第三話「Memory="ロナの想い";」
//—— Rona ——
夕食の支度をしていた。
まな板の上に置いたカプタラの実を薄く刻み、ひとつまみの塩を振る。
カプタラはこの辺りの砂漠に自生しているサボテンの一種で、水分が多く貴重な食料ではあるものの、そのまま食べると舌が痺れるほど苦い。
でも、こうして塩をまぶしてしばらく置いておけば、苦味は抜ける。
「これで、しばらく置いて……っと」
次は火の準備だ。部屋の隅から、昨日シキさんが持ってきてくれたガゴの木を何本か運び、石造りのかまどへ積み上げる。
乾燥した土地で育つガゴの木は、水分が少なく火持ちがいい。
私はその前にしゃがみ、右の掌を薪へ向けた。
「炎よ、我が名のもとに形を成せ。
我が内に巡る魔力を汝が糧とし、我が掌を汝の座と定める。
留まり、絶えることなく燃え続けよ————《イグニス》」
掌の中央に、小さな炎が生まれた。
ゆらゆらと揺れる赤い炎を薪へ近づけると、乾いた木の皮に火が移り、ぱちぱちと小気味いい音を立て始める。
「よし」
鍋を火にかけ、水を注ぐ。
こうして何気なく使っているけれど、実を言えば私は魔法が得意ではない。
というより、竜人族そのものが魔法に向いていない。
原因はこの鱗だ。
鱗には魔力を遮る性質があり、自分の魔力さえ思うように外へ流せない。
戦いでは強みになる体質だけれど、魔法を使うには致命的だった。
掌に残った炎を見つめる。
今でこそ当たり前のように使えるけれど、これ一つ覚えるのに一体どれだけ時間がかかっただろう。
若い頃の私は、今思えば怖いもの知らずだった。
両親と大喧嘩をして村を飛び出した。
今思えば、本当に馬鹿な娘だったと思う。
自分ならどこへ行っても生きていける。外の世界を見てみたい。そんな理由だけで故郷を捨てた。
それから私は冒険者になった。
砂漠を越え、海を見て、雪というものにも初めて触れた。
数え切れないほどの魔物と戦い、仲間ができ、別れ、また別の仲間と出会った。
冒険者にとって《イグニス》程度の炎魔法は珍しいものではない。
野営の火を起こせる。暗闇を照らせる。寒さを凌げる。
だから旅をする者なら、戦士であっても覚えている者が多かった。
当然、私も何度となく教えてもらった。
でも、何十年経ってもできなかった。
魔力を流せと言われても、流れている感覚そのものが分からない。
そんな私に《イグニス》を教えてくれたのが、最後に所属していたパーティーの大魔導師、フェリスタだった。
あの子は本当にすごかった。
魔力について言葉で説明するだけではなく、私の体に自分の魔力を少しずつ流し込んで、
『これが魔力の流れ』
『今、腕を通ったでしょう?』
『今度は同じように、自分で動かしてみて』
と、何度も何度も付き合ってくれた。
それでも全然できなくて、何度失敗しても、呆れずに教えてくれた。
初めて掌に小さな炎が灯った日、私以上にフェリスタが喜んでいたのを今でも覚えている。
「懐かしいわね……」
別に、火を起こしたいだけなら魔法なんて必要ない。
私たち竜人族には、生まれつき体内で炎を生み出す器官がある。
そこへ魔力を流せば、口から炎として吐き出せる。
だから生活するだけなら、わざわざ苦手な魔法を使う必要なんてない。
それでも私は、今でも《イグニス》を使っている。
炎を見るたび、あの頃を少しだけ思い出せるからだ。
馬鹿みたいに笑って、くだらないことで喧嘩して、命懸けで戦って。
夜になれば、みんなで同じ火を囲んだ。
あの楽しかった日々を、忘れたくないから。
長い冒険の末、名の知れた剣士と呼ばれるようになった頃、私は故郷へ帰ることを決めた。
両親に謝ろうと思ったのだ。
何十年も経ってしまったけれど、帰ったらまず頭を下げよう。
それから外の世界で見たものをたくさん話そう。父は怒るだろうし、母はきっと泣くだろう。
そんなことを考えながら帰った。
でも、そこに私の故郷はなかった。
家も、両親も、昔一緒に遊んだ人たちも。
何も残っていなかった。
原因は、鱗だった。
魔力を遮断し、刃にも強い竜人族の鱗は、人間たちの間で高級な防具の素材として扱われるようになっていた。
価値が生まれれば、それを奪おうとする者も現れる。
竜人狩り。
私が旅をしている間に、いくつもの集落が襲われた。
生き残った竜人たちは、散り散りになった村を捨て、一か所へ集まった。
一人では守れない。小さな村でも守れない。それなら全員で一つの場所を守る。
それが、今私たちが暮らしているこの村だった。
そして、そこで出会ったのがラキだ。
当時のラキは村で一番の戦士だった。
若いのに責任感が強く、誰かが困っていれば真っ先に駆けつける。
自然と皆が彼を頼り、いつしか村の代表のような立場になっていた。
そんな彼が、ある日突然、
『俺と戦ってくれ』
と言ってきた。
結果は私の圧勝だった。
「ふふっ」
思い出すだけで少し笑ってしまう。
ラキも十分に強かった。才能だって間違いなくあった。
でも、経験が違いすぎた。
私は彼の三倍以上生きている。何より、くぐり抜けてきた死線の数が違った。
負けたラキは悔しがるのかと思った。
ところが彼は地面に座り込んだまま、私を見上げて言った。
『俺を弟子にしてくれ』
もちろん最初は断った。
弟子なんて面倒だったし、そもそも私は故郷へ帰るためにここへ来ただけだった。
でも、
『強くなりたいんだ。もう、誰も失いたくない』
ラキは何度断っても諦めなかった。
私はその目を知っていた。
大切なものを失って、それでも残ったものだけは守りたいと願う人間の目だった。
村を守りたい。家族を守りたい。もう二度と、奪われたくない。
私はそんな彼の真っ直ぐさに惹かれたのだと思う。
だから弟子にした。そして、気づけば好きになっていた。
付き合い始めるまで、それほど時間はかからなかった。
まあ、ラキは昔から私には弱かった。
本人には絶対に言わないけれど、私が少し近づいて笑いかけるだけで、分かりやすいくらい動揺していた。
冒険者時代、女仲間たちから散々恋愛話を聞かされてきた甲斐があったというものだ。
……たぶん。
それから長い月日が流れ、レナももう十三歳になった。
振り返ればあっという間だったようにも思う。
でも、決して平穏な日々ばかりではなかった。
竜人狩りに怯え、そして一年前には、近くにあった泉が魔獣たちの縄張り争いによって使えなくなった。
村の水はみるみる減っていった。
遠くの水場へ行けば水はある。
けれど、そこまで行くには危険な魔獣たちの生息域を通らなければならない。
ラキたちが命懸けで水を運んでも、二十五人が生きるには足りなかった。
私は何度も水魔法を練習した。
昔フェリスタに教えてもらったことを思い出しながら、何度も、何度も。
でも、最後まで一滴の水すら生み出せなかった。
そんなときだった。
レナが、レイを連れてきたのは。
最初は怖かった。
砂漠で倒れていた人間の子供。それだけなら、きっと昔の私なら何の疑いもなく助けていたと思う。
でも私はもう、人間がどんな方法で竜人を狩ってきたのかを嫌というほど知っていた。
一人になった者を狙う。仲間を装う。人質を取る。弱い者を利用する。
ならば、子供を使って村の場所を探る者がいてもおかしくはない。
だから私はレイを疑った。
あの子の顔を、仕草を、じっと観察した。
けれど、あの子はレナから受け取った、なけなしの水を持って壺の前へ歩いていった。
そして聞いたこともない言葉を口にした。
次の瞬間、水が増えた。
今でも、あの光景は忘れられない。
私は一通りの魔術を見てきた。
大魔導師の魔法だって何度も隣で見ているし、水を生み出す魔法も知っている。
でも、レイの力はそのどれにも当てはまらなかった。
水を作ったのではない。
そこにあった水そのものが増えた。
原理なんて分からなかった。
でも、そのときはそんなこと、どうでもよかった。
毒もない。呪いもない。間違いなく、ただの水だった。
レナは夢中になって飲んだ。
一杯、もう一杯、また一杯。あんなに嬉しそうなレナを見たのは久しぶりだった。
私も飲んだ。ラキも飲んだ。
ただの水。
なのに、あのとき飲んだ水ほど美味しいものを私は知らない。
ふと隣を見ると、ラキが泣きそうな顔をしていた。
ずっと、自分がこの村を守らなければならないと思っていた人だから、きっと誰よりも責任を感じていたのだと思う。
ラキはすぐに家を飛び出し、村のみんなへ知らせに行った。
そして数十分後には宴が始まった。
今思い出しても笑ってしまう。
水が飲める。
たったそれだけのことで、みんな泣いて、笑って、レイを抱きしめて、騒いだ。
あの子は、たった一日で私たちの村を救った。
レイは英雄だ。
私だけじゃない。
この村のみんなが、そう思っている。
ただ、あの子の力だけは一年経った今でもよく分からない。
一度だけ、何も唱えずに水を増やしたこともあった。
無詠唱魔術?
いや、そもそも魔力の動きそのものが、私の知っている魔術とは違う。
竜人族のような、種族特有の能力なのかとも考えた。
でも、レイは間違いなく人間族だ。
そんなとき、旅の途中で聞いた昔話を一つ思い出した。
——神の子。
神によって生み出され、この世界の理から外れた力を持つ子供。
そして、この世界に存在してはならない者。
そんな話だったと思う。
所詮は昔話。そう思っていた。
でも、レイを見ていると、ほんの少しだけ、もしかしたらという考えが頭をよぎる。
「…………」
まあ、今となってはどうでもいい。
神の子だろうと、ただの人間だろうと。
あの子はもう、私たちの息子なのだから。
あの子は力を持っている。でも、まだ十三歳の子供。
笑って、食べて、失敗して、少しずつ大人になればいい。
それでいい。
「ただいまー!」
「あら」
子供達が帰ってきた。
私は鍋の蓋を開けた。
湯気と一緒に、夕食の香りが部屋いっぱいに広がる。
//——
「いただきます!」
みんなの声が重なった。
今日の夕食は、塩漬けにしたカプタラの実。それから、ラキが狩りで仕留めてきたハグラナモリのステーキ。
「お母さん、今日もおいしい!」
レナが頬いっぱいに肉を詰めながら言った。
「あなた、さっきまでお腹いっぱいって言ってなかった?」
「これは別!」
「食べすぎると太るわよ」
「ふ、太らないもん! 今日だってレイといっぱい歩いたんだから! ね、レイ!」
「…………」
「あれ?」
返事がない。
そこで私も気づいた。レイが静かだ。
帰ってきたときからずっと食事にもほとんど手をつけず、何か言いたそうにしてはやめて、何度もラキを見ている。
「レイ」
「え?」
「何か言いたいことがあるんじゃない?」
「…………!」
レイが驚いたように私を見る。どうやら図星らしい。
「……はい」
やがてレイは箸を置き、ラキをまっすぐ見た。
「ラキさん」
「どうした?」
「僕も、狩りを手伝わせてください」
「駄目だ」
「…………」
早い。
あまりにも即答だったので、私まで少し驚いてしまった。
「でも——」
「駄目だ。この辺りの魔物がどれだけ危険か、レイも知っているだろう」
レイが黙り込む。
でも、諦めた顔ではなかった。
私はその目を知っていた。
昔、同じ目をした男が私の前に立っていた。
『強くなりたい』
『村を守りたい』
『もう、誰も失いたくない』
何度断っても、何度負けても、私をまっすぐ見ていた。
あのときのラキと、今のレイの目はどこか似ている。
「お願いします」
レイはもう一度、頭を下げた。
長い沈黙が続いた。
ラキは答えない。たぶん、このままでは絶対に許さない。
この人は守ると決めた相手に対して、少し過保護だから。
でも私は、レイのあの目を見てしまった。
「ラキ」
「……なんだ」
「レイがこんなにお願いしてるのよ。聞いてあげましょう?」
「だがな……」
「あなたが一緒なら、大丈夫でしょ?」
「…………」
ラキは腕を組んでレイを見たあと、今度は私へ視線を向けた。
私は何も言わず、にこりと笑ってあげる。
昔、冒険者仲間から教わったことがある。
『男なんてね、最後は女の笑顔に負けるのよ』
当時は馬鹿馬鹿しいと思っていたけれど、案外間違っていなかったのかもしれない。
「…………はぁ」
ラキの口から、大きなため息が漏れた。
「……分かった」
「本当ですか!?」
レイの顔が一気に明るくなった。
どうして突然、狩りをしたいと言い出したのかは分からない。
でも、あの目を見れば、ただ魔物を倒してみたいとか、そんな理由ではないことくらい分かる。
この子にも、強くなりたい理由ができたのだろう。
昔、勇者が言っていた言葉を思い出す。
『僕が最強の理由かい? 簡単さ。 守るべき人が、世界一多いからね。』
あの頃の私は、「また格好つけてる」なんて笑っていた。
でも今なら、その言葉の意味が少しだけ分かる気がする。
守りたいものが増えれば増えるほど、人は強くなろうとする。
守られて育った子供も、いつかは自分で誰かを守ろうとする。
危ないからと永遠に閉じ込めてしまえば、その子はいつまで経っても前へ進めない。
親ができることは、危険をすべて取り除くことではないのかもしれない。
いつか自分の足で歩けるようになるまで、そばで見守ること。
たぶん、それくらいなのだ。
私はそんな昔のことを考えながら、夕食を一口食べた。
私はレナの方を見る。
レナは美味しいと言っている。
ラキも黙々と美味しそうに食べている。
レイも、ようやく料理に手をつけ始めた。
私はもう一口食べる。
「…………」
やっぱり。
今日の料理も、いまいちね。
……勇者が見たら、また料理の修業もしろって笑うかもしれない。




