第一話「HelloWorld="こんにちは異世界";」
意識がゆっくりと浮かび上がる。
頬に当たる熱い風。
鼻に入る乾いた砂の匂い。
「うっうぅ……」
まぶたを開けると、どこまでも続く黄金色の砂丘が視界いっぱいに広がっていた。
空には雲ひとつなく、真上から照りつける太陽が容赦なく大地を焼いている。
「……ここは?」
僕はゆっくりと体を起こした。
さっきまでトラックのヘッドライトが目の前に迫っていたはずだ。
その記憶だけは鮮明に残っている。
——なのに。
リュックも、自転車も、あの猫さえ見当たらない。
「死んじゃった……の?」
思わず呟く。
ここが天国なのだろうか。
いやいや……砂漠が天国なわけないよな。
天国にしては暑すぎる。
というか、地獄の方がまだ納得できる。
「……あれ?」
地獄?
もしかして僕、地獄行き!?
確かに深夜までゲームを作って、お母さんに何度も怒られたけど……。
いや、さすがにそれだけで地獄は酷くないか?
……待てよ。
じゃあ、お母さんって閻魔大王だったのか?
……いや。怒ったときは、わりとそれっぽかった気がする。
冗談を考えられるくらいには余裕があった。
けれど、その余裕も長くは続かなかった。
太陽の熱がじりじりと肌を焼き、数分もしないうちに汗が噴き出してくる。
「あっつ……。」
喉はすぐに渇き、呼吸をするだけで肺まで熱くなる。
「とにかく日陰……。」
辺りを見回すと、少し離れた場所に人の背丈ほどある岩が見えた。
助かった。
RPGだったらセーブポイントくらいの安心感がある。
僕は砂に足を取られながら歩き、その影へ飛び込む。
「ふぅ……。」
少しだけ涼しくなった。
そのときだった。岩陰で何かが動いた。
「……!」
細長い体。
蛇のような姿。
しかし頭には山羊のような二本の角が生えている。
黄色い瞳がこちらをじっと見つめていた。
「なんだ……あの蛇。」
動物園でも図鑑でも見たことがない。
迂闊に近付くのは危険だろう。
それでも僕は、口を開いた。
「Hello World」
プログラミングを始めた人なら誰もが最初に表示させる言葉。
プログラマーにとっての"最初の一歩"だ。
この不思議な状況に思わずこの言葉を言ってしまった。
「…………」
風が吹いた。
さらさらと砂が流れていく。
「…………」
何も起きない。
「……まあ、そうだよな」
何を期待していたんだ、僕は。
恥ずかしくなって、誰もいないのに辺りを見回す。
当然、返事なんてない。
目の前の蛇だって、言葉など理解していないのだろう。
「ゲームみたいにステータスとか見えればいいのに」
そう思った瞬間——。
頭の奥で、何かが弾けた。
——カチッ。
「……え?」
音がした。
いや、本当に音だったのかも分からない。
ただ、頭の中で何かのスイッチが入ったような感覚があった。
次の瞬間。
視界の中に、白い文字が浮かび上がった。
「な……に、これ……」
驚いて周囲を見回す。
砂の上には
object_Sand
岩には
object_SandStone
そして角の生えた蛇には
monster_Cerastes
という文字が浮かんでいる。
さらに、自分の左上には半透明の画面が表示されていた。
Level = 1
HP = 30
MP = 5
PP = 35
「え……。」
心臓が大きく跳ねる。
これはゲームで何度も見てきたステータス画面そのものだった。
僕は思わず叫ぶ。
「これって……異世界転移!?」
胸の鼓動が一気に速くなる。
恐怖よりも興奮の方が勝っていた。
魔法。
魔獣。
勇者。
エルフや獣人。
RPGで何度も作ってきた世界!
そんな世界に、自分が立っている。
「……本当に異世界なんだ。」
自然と笑みがこぼれる。
もっと試してみたい。
僕はその場にしゃがみ込み、足元の砂へ手を伸ばした。
両手で砂をすくい上げる。
乾いた砂は驚くほどさらさらしていて、少し指を開いただけで隙間からこぼれ落ちていった。
僕は残った砂を左右の手のひらに分け、それぞれを見比べる。
すると、どちらの砂にも——
object_Sand
という文字が表示されている。
「もしかして……変数名が見えてるのか?」
変数というのは、プログラムで使う『名前が書かれた箱』のようなものだ。
箱の中には数字や文字などの情報を入れておくことができる。
例えばゲームなら
『PlayerName』という箱にはプレイヤーの名前。
『PlayerLevel』という箱にはプレイヤーのレベル。
『PlayerHP』という箱にはプレイヤーの体力。
そんなふうに、一つひとつの情報を別々の箱に入れて管理している。
そして、その箱の中に入っている数字や文字を見て
HPが0になったからゲームオーバー
レベルが10になったから新しい魔法を覚える
PlayerNameに入っている名前を画面へ表示する
そんな判断をしている。
つまりゲームは、キャラクターを直接見ているわけじゃない。
箱の中に入っている情報を見て世界を動かしているんだ。
そして今、僕の目にはその箱の名前——つまり変数名が見えている。
「ってことは……。」
僕の鼓動が少しずつ速くなる。
もし。
もし箱の名前だけじゃなく、中身まで見たり、書き換えたりできるとしたら。
砂も。岩も。蛇も。魔物も。
そして――。
「僕も?」
思わず自分の体を見る。
「え、待って。これってチートじゃない?」
RPGならラスボスが持ってそうな能力だ。
いや、やりすぎだろ。
もし僕がラスボスだったら——
『ははは! よくぞ来た勇者!
私のレベルは9999999999999999999999だ!
貴様のレベルは1にしてやったぞ!
おっと! ついでに仲間も変えておいたぞ! お前の恋人の魔術師はお母さんに! 最強の剣士は隣の家のおばあさんだ!』
…………うん。もしこうなったらクソゲーだ。
でも、それを可能にするのかもしれない。
想像した瞬間、思わず口元が緩む。
「……やば。」
ちょっとだけ。
いや、かなりワクワクしてきた。
その瞬間だった。
目の前の景色がふっと霞む。
何もない空中に、黒い長方形の画面が音もなく浮かび上がった。
「え……?」
そこに映し出されていたのは、僕にとって見慣れたものだった。
普段、家のパソコンで何時間も向き合っていたコードエディタ——簡単に言えば、プログラムを書くための画面だ。
ゲームを作るときも、この画面に英数字や記号を打ち込み、それをコンピューターに読み込ませることで、キャラクターを動かしたり、敵を出現させたりしていた。
その画面が今、何もない砂漠の空中に浮かんでいる。
文字を入力する場所では、細いカーソルがここに入力しろと言わんばかりに静かに点滅していた。
さらに手元へ目を落とすと、青白く光る半透明のキーボードとマウスまで宙に浮かんでいる。
「すご……。」
思わず手を伸ばす。
指先がキーに触れると、水面をなぞったような光が広がる。
そして画面の右上には、小さく文字が表示されていた。
Program Point:35
「プログラムポイント?」
そういえば、さっきステータスにもPPって書いてあった。
「PPって、このプログラムポイントのことか?」
試しにキーボードを押してみた。
一文字入力するたびに、右上の数字が減っていく。
「えっ!? これ、文字数なの!?」
僕は思わず声を上げた。
「三十五文字しか書けないじゃん!」
これじゃあ長いプログラムなんて全然作れない。
例えばゲームでプレイヤーをジャンプさせるだけでも
『ジャンプボタンが押されたか』
『地面に立っているか』
『どれくらいの力で飛ぶか』
『空中ではもう一度ジャンプできないようにするか』
そんなことを書いているだけで、何百文字にもなる。
三十五文字では話にならないのだ。
「うーん……思ったより厳しいなぁ。」
もしかしてレベルが低いから、使える文字数が少ないのか?
少しだけ期待がしぼんだ。
でも、文句を言っても始まらない。
「まずは試してみよう。」
僕は足元の砂をひとつかみ拾い上げた。
さらさらとした砂が、指の隙間から少しずつこぼれ落ちていく。
相変わらず、その砂の上には『object_Sand』と青白い文字が浮かんでいた。
僕は目の前に浮かぶコードエディタへ意識を向ける。
点滅するカーソルの前に、ゆっくりと文字を打ち込んだ。
object_Sand
そこで、指が止まる。
「そういえば……これ、何型なんだ?」
変数は、簡単に言えば『名前のついた箱』だ。
でも、どんなものでも好き勝手に入れられるわけじゃない。
箱には、それぞれ『何を入れるための箱なのか』という種類がある。
それが——『型』だ。
例えば、代表的なのがint型。
これは、1や10、100といった整数を入れるための型。
他にもstring型というものがある。
こっちは名前や文章といった『文字列』を入れるための型だ。
つまり。
入れたいものに合わせて、使う箱——型を選ぶ必要があるということだ。
僕は手のひらの砂へ視線を戻した。
そこには相変わらず『object_Sand』という文字が浮かんでいる。
「問題は……こいつが何型なのか、なんだよな」
僕はもう一度、砂に表示されている文字を見る。
object_Sand
先頭に"object"と付いている。
「GameObjectみたいなものなのか? それとも構造体……?」
少なくとも、ただのint型には見えない。
もしobject_Sandそのものが砂という"物体"を管理している変数なら、単純に数字を掛けるだけでは動かない可能性もある。
「…………まあ、いいか」
考えているだけじゃ何も分からない。
「よし。」
こういうときは、とにかく試す。
プログラムなんて、一発で完成する方が珍しい。
書く。
動かす。
エラーが出る。
泣く。
直す。
またエラーが出る。
直す。
関係ない箇所でエラーが出る。
寝る。
「……うん。いつものことだ。」
それを何回も繰り返して、ようやく完成する。
プログラマーは、その繰り返しで生きている。
「よし……とりあえず、これはint型で、砂の数を管理している変数だと考えよう」
僕は慎重に続きを入力した。
object_Sand *= 9;
『*=』。
プログラムでは、「今入っている数字に掛け算し、その結果に更新する」という意味だ。
例えば、このobject_Sandが砂の数を表す変数で、中身が10だったとする。そこへ9を掛ければ、中身は90になる。
つまり、この一文だけで砂の量を九倍にできる……はずだった。
しかし、予想どおりそう簡単にはいかなかった。
入力を終えた直後、『*= 9』の部分に赤い波線が現れる。同時に、その下へエラーメッセージが表示された。
ERROR:
'Object' に '*=' 演算子は使用できません。
数値ではなく、オブジェクトが指定されています。
「まぁ、ですよね」
僕は思わず苦笑した。
けれど、このエラーから分かったこともある。
『object_Sand』の部分には、赤い波線が出ていない。つまり、『object_Sand』という変数そのものは、ちゃんと認識されているのだ。
普通のプログラムなら、変数は自分で用意しなければ使えない。
例えば、お金をしまう財布だ。財布を持っていないのに、「財布の中のお金を使う」ことはできない。
まず財布を用意して、その中へお金を入れておく必要がある。
変数もそれと同じだ。
何かの数字を使いたければ、まずはその数字を入れておく箱を作り、名前を付けなければならない。
けれど僕は、『object_Sand』という変数を作っていない。それどころか、砂をその中へ入れた覚えもなかった。
それなのに、この力は『object_Sand』を最初から存在する変数として認識している。
僕は目の前の砂へ視線を落とした。
「もしかして……僕が見ているものは、最初から変数として使えるのか?」
目の前の砂を認識したことで、この力が自動的にobject_Sandと結び付けたのかもしれない。
そう考えれば、何も用意していない変数を使えたことにも説明がつく。
だとすれば、問題は『object_Sand』という変数ではない。
エラーメッセージには、数値ではなくオブジェクトが指定されていると書かれていた。
つまり僕は、砂の数ではなく、砂という物体そのものに九を掛けようとしていたのだ。
「じゃあ、砂の中にある量を指定できれば……」
僕は再び考え直し、コードの続きを書き加えた。
object_Sand.amount *= 9;
『.amount』は、その物体が持っている「量」という項目を指定するためのものだ。
つまり、砂そのものではなく、砂がどれだけあるのか、その数字だけを九倍にするという意味になる。
そして、今度は――。
赤い波線が、すっと消えた。
「よしっ!」
僕は思わず両手でガッツポーズをした。
成功した。
……いや、正確にはエラーが消えただけ。
ちゃんと動くかどうかは、まだ分からない。
「……で。」
僕は辺りを見回した。
「……これ、どうやって実行するんだ?」
コードを書くことはできた。
問題は、その先だ。
家のパソコンなら、実行ボタンをクリックするか、決められたキーを押せばプログラムを動かせる。
けれど、今目の前にあるのは、空中に浮かぶ不思議な画面だけ。
どこを見ても、それらしい実行ボタンは見当たらない。
「うーん……」
腕を組んで考える。
もしかして、魔法みたいに何か言葉を唱えるとか?
「……あ」
それなら、一つだけぴったりな言葉を知っている。
僕は大きく息を吸い込んだ。
「——Execute!」
砂漠に声が響き渡る。
英語で実行という意味。
勉強は苦手でも、プログラムで何度も目にした単語なら覚えている。
その瞬間。
手のひらがずしりと重くなる。
「うわっ!」
声に驚いて蛇が逃げていく。
さらさらさらっ。
握っていた砂があふれ出し、指の隙間から次々とこぼれ落ちた。
「増えた……!」
目を丸くして、砂を見つめる。
本当に。
本当に増えている。
胸が高鳴る。
この能力は本物だ。
(僕は、この世界のプログラムを書き換えられる)
「すごい……!」
ゲームの中でしかできなかったことが、今は現実になっている。
パソコンの前でしか世界を作れなかった。
でも、この世界なら——。
そのときだった。
ぐぅぅぅぅぅ……。
お腹が鳴った。
「…………そうだった。」
興奮しすぎて忘れていた。
ここは砂漠だ。水もない。食べ物もない。
「……あれ?」
急に現実へ引き戻される。
「僕、このままどうやって生きるんだ?」
さっきまでのワクワクが、一気に不安へ変わっていく。
「と、とりあえず村を探そう。」
RPGなら最初の町くらいあるはずだ。
そう信じて歩き始めた。
だけど——。
現実はゲームみたいに優しくなかった。
どれだけ歩いても砂しかない。
喉はからからに乾き、靴の中は砂だらけ。一歩踏み出すたびに足が重くなる。
やがて太陽は地平線へ沈み始めた。
昼間とは違う冷たい風が吹き始める。
ビュォォォォォ……。
砂が舞い上がり、頬へ容赦なく叩きつけられた。
「さむっ……。」
昼はあんなに暑かったのに。
夜は震えるほど寒い。
「砂漠って、本当にこんななんだ……。」
ゲームでは知っていた。
夜は寒くなるって。
でも実際に体験すると、想像以上だった。
どれぐらい歩いただろう。
体力は、もう限界だった。
それでも、あと一歩だけ前へ進もうとした瞬間、膝から力が抜けた。
踏ん張ることもできず、そのまま砂の上へ倒れ込んだ。
「はぁ……はぁ……。」
立ち上がろうとしても、足が動かない。
「あぁ……。」
空を見上げる。
星が、驚くほど綺麗だった。
「結局……僕、ここで死ぬのかな。」
せっかく異世界に来たのに。
せっかくこんな面白い能力を手に入れたのに。
「くそ……。」
風はさらに強くなる。
砂嵐が視界を真っ白に染めていく。
もう目を開けていられない。
耳に入るのは、ゴォォォ……という風の音。
その音を聞いていると、ふと思い出した。
「……あ。」
この音。
自分がゲームで砂漠マップを作ったときに使った環境音と、そっくりだ。
「本当に……こんな音なんだ……。」
意識が遠のいていく。
そのとき。
風の音に混じって、何かが近づいてくる気配がした。
ざっ……。
ざっ……。
近づいてくる。
ゆっくりと。
一歩ずつ。
「だれ……?」
答えを聞く前に、僕の意識は深い闇へ沈んでいった。
//——
————パチッ。
小さく木がはぜる音がした。
暗闇の向こうで、赤い炎が揺れている。
鼻をくすぐるのは、焚き火の煙の匂い。
それだけじゃない。
動物園で嗅いだことのある獣みたいな匂いと、お姉ちゃんが最近つけ始めた甘い香水みたいな香りが混ざっている。
不思議な匂いだった。
嫌じゃない。
でも、今まで嗅いだことがない。
「……ん。」
重かったまぶたをゆっくり開く。
ぼやけた景色が少しずつ形になっていく。
最初に見えたのは、雪みたいに白くて長い髪。
炎の光を受けて、きらきらと揺れている。
次に見えたのは、宝石みたいに赤い瞳。
じっと僕を見つめていた。
「……。」
細い腕が目に入る。
けれど、人間じゃない。
腕の一部には細かな鱗がびっしり並んでいた。
「え……。」
さらに視線を動かす。
背中には、大きな翼。
翼の先が焚き火の光を受けてゆっくり揺れている。
「え?」
頭が追いつかない。
その瞬間、一気に意識がはっきりした。
「うわっ!」
飛び起きる。
胸がどくどくと鳴る。
目の前にいたのは、白い髪と赤い瞳を持つ少女だった。髪の間から二本の角が伸び、黒い鱗と大きな翼が炎に照らされている。
まるで、人の姿をしたドラゴン。
なのに、不思議と怖くはなかった。
今まで見たことがないくらい、綺麗だった。
身長は、お姉ちゃんと同じくらいに見える。
百五十五センチくらいだろうか。
でも、顔つきはどこか幼い。
見た目だけなら、同じくらいの年齢にも思える。
いや、待て。
竜って、たしかものすごく長生きするんじゃなかったっけ。
そもそも、この子が想像上の"竜"と同じなのかすら分からない。
もしかしたら、こんな見た目で百歳とか……。
「…………」
考えれば考えるほど、何も分からなくなってきた。
目の前にいるのは、角と翼を生やした見知らぬ女の子。
改めてその事実を意識すると、心臓がさっきよりも速く脈打ち始めた。
角、翼、鱗。ゲームなら間違いなく竜人族だ。
「あ、あの……。も、もしかして……竜人族……ですか?」
憧れだった。
ゲームでも漫画でも、一番好きな種族。
興奮しすぎて声が裏返る。しかも喉がカラカラで、ひどくかすれてしまった。
だけど、女の子は目を丸くして固まっていた。
しばらくして、おそるおそる口を開く。
「カ……ミラタ。」
「え?」
「カ……ミラタ。ゼ?」
日本語じゃ……ない。
僕は黙るしかなかった。
(そ、そうだ!)
異世界といえば翻訳能力だ。
うん。絶対にあるはず!
僕は慌てて叫ぶ。
「Translate!」
……。
何も起きない。
静かな時間だけが流れる。
女の子は首をかしげ、不思議そうに僕を見つめていた。
「うそでしょ……。」
言葉が通じないなんて。
ゲームだったら最初から日本語なのに。
そんなことを考えていると、家の奥から二人の竜人が姿を現した。
「…………」
女の子よりも背が高い。
二人とも女の子と同様、頭には角が生え、背中には大きな翼。そして腕や首元には、鱗が見える。
たぶん、この子のお父さんとお母さんだ。
最初に目に入ったのは、お父さんらしき男の人だった。
大きな体に、太い腕。
腰には一本の剣が下げられている。
僕を見る目は鋭かった。
「…………」
明らかに警戒されている。
剣を抜いているわけじゃない。
でも、右手はずっと剣の柄の近くに添えられていた。
僕が少しでも変な動きをすれば、すぐに抜けるようにしているのかもしれない。
思わず体が強張る。
その隣に立っていたのが、お母さんらしき女の人だった。
お父さんとは反対に、優しそうな顔をしている。
柔らかな目元に、わずかな笑み。
一見すると、お父さんよりずっと話しかけやすそうに見えた。
なのに——。
「…………」
なぜだろう。
僕はこの人のほうが、怖いと思った。
笑っている。
確かに、優しそうに笑っている。
なのに——。
その赤い瞳。
宝石みたいに透き通った、鮮やかな赤。
綺麗なはずなのに、視線を逸らしたくなった。
「…………」
じっと見られている。
顔や服を見ているのではない。もっと奥にある、目には見えない何かまで覗き込まれているようだった。
隠し事なんて何もないはずなのに、全部を見透かされているような感覚がした。
思わず一歩、後ろへ下がりそうになる。
綺麗なのに。
怖い。
僕はそのとき初めて、宝石みたいな赤い瞳から目を逸らした。
やがて、お母さんらしき人が口を開いた。
「マカ?」
女の子が返事をする。
「ネ。」
やっぱり分からない。
全然知らない言葉だ。
すると女の子は部屋の隅に置いてあった大きな壺へ歩いていく。
木のコップを手に取り
——こん。
——こん。
壺の中をすくう音が響いた。
ほんの少しだけ液体を注ぎ、僕へ差し出す。
透明な液体。
「……水。」
思わず喉が鳴る。
助かった。
本当に助かった。
だけど。
コップを受け取ったとき、気づいてしまった。
あの時のすくう音。
壺の中はほとんど空なんじゃないかと。
それに三人とも、見るからに唇が乾燥している。
きっと……この人たちも、水が足りていないんだ。
それなのに。
その貴重な水をくれた。
胸がぎゅっと締め付けられる。
「…………。」
そのとき、一つの考えが浮かんだ。
僕の能力なら。
(もしかして……水も増やせるんじゃないか?)
そう思いながら、コップの中の水をじっと見つめる。
すると、その考えに応えるように、視界の端で青白い光が揺らめいた。
object_Water
「…………。」
長い。
左上のステータスを見る。
PP:13
だめだ……。
十三文字しか残ってない。
変数名だけで十二文字。
何もできないじゃないか。
せっかく、とんでもない力を手に入れたと思ったのに。
もっとプログラムの勉強をしておけば、五文字でも何かできたのかな。
そんなことを考えていると、急に自分が情けなくなってきた。
「はぁ……」
僕は肩を落とし、目の前の画面をぼんやりと見つめる。
そのときだった。
目の前の女の子が、不思議そうに僕の顔を覗き込んでいた。
僕と目が合うと、何かを伝えようとするように、コップを指差した。
「ム。」
次に僕を指差す。
「ナム!」
「……?」
少し考える。
……もしかして。
恐る恐る僕もコップを指差した。
「ム?」
女の子の表情がぱっと明るくなる。
何度もうなずいていた。
そうか。
この人たちの言葉では、水は"ム"って言うんだ。
その瞬間。
——ピコン。
軽い電子音が鳴った。
もう一度コップを見る。
さっきまで浮かんでいた"object_Water"という文字が消え
mu
たった二文字だけになっていた。
「……!変数名が変わった!?」
理由は分からない。
でも、僕が水を「ム」と認識した瞬間、表示までそれに合わせて変わった。
いける。
これなら書ける!
本来変数というのは、誰が見ても分かりやすい名前にしないといけない。
『mu』だけというのは、世のプログラマーが見たら激怒するだろう。
でも。
今はこれほど助かることはない!
目の前にエディタが開く。
指が自然に動いた。
mu.amount *= 9;
僕は立ち上がり、コップを壺の上へ持っていく。
「——っ」
その瞬間。
背後で、わずかに金属の擦れる音がした。
振り返ると、お父さんの手が腰の剣を強く握っていた。
さっきまで以上に鋭い目で僕を睨んでいる。
いきなり立ち上がったせいだ。
何をするつもりなのか分からない僕を、完全に警戒している。
剣が、鞘からほんの少しだけ抜かれる。
「…………」
まずい。
そう思った、そのとき。
お母さんが静かに手を伸ばした。
剣を握るお父さんの腕に、そっと手を添える。
「……?」
お父さんがお母さんを見る。
お母さんは何も言わなかった。
ただ、小さく首を横に振る。
そして再び。
あの宝石みたいな赤い瞳で、僕を見つめた。
「…………」
やっぱり。
何かを見られている気がする。
でも、お母さんは僕を止めなかった。
それどころか、お父さんの手を剣から離すように促している。
——大丈夫。
そう言っているように見えた。
(——助かった。)
僕は気を取り直してもう一度、壺へ向き直る。
手に持ったコップを、その上へ掲げた。
そして、息を大きく吸い込んだ。
「Execute!」
次の瞬間。
コップの水があふれ出した。
「やった!」
急いでコップの中身を壺へ流し込む。
もう一度。
「Execute!」
また水が増える。
何度か繰り返すうちに、底が見えていた壺は、あっという間に水でいっぱいになった。
三人は動かなかった。
口を開けたまま、壺と僕を何度も見比べている。
一分くらい経っただろうか。
女の子が突然、僕の肩をぎゅっと掴んだ。
そして、今まで見たことがないくらい嬉しそうな笑顔で叫ぶ。
「カハ!!」
意味は分からない。
でも、その笑顔だけで十分だった。
きっと「ありがとう」なんだ。
僕はもらった水を一気に飲み干す。
冷たい水が喉を通り、体中に力が戻ってくる。
そして僕も笑って言った。
「カハ!」
三人は顔を見合わせると、一斉に笑い出した。
言葉はまだ通じない。
でも、それで十分だった。
この世界で初めてできたつながり。
それが、僕の異世界での最初の一歩になった。




