第五話「Upgrade="初めての狩り-後編";」
「なんだ……あれ」
岩陰から様子をうかがいながら、僕は思わず声を漏らした。
少し離れた砂地に、見たこともない魔獣がいた。
トカゲとカエルを無理やり混ぜ合わせたような姿をしている。
体長は四メートルほど。
地面に張り付くような太い胴体と、体の半分を占めるほど大きな口。
赤黒い皮膚は粘液で覆われ、強い日差しを受けてぬらぬらと光っていた。
呼吸をするたびに脇腹が大きく膨らみ、喉の奥から湿った音が漏れている。
その魔獣の前には、長い黒髪の女性。
武器を手にしてはいるものの、追い詰められているのは一目で分かった。
女性が足をもつれさせながら後ろへ下がる。
その瞬間、魔獣の巨大な口が開いた。
「え——」
赤黒い舌が、槍のような勢いで飛び出した。
速い。
僕が何をされたのか理解するより先に、舌が女性の胴体へ巻きついた。
悲鳴を上げる暇もなく引き寄せられ、女性の姿が大きな口の中へ消える。
魔獣の喉が、ごくりと動いた。
「バルガだ」
隣でラキさんが低くつぶやいた。
「バルガ……」
僕は魔獣へ意識を集中させ、心の中で唱える。
『Inspect』
monster_BargaDoster
{
Name = "BargaDoster"
Level = 168
HP = 232
MP = 65
……
}
レベルは百六十八。
さっき僕が苦戦して倒したサビットとは、比べものにならない。
今の僕では、どう考えても正面から戦える相手ではなかった。
それでも、飲み込まれた女性はまだ生きているかもしれない。
助けられるかもしれない。
一歩踏み出そうとした瞬間、ラキさんの手が僕の腕を強く掴んだ。
「魔力を抑えろ。あの女は、もう手遅れだ」
「え?」
「バルガのリタは強靱だ。一度飲み込まれれば、内側から破るのは難しい。あの女も、いずれリタガラで死ぬ」
リタ。リタガラ。
聞き慣れない言葉だったけれど、おそらくリタは胃、リタガラは胃酸のことなのだろう。
「でも、まだ生きているかもしれません」
「レイ」
腕を掴む力がさらに強くなる。
「駄目だ。俺たちが出るべきではない」
「…………」
ラキさんは、いつもより口数が多かった。
まるで僕に説明しているというより、自分自身へ言い聞かせているように聞こえる。
きっと、ラキさんなら助けられる。
バルガのレベルは百六十八。それに対して、ラキさんは七百を超えている。
数字だけを見ても、ラキさんのほうが圧倒的に強い。
それでも、動かない。
狩りへ向かう途中で聞いた話が、頭をよぎった。
——竜人狩り。
ここで姿を見せれば、竜人族の存在を人間に知られてしまう。
助けた相手が善人だとも限らない。仲間を連れて戻ってきて、村が襲われる可能性だってある。
ラキさんは一人の命ではなく、村に暮らす全員の命を背負っている。
だから、動けない。
「…………」
分かっている。
ラキさんの判断は間違っていない。
それでも、目の前で誰かが死ぬ。
それを黙って見ているだけなんて、僕にはできなかった。
あのときのことを思い出す。
レナが竜に襲われると思った時。
僕は怖くて何もできなかった。
動かなければならないと分かっていたのに、足が震えて、ただ見ていることしかできなかった。
あのときの悔しさは、今でも胸の奥に残っている。
もう、同じ後悔はしたくない。
「レイ?」
僕は、腕を掴んでいたラキさんの手を振りほどいた。
「——待て!」
気づいたときには、岩陰から飛び出していた。
「レイ!」
背後からラキさんの声が聞こえる。
ごめんなさい、ラキさん。
サビットを一匹倒せたからといって、調子に乗ったわけじゃない。
レベル差を見れば、僕がバルガにかなうはずがないことくらい分かっている。
でも、僕にはプログラムの力がある。
この世界の常識を、無視できる力が。
勝てる。
そう思える方法が、一つだけあった。
僕は走りながら、腰に下げた小瓶を掴む。
中に入っているのは、いつも持ち歩いている一握りの砂だ。
こちらの気配に気づいたバルガが、ゆっくりと頭を動かした。
左右に飛び出した大きな目が、ぎょろりと僕を捉える。
口の端から粘り気のある唾液が流れ、砂の上へ糸を引きながら垂れ落ちた。
「…………っ」
怖い。
膝が震えそうになる。
心臓が胸を突き破りそうなほど鳴っている。
バルガの口が大きく開き、暗い喉の奥が見えた。
次の瞬間、長い舌が一直線に飛んでくる。
僕は避けずに、まっすぐ走り続けた。
「来い……!」
舌が腰へ巻きつき、体が宙に浮いた。
「うわっ!」
強い力で引き寄せられ、視界が巨大な口で埋め尽くされる。
生臭い息が顔に吹きつけた直後、周囲が真っ暗になった。
体が狭い喉の中を滑り落ちていく。
やがて、柔らかい何かの上へ落下した。
「うわっ!」
生温かい液体が全身に飛び散った。
ぬるぬるしていて、鼻が曲がりそうなほど臭い。
酸っぱいような、腐った肉のような臭いが喉の奥にまとわりつく。
「ここが……胃の中……?」
周囲は暗かった。けれど、少し離れた場所で小さな火が揺れており、その明かりのおかげで内部の様子がぼんやりと見える。
赤黒い肉の壁が、呼吸に合わせて脈打っている。
足元には濁った液体が溜まり、その中には溶けかけた骨や、何かの装備らしきものが沈んでいた。
さっき飲み込まれた女性は、壁際で咳き込んでいた。
それだけではない。男性も二人いた。
一人は短い刃物を両手で握り、必死に胃壁へ突き立てている。
もう一人は松明のような道具を押し当て、内側から焼き破ろうとしていた。
けれど、刃物は弾かれ、火を当てられた胃壁にも傷一つついていない。
「くそっ! また塞がる!」
「駄目だ! 火でも焼けない!」
三人とも、自分たちが助からないと分かっているような顔をしていた。
僕が落ちてきたことにも、まだ気づいていない。
「ごほん」
わざとらしく咳払いをすると、三人が一斉に振り返った。
「え?」
「君は……」
僕は小瓶を握ったまま、三人に向かって笑った。
今からすることを説明しても、きっと伝わらない。
それなら、余計なことは言わなくていい。
「Hello」
三人が呆然と僕を見る。
僕は続けた。
「World」
頭の中に、コードが開かれる。
この世界に来て初めて書いたプログラム。
砂を増やすだけの、簡単なコード。
僕はそれに——《HelloWorld》と名前をつけていた。
「——Execute!」
パリンッ!
手の中の小瓶が砕け、ほんの一握りの砂が足元へこぼれ落ちた。
でも、それだけあれば十分だ。
「Execute!」
足元の砂が、一瞬で増えた。
「Execute!」
さらに砂が膨れ上がる。
「Execute! Execute! Execute!」
足元の砂が爆発したように膨れ上がる。
「な、なんだ!?」
「砂が増えている……!」
砂は見る間に胃の底へ広がっていった。
足首まで。
膝まで。
腰まで。
あっという間に三人の体が埋まっていく。
「君、何をしているんだ!」
「大丈夫です! たぶん!」
「たぶん!?」
男性の叫びが聞こえたけれど、止めるわけにはいかない。
「Execute!」
砂が胃の中を埋め尽くし、ついに僕の顔まで押し寄せてきた。
「——っ!」
息を止める。
視界が完全に砂に塞がれた。
直後、腹の底へ響くような咆哮が聞こえた。
バルガが暴れている。
胃の中へ大量の砂が生まれ、苦しんでいるのだろう。
上下も分からないほど激しく揺さぶられ、体が砂の中で何度も回転する。
そして突然、全身を押し流すような強い力が襲ってきた。
「——うわっ!?」
体が宙へ投げ出される。
暗闇から一転し、眩しい光が目に飛び込んできた。
青空だ。
「げほっ! げほっ!」
砂の上へ転がりながら、肺の中に入った砂と生臭い液体を吐き出す。
僕だけではない。
女性と二人の男性も吐き出されていた。
バルガは胃の中の砂に耐えられず、僕たちを吐き出したのだ。
巨大な腹が異常なほど膨れ上がっている。
口を大きく開けて必死に空気を吸い込み、喉の奥から潰れた笛のような音を漏らしていた。
なら、今が最後の一撃だ。
「もう一回……!」
僕はバルガへ手を伸ばし、意識を体内に残っている砂へ集中させる。
「Execute!」
さらに砂が増えた。
バルガの腹が内側から押し広げられ、皮膚が不自然なほど張り詰める。
巨大な体が大きく反り返った。
短い手足で地面を蹴り、必死にもがく。喉から声にならない音を漏らしながら、何度も体をよじった。
けれど、その動きは次第に弱くなっていく。
やがて——。
ドスンッ。
大きな音を立て、バルガの巨体が砂の上へ倒れた。
「…………」
動かない。
先ほどまで響いていた咆哮も止まり、砂漠に静けさが戻ってくる。
聞こえるのは、風に流される砂の音と、僕たちの荒い呼吸だけだった。
「……倒した?」
——ピコン。
「!」
聞き慣れた電子音が鳴り、視界の中央に文字が浮かび上がる。
Level = 5
HP = 53
MP = 13
PP = 20
「二つも上がった……!」
レベルが二つも上がり、PPも二十まで増えていた。
でも、バルガのレベルは百六十八だった。
あれだけの相手を倒したのだから、一気に三十レベルくらいまで上がってもいいのではないかと思ったけれど、どうやらそこまで甘くないらしい。
少し残念だ。
「レイ!」
「——っ」
鋭い声に振り返る。
少し離れた場所に、ラキさんが立っていた。
その手には剣が握られ、顔にはこれまで見たことがないほど険しい表情が浮かんでいる。
きっと、僕が危なくなったらすぐに助けるつもりだったのだろう。
でも、勝手に飛び出したことには違いない。
これは絶対に怒られる。
「ラ、ラキさん……」
とりあえず謝ろう。
そう思ったところで、背後から声をかけられた。
「————!」
「え?」
振り返ると、助けた女性が何かを言っていた。
「————!」
女性は今度はゆっくりと、一語ずつ区切るように話してくれた。
けれど、それでも分からない。
レナたちに教わった言葉とはまるで違う。僕が困って首を傾げると、女性もすぐに察したらしい。
少し考えたあと、今度は聞き慣れた言葉で話しかけてきた。
「助けていただき、誠にありがとうございました。」
「あ……」
通じる。
女性は砂まみれの服を整えると、僕に向かって深く頭を下げた。
立ち上がると、背が高いことがよく分かる。僕よりずっと高く、腰の辺りまで伸びた黒髪が風に揺れていた。
「わたくしはシーラ・クレイナと申します。」
「俺はスガル・ハミントンだ!」
隣にいた小柄な男性が名乗る。
「俺はドガル・ハミントン。こいつとはフカタだ。」
「フカタ?」
聞いたことのない言葉だった。
でも、二人の顔を交互に見れば、言いたいことはなんとなく分かる。同じ髪の色。同じ目。同じような顔立ち。
おそらく、双子という意味なのだろう。
「ところで」
低い声が割って入った。
ラキさんだった。
三人の表情が一斉に固まる。人間とは違う角や鱗、背中の翼を見れば、警戒するのも無理はない。
ラキさんは三人を鋭く見据えた。
「こんな場所で何をしている」
誰もすぐには答えない。
ラキさんの手は、いつでも剣を振れる位置に置かれていた。
「……竜人狩りか?」
「ち、違います!」
シーラさんが慌てて両手を振った。
「わたくしたちは商人でございます!」
「商人が、こんな秘境まで来るものか」
「わたくしたちは各地を巡る商人でございます。この地へ参りましたのも、本当に偶然なのです!」
「……証拠は?」
「ございます!」
シーラさんは地面へ落ちていた荷物を探り、一枚の金属製の札を取り出した。
「アルベルロ王国から発行された商人のニカナラスウです」
ラキさんは札を受け取り、表と裏をじっくり確認する。
しばらく重い沈黙が続いた。
やがて札をシーラさんへ返すと、ラキさんの目からわずかに警戒が薄れた。
ニカナラスウ。
おそらく、商人であることを証明する許可証のようなものなのだろう。
「本当に助かりました」
シーラさんが改めて僕を見る。
「このご恩は決して忘れません。よろしければ、お名前を伺っても?」
「え……えっと。レイです」
「レイさん」
シーラさんが柔らかく笑った。
「本当にありがとうございました」
「いえ……」
「どうか、お礼をさせていただけませんか。 金銭でも、品物でも構いません。」
わたくしに用意できるものでしたら、何なりと。」
「欲しいもの……」
そう言われて、少し考える。
お金があれば、何か買えるのかもしれない。でも、この村ではそもそもお金を使う場所がない。
そのとき、横にいるラキさんが目に入った。
角。
翼。
全身を覆う鱗。
この三人が村のことを誰かへ話せば、再び竜人狩りが来るかもしれない。
「それなら、一つだけ」
「はい。何でしょう?」
「僕たちと会ったことを、忘れてください」
「……え?」
シーラさんが目を丸くした。
「お嬢」
スガルさんとドガルさんが、シーラさんの服の裾を引っ張る。
「ちょっといいか」
二人はシーラさんを少し離れた場所へ連れていくと、耳元で何かを囁いた。
話を聞いたシーラさんが、ラキさんを見る。
「あ……」
ようやく意味を理解したらしい。
ゆっくりと立ち上がったときには、先ほどまでとは違う真剣な表情になっていた。
「分かりました。今日ここで起きたことは、決して口外いたしません。」
「ありがとうございます」
「ですが」
シーラさんは少しだけ微笑んだ。
「またどこかでお会いすることがございましたら、その折にはどうぞお声がけくださいませ。」
「え?」
「わたくしたちにできることでしたら、どのようなことでもお力添えいたします。命を救っていただいたご恩ですから。」
「……ありがとうございます!」
僕も頭を下げた。
三人は散らばっていた荷物をまとめ、何度もこちらへ礼を言いながら歩き出した。
やがて、その背中は砂丘の向こうへ小さくなり、最後には完全に見えなくなった。
「…………」
さて。
僕は恐る恐る振り返る。
「ラキさん」
「…………」
「ごめんなさい!」
勢いよく頭を下げた。
勝手に飛び出した。言いつけも破った。きっと大声で怒鳴られる。
覚悟を決めたけれど、いつまで経っても声が聞こえてこない。
「レイ」
「……はい」
「顔を上げろ」
僕はゆっくりと顔を上げた。
ラキさんは怒っている。
そう思った。
「よくやった」
「……え?」
予想していたのとは、まったく違う言葉だった。
「でも、僕……」
ラキさんは僕ではなく、三人が去っていった方向へ目を向ける。
「お前がいなければ、俺はあいつらを見捨てていた」
「…………」
「助ける力がなかったわけではない」
やっぱり。
ラキさんなら、あの三人を助けられたのだ。
「助けたくなかったわけでもない」
「え?」
ラキさんが自分の手へ目を落とす。
強く握られた拳が、わずかに震えていた。
「俺は竜人族を守らなければならない」
静かな声だった。
「俺一人の感情で人族に姿を見られ、村の存在を知られるわけにはいかない。もし、あいつらが竜人狩りだったら。もし仲間を連れて戻ってきたら。俺には、村のみんなの命を賭けてまで人族を信じることはできない」
それは間違っていない。
今日、ラキさんから昔の話を聞いたばかりだから分かる。
人間に仲間を殺された。
家族を奪われた。
息子とも何十年も離れて暮らすことになった。
そんなラキさんに、困っている人なのだから助ければいい、なんて簡単には言えない。
「だが……」
ラキさんが僕を見る。
「レイが走り出したとき、少しだけ安心したんだ」
「安心?」
「ああ」
ラキさんは困ったように笑った。
「俺ができなかったことを、レイがやってくれた」
「…………」
胸の奥が熱くなった。
僕とラキさんでは、背負っているものが違う。
ラキさんには守らなければならない竜人族のみんながいて、人間に傷つけられた過去がある。
だから、簡単には人間を信じられない。
僕には、まだそこまで重いものはない。
人間だからとか、竜人だからとか、そんなことよりも、目の前で誰かが助けを求めていたら放っておけない。
でも、どちらが正しくて、どちらが間違っているかなんて、きっとそんなに簡単な話ではない。
僕だっていつか、守らなければならないものが増えれば、ラキさんと同じ選択をするかもしれない。
それでも今日の僕は、あの三人を助けたかった。
そして、助けることができた。
「……ラキさん」
「なんだ?」
「僕、もっと強くなります」
「急にどうした」
「もっと強くなれば、選ばなくて済むと思うから。」
「選ばなくて済む?」
「はい」
誰かを守るために、別の誰かを見捨てる。
そんな選択をしなくても済むくらい。
レナも。
ラキさんも。
ロナさんも。
村のみんなも。
そして、目の前で助けを求めている誰かも。
「全部守れるくらい、強くなります」
「…………!」
ラキさんは目を丸くしたあと、突然、大きな声で笑った。
「ははっ!」
「……駄目ですか?」
「いや」
ラキさんは僕の頭へ手を置き、髪がぐしゃぐしゃになるほど乱暴に撫でた。
「欲張りだな、レイ。だが、それくらいでいい」
僕もつられて笑った。
僕はまだ弱い。
今日やっと、サビットを一人で倒せるようになったばかりだ。
それでも、昨日までの僕よりは、ほんの少しだけ前へ進めた気がした。
//——
その後、僕たちはバルガの解体を始めた。
倒れたバルガの皮膚には、死んだあとも粘り気のある液体がまとわりついていた。
近づくだけで独特の生臭さが鼻を突き、正直、胃の中へ入ったときのことを思い出してしまう。
「この皮は、乾かせば丈夫な布になる」
「これを布にするんですか?」
「ああ。水にも強い。雨具や袋に使える」
この砂漠では、そもそも雨具を使う機会がほとんどなさそうだけれど、水を弾く袋なら便利なのかもしれない。
ラキさんは腰の剣を抜き、バルガの皮と肉の間へ刃を差し込んだ。
僕も反対側の皮を剥いでいく。
表面がぬるぬるしているせいで手が滑り、最初は何度も刃を肉へ食い込ませてしまった。
「刃を立てすぎるな。肉と皮の間を滑らせるように動かすんだ」
「はい」
「力を入れすぎだ」
「でも、硬くて……」
「腕だけで動かそうとするからだ。体を使って引いてみるといい」
「こうですか?」
「そうだ。そのまま続けろ」
教えられたとおりに動かすと、さっきまで引っかかっていた刃が、皮と肉の間を滑るように進んだ。
「おお……!」
大きな皮が、音を立てながらゆっくりと剥がれていく。
時間はかかったけれど、最後には僕一人でも、それなりにきれいに剥げるようになった。
次は肉だ。
すべてを村まで運ぶことはできないため、今回はバルガの左の前脚から胸にかけての肉を持ち帰ることになった。
ラキさんが剣を一度振る。
太い肉と骨が、一瞬で切断された。
「すごい……」
僕が苦労して皮を剥いでいた時間は何だったのだろう。
ラキさんは切り取った肉から小さな一片を削ぎ落とし、手のひらほどの大きさに整えた。
「食べてみるか?」
「これをですか?」
「毒はない」
そう言うと、ラキさんは肉を刃の先へ刺し、口を開いた。
喉の奥が赤く光る。
次の瞬間、炎が勢いよく吐き出された。
「うわっ!」
肉の表面が一瞬で焼け、香ばしい匂いが広がる。
さっきまでの生臭さが嘘のように消え、代わりに脂の焼ける音が小さく鳴った。
ラキさんは焼けた肉を半分に切り、片方を僕へ渡す。
「熱いから気をつけろ」
「いただきます」
少し冷ましてから、恐る恐るかじる。
「…………!」
驚いた。
柔らかくて、噛むたびに肉汁が広がる。味は鶏肉に似ていたけれど、それより少し弾力があり、脂もほどよく乗っている。
何より、食べ慣れた味だった。
この世界へ来てから、食事を心から美味しいと思ったことはない。
もちろん、ロナさんの料理が下手なわけではない。
たぶん、使われている食材そのものが僕の口に合わないのだ。
昔、パクチーという草が入った料理を食べたことがある。あれは強烈だった。
この世界の食材は、だいたいがあれと同じくらい癖の強い味や匂いを持っている。
でも、この肉には余計な苦味も変な香りもない。
「ラキさん! 僕、これ大好物かもしれません!」
「ほう。バルガがか」
「はい!」
「覚えておこう。なら今日は、これをステーキにしてもらうか」
ラキさんは切り取った肉を持ち上げ、嬉しそうに笑った。
「ロナの料理は絶品だからな!」
「…………」
すごくいい笑顔だった。
ラキさんに、いつかラーメンを食べさせてみたい。
たぶん、ものすごく喜んでくれる気がする。
この世界で似た食材が見つかったら、作ってみよう。
あ……作り方は知らないけれど。
「よし。今日はまだ早いが、そろそろ帰るか」
「はい! ありがとうございました!」
「いい返事だ」
ラキさんは剥いだ皮と肉をまとめると、それを背中へ縛りつけた。
そして僕を抱え上げ、翼を大きく広げる。
翼が砂を巻き上げた。
次の瞬間、体が地面から離れた。
//——
眼下には、どこまでも続く広大な砂漠が広がっていた。
段々と見慣れてきた光景だが、まだこの高さは少し怖い。
ラキさんに抱えられながら、僕は今日一日のことを思い返していた。
サビットを一人で倒した。
そして、バルガも倒した。
《HelloWorld》を使って。
あれは僕がこの世界で初めて書いたプログラムだ。
僕にとって、とても思い入れのあるコード。
それに名前までつけたのだから、必殺技のようなものでもある。
ただ、必殺技と呼ぶには少し地味な気がする。
今回のように何度も《Execute》を繰り返すのも、あまり格好よくない。
もっと一度に、派手に増やせたほうが必殺技らしい。
僕は《HelloWorld》の倍率を増やすことにした。
『HelloWorldEdit』
視界の前に、半透明のコード画面が現れる。
《Edit》は、保存してあるプログラムを編集するときに使う言葉だ。
表示されたコードは、たった一行だけ。
object_Sand.amount *= 9;
現在は、対象の砂を九倍にする処理になっている。
PPには少し余裕がある。
四文字くらい使ってもいいだろう。
僕は頭の中で、数字の九を四つ追加した。
object_Sand.amount *= 99999;
「よし」
これで、一度の実行で砂が九万九千九百九十九倍に増える。
小瓶に五百ミリリットルの砂を入れていたとすれば、一回でおよそ五万リットル。
重さで表すなら五十トンだ!
これなら、何度も《Execute》を繰り返す必要はない。
『Save』
コードが保存され、視界の画面が消える。
「レイ、もうそろそろ着くぞ」
ラキさんの声に顔を上げた。
「帰ったら、きっとロナもレナも驚くぞ」
「本当ですか?」
「ああ。サビットだけでなく、バルガまで倒したんだからな」
ロナさんは、いつものように優しく「おかえり」と言ってくれるだろう。
レナはきっと、翼を大きく動かしながら喜んでくれる。
レナは顔だけでなく、翼にも感情が出やすい。大げさなくらい褒めてくれるかもしれない。
早く二人へ話したい。
そんなことを考えていたときだった。
遠くから、何かが破裂したような音が響いた。
ドォン——。
「何の音だ……?」
砂漠の風とは違う。
岩が崩れた音よりも大きく、空気そのものが震えるような音だった。
次の瞬間、ラキさんの飛ぶ速度が一気に上がった。
「うわっ!」
強い風が顔へ叩きつけられ、僕は反射的にラキさんの腕へしがみつく。
見上げると、ラキさんの表情は険しくなっていた。
さっきまでの穏やかな顔は消え、赤い瞳が前方を鋭く見つめている。
村で何かが起きた?
敵襲?
嫌な想像が次々と頭の中を駆け巡る。
そして、遠くの空に巨大な炎が立ち上った。
「……あれは」
地面から空へ向かって噴き上がる炎。
一か所に留まることなく渦を巻き、まるで燃え盛る嵐のように空を赤く染めている。
離れた場所からでも、その熱と勢いが伝わってくるようだった。
僕は、レナから聞いた話を思い出した。
竜人族が持つ、最大の炎技。
すべてを焼き尽くす、炎の嵐。
——《ファイアーテンペスト》。
目の前に広がっている光景は、レナが話していたものと同じだった。
竜人族があれほどの技を使わなければならない状況。
それが意味することは、一つしかない。
胸の奥が冷たくなる。
ラキさんの腕に、さらに力がこもった。
そして僕は確信した。
——村が、襲われている。




