
爽やかな香りが鼻をくすぐる。
シャンプーみたいなものだろうか。
次の瞬間、水が僕の頭の周りでぐるぐると回り始めた。
「うおおおお!?」
髪の間をお湯が通り抜け、泡と一緒に砂や汚れを洗い流していく。
頭皮まで揉まれているようで、かなり気持ちいい。
「これ、どうやってるんですか!?」
「魔力で水の形や流れを操っているんですのよ」
「すごい!」
シャワーどころじゃない。
全自動洗髪機だ。
僕が感動しているのが嬉しいのか、シーラさんは得意げに笑った。
「ふふっ。では次は身体ですわね。レイ君、一瞬だけ息を止めてくださいまし」
「はい!」
大きく息を吸う。
すると頭を包んでいた水が一気に広がった。
ぶわっ。
「んんっ!?」
温かい水が、服ごと僕の身体を包み込む。
そのまま水流が全身を駆け巡った。
砂だらけだった腕も、足も、服も。
まるごと洗濯機へ放り込まれたみたいに、汚れが次々と流れ落ちていく。
数秒後、水が僕の身体から離れた。
「ぷはっ!」
大きく息を吸う。
「はい。綺麗になりましたわ」
服を見る。
あれだけ砂まみれだったのに、汚れがほとんど消えていた。
しかも、さっきの葉っぱのものなのか、ほんのりいい香りまでする。
「すごい……」
これ、元の世界にあったら絶対売れる。
髪を洗って、身体を洗って、服を洗濯する。
それを数十秒で全部終わらせてしまった。
そんなことを考えていると、シーラさんが再び掌を僕へ向けた。
「まだ濡れておりますからね。少しじっとしていてくださいまし」
そして、再び詠唱が始まる。
「風よ、我が名のもとに形を成せ。
我が内に巡る魔力を汝が糧とし、我が掌を汝の座と定める。
我が魔力を————、——に——を——せ。
我が掌————、————————《カルディア》」
ぶわあっ!
「おおっ!」
温かい風が全身を包んだ。
髪がばさばさと揺れる。
まるで巨大なドライヤーだ。
しかも一方向から吹いているわけではない。風が僕の身体を包むように流れ、髪から服まで一気に水分を飛ばしていく。
十数秒もすると、完全に乾いていた。
「はい! 終わりましたわ!」
「ありがとうございます! すごくすっきりしました!」
久しぶりに全身が綺麗になった。
思わず自分の腕をくんくん嗅いでしまう。
いい匂いだ。
「簡易的なもので申し訳ありませんわ。本当でしたら、大量のお湯にゆっくり浸かりたいところなのですけれど」
「大量のお湯……」
「ええ。ただ、水の温度を上げるには普通の水魔法よりも多くの魔力を消費してしまいますの。ここはヴァルグラ大陸ですから、いつ魔物に襲われるか分かりませんでしょう? できるだけ魔力は残しておきたいんですの」
大量のお湯に浸かる。それって——。
「……お風呂?」
思わず呟いた。この世界に来てから一年以上。身体を拭いたり、水を浴びたりすることはあった。でも、元の世界にあったような、肩までお湯に浸かる風呂には一度も入っていない。
そう考えた瞬間、無性に入りたくなった。でも大量のお湯を作るには魔力が必要。
大量の……。
「…………待てよ」
僕は自分の手を見る。
「……あ」
できるじゃん。
「シーラさん!」
「はい?」
「土とか岩の魔法って使えますか!?」
突然大声を出した僕に、シーラさんが目を丸くする。
「え、ええ。使えますけれど……どうしましたの?」
「だったら、大量のお湯を入れられる場所を作ってください!」
「お湯を?」
「はい!」
シーラさんは困ったように首を傾げた。
「ですが、先ほども申し上げた通り、大量のお湯を作るには相当な魔力が——」
「大丈夫です!」
僕は胸を張る。
「お湯は少しだけあればいいんです。それを僕が増やします!」
「…………」
シーラさんが固まった。
「あ……」
そして僕の能力を思い出したらしい。
「その手がありましたわ!!」
「お嬢!!」
ドガルさんがものすごい勢いで立ち上がった。
「やりやしょう!! どうせなら特大のをお願いしますぜ!!」
「右に同じくだ!! わし、足を伸ばせるくらいでお願いしますぜ!!」
「分かりましたわ! 任せてちょうだい!」
三人の目が急に輝き始めた。
そんなに風呂に入りたかったのか。
シーラさんが少し開けた場所へ移動し、地面へ両手を向ける。
「岩よ、我が名のもとに形を成せ。
我が内に巡る魔力を汝が糧とし、大地を汝が座と定める。
我が————し、——形へと————。
——、————————《グラデ・ドーラ》」
ゴゴゴゴゴゴ……!
「うわっ……!」
地面が震えた。
砂の下から岩がせり上がってくる。
最初はただの岩の塊だったものが、シーラさんの魔力に従うように少しずつ形を変えていく。
底が作られ、その周囲を囲むように岩壁が隆起する。
やがて完成したのは——。
「……露天風呂だ」
それもかなり大きい。
十人くらい入っても余裕がありそうだった。
「レイ君、こんな感じでよろしいかしら?」
「完璧です!」
続いてシーラさんがお湯を作り、石造りの風呂へ注いだ。
もちろん、この大きさからすればほんのわずかだ。
でも。
それだけあれば十分。
僕は石風呂へ手を向けた。
対象を認識する。
増やすのは——中に入っているお湯。
「Add Water! Execute!」
次の瞬間。
ザバァァァァァァァッ!!
「うおっ!?」
凄まじい勢いでお湯が増殖し、巨大な石風呂いっぱいにお湯が満たされた。
湯気が夜の砂漠へ立ち上っていく。
「す……」
シーラさんが目を見開く。
「すごいですわ!!」
「な、なんとぉ!!」
「み、右に同じくぅぅぅ!!」
三人が風呂へ駆け寄る。
僕の能力を見たことがあるはずなのに、この量が一瞬で増えたことにはさすがに驚いたらしい。
そして。
「お嬢!! 先にいただきますぜ!!」
「右に同じくだぁ!!」
「ちょっ——」
二人は空の樽でお湯を汲むと、身体の汚れを手早く洗い流した。
その直後。
「いざ!!」
「右に同じく!!」
ザッパァァァン!!
盛大な水しぶきが上がった。
「ちょっと!!」
シーラさんの額に青筋が浮かぶ。
「飛び込まないでくださいまし!! お湯がこちらまで飛んできましたわ!!」
「くぅぅぅぅぅ……!」
ドガルさんは聞いていない。
「生き返るぅぅぅぅ……!」
「右に同じくだぁぁ……!」
「……もう」
シーラさんは呆れたようにため息をついた。
けれど、目の前で気持ちよさそうにしている二人を見ているうちに、我慢できなくなったらしい。
荷台へ戻り、布を何枚か持ってきた。
「レイ君の分も、こちらへ置いておきますわね」
「あ、ありがとうございます」
そう答えてから、僕はふと気づく。
…………あれ?
シーラさんも入るの?
そう思った瞬間、僕は慌てて後ろを向いた。
「ど、どうしましたの、レイ君?」
「い、いや! なんでもないです!」
「そう?」
後ろから衣擦れの音が聞こえてきて、僕は意味もなく夜空を見上げた。
星が綺麗だ。
……ものすごく綺麗だ。
……今は星だけ見ていよう。
しばらくして、ちゃぷん、と水音が聞こえた。
「はぁぁぁぁぁ……」
さっきまでの上品な声からは想像できないほど、幸せそうなため息だった。
「気持ちいいですわぁ……」
「最高じゃぁ……」
「右に同じくじゃぁ……」
三人の声だけ聞いていたら、急に数十歳くらい老けたように聞こえる。
「レイ君も早くいらっしゃい! 布はそこに置いてありますわよ!」
「は、はい!」
僕も少し離れた場所へ移動し、服を脱いで腰へ布を巻く。
そして風呂へ近づいた。
湯気が立ち上っている。
足先をそっと入れてみる。
「あ……」
ちょうどいい。
熱すぎず、かといってぬるくもない。
ゆっくり身体を沈めていく。
足。腰。胸。そして肩まで。
「あぁぁぁぁぁ……最高だ……」
久しぶりのお風呂に、思わず声が漏れた。
肩まで浸かると、身体の芯までじんわりと温まっていく。これはたまらない。ずっとこのまま入っていたいくらいだ。
「レイ君、気持ちいいでしょう?」
「はい! 最高です!」
「ふふっ、そうでしょう、そうでしょう」
シーラさんも満足そうに頷き、再び肩までお湯に沈んでいく。
「はぁぁぁ……きもちぃいいいいいいい……」
「…………」
「…………」
ドガルさんとスガルさんが同時にシーラさんを見た。
「……何ですの?」
「いえ」
「右に同じくだ」
「何ですのよ!?」
ドガルさんが口元を押さえながら、スガルさんへ顔を近づける。
「聞いたか、スガル」
「聞いたぞ、ドガル」
そして二人は、ほとんど同時に口を開いた。
「「きもちぃいいいいいいい……」」
「なっ!?」
シーラさんの顔が一気に赤くなった。
僕は思わず吹き出した。
「ぶふっ!」
「レ、レイ君まで笑わないでくださいまし!」
「ご、ごめんなさい……!」
でも駄目だ。
さっきまであんなに上品に話していたシーラさんから出た声だと思うと、余計に面白い。
「いやぁ、実に気持ちよさそうでしたなぁ。もう一度聞かせていただいても?」
「嫌ですわよ!!」
ザバァン!
シーラさんが両手でお湯をすくい、ドガルさんの顔面へ叩きつけた。
「ぶはっ!?」
「お嬢! 暴力反対ですぜ!」
「ただのお湯ですわ!」
「右に同じくだ。暴力反対ですぜ」
「あなたも同罪ですわよ!」
ザバァン!
「ごぼっ!?」
今度はスガルさんがまともに食らった。
「……スガル。 反撃するぞ」
「右に同じくだ」
二人が同時にお湯へ手を突っ込む。
「くらえ、お嬢!」
「右に同じくだぁ!」
ザバァン!
「きゃっ!?」
大量のお湯を浴びたシーラさんが、濡れた髪を顔に張りつかせたまま固まった。
「…………」
「…………」
「…………」
しばらくの沈黙。
やがてシーラさんが、ゆっくりと髪をかき上げる。
「……覚悟はよろしくて?」
「…………」
「スガル」
「なんじゃ」
「逃げるぞ」
「右に同じくだ」
「逃がしませんわ!!」
再び大きな水しぶきが上がった。
「わっ!」
僕のところにまでお湯が飛んでくる。
「レイ殿! 援護を!」
「えっ!? 僕もですか!?」
「レイ君! そちら側についたら許しませんわよ!」
「どっちにもつきませんよ!」
「ならば中立という名の敵ですな!」
「なんで!?」
「右に同じくだ!」
「スガルさんは絶対何も考えてませんよね!?」
僕は笑いながら、三人がお湯をかけ合う姿を眺めていた。静かな夜の砂漠に、三人の声と水しぶきの音が響いている。
「ははっ……」
楽しそうだ。
僕も肩までお湯に浸かりながら、その光景を眺めていた。
そのとき、ふと目の前のお湯から立ち上る湯気が目に入った。
「…………」
温かい。
当たり前のことだけど、このお湯にはちゃんと温度がある。そして、この温度はシーラさんが魔法で作ったものだ。
「……待てよ」
魔法で温度を変えられる。ということは、温度というもの自体が、この世界では何かしらの情報として存在しているんじゃないか?
今まで僕は、水を増やすことしか考えていなかった。だから「量」しか見ようとしていなかった。
でも、もし温度もこの世界を構成している情報の一つなら——。
「…………」
僕は目の前のお湯へ意識を集中させる。
『Inspect』
半透明の文字が視界に浮かび上がった。
mu
表示されたのは、それだけだった。
いつも通り今の僕が認識できているのは、目の前にあるものが「水」ということだけ。
「……温度」
僕は小さく呟いた。
知りたい。この水が、今何度なのか。
温度という情報が、本当に存在しているのなら、それを見たい。
そう強く意識した瞬間だった。
「……え?」
視界に浮かんでいた文字が、わずかに揺らいだ。
そして、その下に新しい文字が現れる。
mu
{
temperature = 41
……
}
「……てんぺら……ちゃー?」
見たことのない単語だった。
でも、その横に表示された数字には目が止まった。
四十一。
「……もしかして」
僕は目の前のお湯に手を入れてみる。
温かい。熱すぎるわけでもなく、ぬるいわけでもない。日本にいた頃に入っていたお風呂も、確かこれくらいだった気がする。
「……これ、温度を管理する、変数なんじゃないか?」
心臓が少しだけ速くなる。
今まで僕は、この力で物の「量」を変えてきた。
水を増やした。
砂を増やした。
でも、もしこの"temperature"という項目が本当に温度を表しているのなら。
そして、この数字も「量」と同じように書き換えられるのなら——。
僕は表示された一行から目を離せなかった。
temperature= 41
「これって……」
例えば、この四十一を百にしたら?
逆に、マイナス百にしたら?
目の前のお湯はどうなる?
もしかすると——。
物の量だけじゃなく——。
その物が持っている性質そのものを、書き換えられるんじゃないか?
そんな考えが、初めて僕の頭に浮かんだ。




