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ノイズ・ダイヴァ  作者: 深津 弓春


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2 ナラティブ


 ラブリュスの工房の大窓からは、富裕層向けの住宅の群と、その間に聳える複数のピラーが丸々見えていた。通信環境は良好というわけだ。大抵の家は屋根の上なんかにカメラと発信用のミニサイズの腕木(ピラー)を置き、室内の通信はケーブルに頼る。大窓というのは通信の速度や品質に拘る者の証の一つだ。ピラーとの直通信のための。


 磁気異常は今も地球全土で頻発していて、人体には影響が少ないが、電波通信が極度に不安定であるという問題は二一世紀に入って三十年近くが経過する今も解決していない。可動する腕木ではなく例えば巨大な液晶パネルのようなモニターで通信すればいいというアイディアも存在したが、強風や地震に耐えられないという欠点があった。


 自ら動き、必要とあらば重心やバランスを変化させ柔軟にエネルギーを受け流せるSピラーの一人勝ち状態。十九世紀半ばにはシャップの腕木通信は全長が四千キロ以上にまで拡充されていたが、現代ではピラーは都市部を覆い尽くし、山間にも海上にも無数の通信ルートが林立するピラーで構成されている。その総延長は最早考えるのも馬鹿馬鹿しい規模で、よく人体の毛細血管に例えられる。人間一人の血管の総距離は、地球二週半くらいになるというあのトリビアに。


「あのSピラーの間を流れるSNSや動画投稿サイトのデータ、どのくらいか知ってるか……」


 窓辺に立つシバに、背後からラブリュスが声をかけてくる。横目でちらとそちらを見てから、シバはピラーに目を戻す。直視(ダイヴ)してみれば、無数の情報の中にSNSのデータの流れもいくつか見える。太く途切れぬ流れが複数走っている。


「ずっと膨大。とっても膨大。常にそうでしょ。皆脳みそを刺激する短文とショート動画が大好き」

「ところがどっこい、ここ数年、少しばかり減っているんだ」


 振り返る。ラブリュスは部屋の壁面一つを埋めるコンピューターやモニターや正体不明の電子部品の前でPCチェアに座って上機嫌にニヤついている。


「お前さんの言うことは間違っちゃいない。皆大好きさ、端的な刺激と自分に都合のいい意見の群、反響ばかりの情報チェンバー、他人の作ってくれた世界の解釈(ナラティブ)……そういうものは大人気のまま。ただ、ここんとこは生成AIの活躍目覚ましくてな。個人端末の性能向上もあって、そういう情報を他人に頼る必要性すら薄くなってきてる」

「ネット上の交流すら置き換えるっての? AI生成で?」


 生成AIの類の技術はここ十年ほどで信じ難いほど進歩した。一目では人間作と見分けのつかない画像や動画や音楽やテキストを無数に生成できる。とはいえ別に汎用知能ではない。高性能だがツールの域を出ないレベルでもある。そんなことをシバがぼやくと、老人は頷いて、


「その通り。だがそれで十分。多くの人間が求める『都合の良い現実』を頭の中に構築するための情報なんざ、数世代前のAIだって充分作り出せる。現実から後退してナラティブに依存するのに、他人の手は必要なくなりつつある。あのトネとかいうクズと同じ。ネット上のコミュニケーションは衰退期に入りつつあるんだよ。同じ現実を見ようとしないなら、他人のデータをわざわざ入手する必要もない」

「ネットが普及して広く情報が流通した結果として、ネットが衰退する……?」

「減った通信の隙間を埋めているのは個人端末用の生成AIソフトのアップデートファイルや、張りぼての――ナラティブに閉じこもる人間に、あなたはちゃんと外界から情報を摂取しているという言い訳を与えるためのノイズ動作だ。案外百年後のネットは今よりずっと静かかもな」

「なら、今後は、データ監視員なんかはリストラに遭いまくるのかもね」

「そうなる前にお前さんはランバージャックに鞍替えしたんだから、良い転職だったな」


 その皮肉に、シバはけっ、と吐き捨てる。


 木こり(ランバージャック)とは、要するにSIN(セマフォアネット)上におけるクラッカーの事だ。Sピラーが急速に普及し始めた八十年代に流行った反ネット運動で、無謀にもピラーを直接斬り倒そうと大斧を持ってピラーに打ち付けるパフォーマンスを行った者が報道写真で有名になり、「木こり」と綽名された。そこから転じて、ネット上で犯罪的にデータ改竄やシステム侵入、情報窃盗などを行う人間を木こり(ランバージャック)と呼ぶようになった。SIN(セマフォアネット)の中でSIN(罪)ある者、というわけだ。


 ユアンが死んで以来、シバは木こりとなった。発端となったデマを流したクズ共を特定するために。元々、義眼とダイヴァとしての才を活かしたデータ監視員だったこともあって、すぐに優れた凝視者(ゲイザー)――木こりの中でもピラーなどの物理面に対する工作を専門とする者を伐採者(ロガー)、通信やソフトウェアに対するクラックを専門とするものを、ピラーを熱心に見つめ続けることからゲイザーと呼ぶのだ――となった。


 ではラブリュスの方はと言えば、彼は木こりと芸術家のキメラだった。シバが軽く検索したところでは、彼はSIN上でSINを活用した「作品」を様々に発表し、世界に一定数のファンを持つと同時に、SINのデータ監視員や保安チームやより上位の各国機関などに敵を作ってもいる。SNSに投稿される差別的なテキストや画像や動画を拾ってコラージュして逆に宥和的で平和的なアートにする自動アカウント、放置された古い時代のサイトにランダムで表れてダンスするポップな幽霊のキャラクター、どこぞのジェノサイドを続ける国の政府の要職たちの非公開音声を盗み出してそのどす黒い会話を歌に変換したシティポップ……一昔前のMAD動画投稿者のような悪戯的作品を好んで作るらしい。廃墟のシャッターやコンクリ壁にスプレーで落書きする人間のネット版といったところだが、その作品数と品質でそれなりの知名度を誇る。

 ラブリュス、という名称は両刃の斧を指す言葉で、それはつまり彼の木こりとしての面とアーティストとしての面を両方同時に表すニックネームなのだろう。


「さて、本題だがね。お前さんに協力してほしいのは、『ピラー・ダンス』だ」


 なにそれ、とシバが疑問を向けると、彼は壁際の機械の群れの中から何かを掘り出しながら説明を始める。


「基本的なアイディアや構造を考えたのはユアンでね。俺は具体的なプログラムや技術的な部分を担当した。彼女が踊り、というか身体動作全般にぞっこんだったのはご存じだろ」


 頷く。ユアンという人間は、人が腕を曲げたり指を震わせたり大股で歩いたりくしゃみをしたりという、兎にも角にも動作全般に様々な価値を見つけ出す動作フェチの人間だった。人間以外にも動物からロボットから様々な対象の様々な動きに美を見出し、全く分からない美しさのポイントをシバに語り聞かせたものだった。そして自身でも様々な動的美を表現すべく、バレエから社交ダンスからストリートからジャズから盆踊りからコンテンポラリーまで、あれこれの踊りを一番の趣味にしていた。


「ユアンが考えたのは、ピラーをクラックして人間と同期させて行う踊りだ。あのどでかい、無数の動作の権化みたいなもので行うダンスだ。ま、それだけなら何てことはない、前例はないがそこまで強烈なもんでもない」

「それ、わざわざ現実のピラーを動かさずともCGでVR映像か何かに仕立てれば良さそうなものだけど」

「その通り。しかして、ユアンが考案したのは更に規模がデカくてよ、ピラーの動作ってのは普通、何を指す?」

「データ通信」


 言われてシバは条件反射的に即答する。このネット時代の人間としての常識を。腕木信号は情報を動作にコード化する通信であるという現代情報社会の基底常識を。


「然り。通信は動作、動作は通信。して、ダンスは動作と通信の双方になる。いいかい、まずピラーをハードとソフト両面からクラックし、あの無数の可動部を使ったダンスを行わせる。ダンスはいかなるデータ通信の規格にも当てはまらないノイズだが、これを特殊な通信プロトコルに乗せて他のピラーに伝播させる。伝わった先のピラーは、通信のためのルーティングの中でヘッダ動作を参照し宛先動作を挿入する。他にも種々の通信用動作を加えて伝達することで、動作は変化しながら伝播することになる」


 ラブリュスはようやっとジャンクの山からホロ立体投映装置を引っ張り出して、部屋の真ん中に置かれた広いテーブルの中央に置き、電源を入れる。すぐに、今ラブリュスの話しているピラー・ダンスとやらを模式的に表す映像が映し出される。林立する柱から柱へと変化しながら伝播する動作の群。


「そして通信は一方的ではない。このピラーダンスを見た人間の動作、つられて踊る者のダンスもまた、本来通信動作ではないノイズでありながら、ピラーに情報動作として拾われ、逆伝播する。ピラーのカメラに捕らえられた人々の動作がデータ送信として拾われるわけだ。こうして、動作のフィードバックループが形成され、変化し続ける大規模ダンスが行われる」


 投映装置はその様をデフォルメして表す。列島のピラーが次々に巻き込まれ、半径数百キロ単位のデータ通信がダンスを伝播させ、人々の反応が寄せて返す波となり、変化が変化を呼びながら動作が伝達・逆伝達・伝達と続いていく。


「ユアンは、これを芸術のコミュニケーション性を核とした超大規模かつインタラクティブな体感・参加型のインスタレーションだと考えていたよ」


 シバは投映装置の蠢く立体像をしばし見つめて、内心でラブリュスの口にした単語を転がす。コミュニケーション。人が、次々に各々のナラティブに籠るこの時代に、コミュニケーションとはね。


「さっき言った、ノイズ情報が鍵になる。減った通信量の隙間を埋める戯れの動作。これは普通の情報とは異なるプロトコルで伝播するんだ。意味ある情報を載せようとすれば苦労するが、ノイズにノイズを載せるのは楽ってこと。セキュリティ・ホールになってんだな。俺らはこの馬鹿げたノイズ動作帯をダンス用に乗っ取るって寸法だ」

「何とも壮大で凄い構想だけれど、明らかに犯罪。ユアンはあまり違法行為には関わらなかったはずだけど、なぜこんなものを」

「さてね」


 どこかとぼけた様子でラブリュスが小首をかしげる。キモい。


「そもそも、警察や保安チームはどうする気? データ監視員が報告するまでもなく異常事態になる」

「それは簡単。最初にクラックでピラーを乗っ取り通信経路を確立したら、後はピラーの動作、狂乱するダンスそのものが全てを呑み込んでくれる。警察だろうが何だろうが、連携のためにピラーを見上げりゃ動作の熱狂に呑まれる。ユアンの考えたこれはな、ピラーに対するクラックであると共に、人間の意識に対するクラックでもあるんだよ。動作は通信、動作は芸術。芸術を見上げて、人は通信を忘れる……」


 勿論、人死になんかは出さないように、各種インフラやあれこれの必須級通信網は活かしたままにするさ、と両刃斧の老人は立体ホロ映像を見下ろす。動作を伝播させるピラーとさせないピラーがモザイク状に入り組んでいた。

 人間をそんないともたやすくクラックできるものか――と言おうとして、シバは目の前の映像の変化に意識を奪われる。ピラーの群を俯瞰する映像が切り替わり、一つのピラーと、その上で踊る人間の動作が表示されていた。


「デモだ。こんな感じになるぞってな。ユアンはよ、思うに、人間にしとくにゃ勿体ない奴だったな」


 ホロの中で、人影とピラーが協調して動く。知識のないシバの目にはほとんど出鱈目な動作としか言いようのない動きが、しかし踊りとしてシバの意識を激震させ、同時にこれ以上なく停止させる。

 ユアンの舞だ。直感する。何度も見た彼女の動作の、あの生活すべてがコンテンポラリーダンスの寄せ集めみたいな女の作った舞だ、と。

 引き込み、攪乱し、幻惑し、支配し、開放する。そんな機能に関しては、どんな木こり(ランバージャック)のクラックも、先進的なプログラムも、人間に同じ効果を与えるのは難しいだろう。この舞に比べてしまえば。

 見とれるシバは、たっぷりと時間を置いてから、無理矢理目をホロから引きはがす。


「確かに、凄い作品になるかもね。でも、私が何をできるって? 私は確かに腕利きのゲイザーかもしれないけれど、優秀な木こり(ランバージャック)なら他にも大勢いる」

「お前さんに望むのは別の役割。言ったろ、ユアンの指定だって。そのピラーの上で踊ってる奴な。全てのダンスの中心で、アート・ハブとなって動作の流れと変化のループの大海そのものを統御する役だ」


 ラブリュスが指さすのは今も続くホロ映像のピラーの上で舞う人影だった。


「私、踊ったことなんてない」


 ユアンの名につられて来てはみたが、こんな役が務まるものか。首を横に振るシバだが、老人は意に介さない。


「お前さんに期待するのはダンサーとしての技能じゃない、直視者(ダイヴァ)としての機能だ。大衆からの影響で変化しすぎたネットワーク・ダンスが芸術性を無くして無意味化するのを防ぐために、一定の範囲内にこのダンスが収まるようにコントロールするのさ。ユアンが考えた芸術性、人を魅了する動作の芸術性の範囲を数値化した範囲にな。スターターにして監視者。それがお前さんの役割だ。誰もが影響を及ぼすことのできるダンスだが、そのためにお前さんの権限や影響力は強く大きなものと設定してある。その両目とお得意の第三の目も使って、このネットワーク・ダンスの刃を鋭いままに、突きつけるべき方向に突きつけ続けるのさ」


 どうする、やるかね……老人の誘いの言葉は既にどこかに通り抜けて、シバにはユアンの遺したミームとしての動作のデモ映像だけが迫ってくるようだった。


 私が何を願うって? ユアンよ……。シバはホロ映像の向こうにかつての友人をイメージする。普遍性、客観性。正義と希望。歯の浮くような理想。確かに全く持って全部好きだ。そしてその全てが今は諦念の中沈んでタールのような何かの中にくるまれている。

 挑みかかるようにシバは頷く。自らに、あるいはユアンに対して。


「決まり。じゃあまずは、そのひょろっちい肉体、ちっとは鍛えないとな」

「どうして」

「お前さん、ラジオ体操で息切れしまくるタイプだろ。直視者(ダイヴァ)の仕事以前に、身体を動かし続ける方が難しそうだ。ユアンの計画でもこうなる予定だった。実はもう、トレーナーも呼んである」


 と、ラブリュスがごつごつと音を立ててテーブルを叩くと、ほぼ同時に、工房のドアが開く。冷たい外気と共に外の光が差し込み、入り口に立つ逆三角形の人影を逆光で浮かび上がらせる。

 鍛え上げた筋線維を金属ワイヤのように撚り上げて作ったような男。アート・バーの店主にして顔なじみ。シバはポーチの中の銃を意識した。結局出番のなかったそいつを、今ここで元の持ち主にぶっ放してやるべきか、と。

 最初からこいつらは通じていたと悟る。シバに先回りしてトネを始末したラブリュスの動きをグスタボも知っていたのだと。


「言ったろ、使う必要もないだろうってよ」


 グスタボがにかりと笑う。意識して歯を見せて笑う人間を、今後信用しないようにしようとシバは心に決めていた。


   *


 伸ばす。縮める。引き絞る。息が切れる。


 グスタボの監修の元、ひたすらに身体を駆動させながら、シバは考えに耽る。

 ユアンについてシバが知っていることは少ない。

 長身であること、手足がともすればシバの五十%増しで長く見えること、長い黒髪が豊かで、ごく僅かに癖があること、口下手で内向的であること。しかしながら踊り(アート)に関することとなれば誰とでもうんざりするほど長話ができること、踊り以外では他者に直接触れることをやたら恥ずかしがること、その癖よくよく寂しがって、「サーム(第三の腕)」でちょくちょく触れてくること。何でもかんでもAI生成で賄おうとする時代にアーティスティックであることに戸惑っていたこと。何かと小さいものを愛でていたこと。ずっと伊達眼鏡を愛用していたこと、眠ることに大きな喜びを見出していること、生活能力に欠けていて同居人のシバとの間に常に家事の分担割合という問題を抱えていたこと、そしてまた、一目でわかるほどにシバにベタ惚れであったということ。

 ごく個人的な知識はそんなもので、後はシバ以外でも知っていることばかり。シバと同じく若い頃の事故で両目ともセマフォア義眼に置き換えていること、動作の一つ一つが不可解なほどに優美で人目を引くこと、優れた踊り手であり振付師でもあること。


 そして、「サーム」だ。第三の腕(サード・アーム)。背中から右肩のあたりに取りつける可動アーム。ピラーとの大容量高品質通信用のポータブル・ピラーといった装置で、一般には個人端末で入力したデータを動作に変換して自動で動くものだが、彼女のそれは特別製で特注品。可動部を増やされ、しなやかな人工筋と特殊形状フレームによる可動に改造され、まるで人間の腕そのもののように先端に五本指が増設されている。

 ユアンはこれをまさしく第三の腕として使用していた。首筋から肩口に神経回路を増設して、己が肉体と同じように操れるようにしていたのだ。そして当然踊りに活用していた。

 サーム・ダンス自体は別段目新しいものではないが、彼女のセンスでこれを行うと、腕一本分拡張されただけの肉体が人間の枠を遥かに超えた何かとしてステージ上に顕現し、見る者を否応なしに身体動作という共感性に引きずり込んで台風のように振り回す。


 シバは時々、もし彼女が自分と組んで木こり(ランバージャック)になっていたら、伐採者(ロガー)として活躍しただろうか、と空想する。踊り以外では驚嘆するほどどんくさい人間だったのであまり使い物にはならなそうだが、サームを利用した繊細な動作は強い武器になっただろう。

 ユアンとシバは、同じ義眼者として義眼者の交流会のような場所で出会った。ゆったり自由人といった性向のユアンと何でもぱっきりさせたがるシバは対照的であったが、何故かすぐに気が合い、一年と経たずして同居人となっていた。同い年で、お互い二十歳から二年間ほど同居していた。


「シバ……感じること、考えること、分かること、というのは、意識が意識である限り、高性能なAIであっても絶対に代替させることができないんだ。人間同士の意識と同じく、主観的経験を代替することはできないから。だから、『これは人間が作ったものだ』という事実性は案外、芸術の大きな価値になる」


 とユアンは度々シバに語っていた。半分自分で考えるついでといった感じだったが。


「アートがAI生成主流となっても変わらないのは、「それを同じ人間が作った」という創作が持つ衝撃的な価値の一側面なんじゃないかな。シバ、前に教えてくれたよね。個人とは――私を私と呼んでいる「これ」そのものは、私という一人称でもユアンというラベルでもないそれ以前の「これ」は、突き詰めれば誰でもなく誰でもあるものだってさ。

 誰かが作った創作物とはだから、自分が自分ではない、かつ自分でもある他人として作ったってことで、個人の個人性を超えた部分を感覚させる。ある意味で創作とは人間が人間を内省する試みで、自他の創作したアートは、自己によって他者を内省し、他者によって自己を内省し、自己内省と他者内省を止揚させる。そしてこれは客観性にも関わる。自己を深く考え感知し、他者とは何かを自己と同時に知るという行為は、世界が世界であり存在が存在であるという根本的な整合性、論理という客観性、自己という間主観性を知る行為そのものであるために」


 と、仕事終わりでうたた寝するシバの耳元で長々と囁いていたのを、思い出す。


 走り、止まり、また走り、肺が軋んで鼓動が砕け続ける。息が切れる。切れ続ける。


「つまりさ、コミュニケーションなんだよ、踊りも絵画も歌も小説も映画も。それを同じ人間が作ったという意識が、作られ見せられたアートに人間を直に繋ぐ。自然の美しさみたいな人間が想像するのではない芸術性とは、質的に別の経験としてさ」


 コミュニケーティブな価値が私達社会を結び、個々であるはずの人間に世界という共感を知らしめるのだ――と、ユアンはいつもこの話を結ぶ。

 現実の社会は、ではどういう有様か。客観性を捨ててナラティブ化する人々の群はコミュニケーティブなものからとっくに乖離しているのではないか。

 ユアンはAI生成時代に創作者として自分が自分である意味と価値に懊悩していて、そんな彼女にシバはあっけらかんと、自分なんてものは誰でもあるのだから、と語ったものだが、シバの想像よりずっとユアンはその言葉を気に入っていたらしい。


 跳ぶ。跳ねる。肉と骨を柔軟に。接地する。衝撃を殺す。息は絶え絶え。ユアンなら楽勝であろう動きの全てがシバには信じ難い難業となる。


 ユアンはシバとの二年を過ごし、路上で怒れる群集に囲まれて死んだ。全身の殴打で骨と内臓があちこち潰れて、それで終わり。

 理由はと言えばほとんどギャグみたいなもので、以前からSIN上でばら撒かれていた、大陸系の人間が急激に犯罪を増やしているというデマに基づいてユアンは狙われた。ここのところずっとブームの排外的風潮の中、彼女は外国系だと目を付けられ、アート活動のために変電所を爆破したのが監視カメラに記録されていたという情報が流され、影響された群集によってリンチに遭った。


 これのどこがギャグかと言えば、まずユアンの国籍は間違いなくこの国のものであり、やや珍しい名前ながら彼女は生まれも育ちも国内、家は何代も続いており、人種や血筋もこの国の最も平凡なところだということ。それに加えてそもそも外国人犯罪率の増加という噂が実際のデータとは大いに異なる作り話であったという事実。更に、件の変電所のカメラに映っていたのはユアンではなく電力会社職員の細身の男性であり(作業服とメットで顔が隠れている上に夜間で暗かったのだ)、爆発は単なる作業ミスによる出火で、故意でも爆発でもなかったということ――つまり、頭から爪先まで全部デマであったということだ。ついでに言えば、実のところ母親がイギリス人でハーフのシバが全く無事で、ユアンだけが死んだというのも馬鹿げた笑いどころではある。


 あの頃シバは、度々ユアンに愚痴を漏らすことがあった。客観性を失い、急速に種々の妄想的なナラティブに引きこもるような世の中のことを、うんざりする、と。これはもうどうにもならないかもしれないと。結局ユアンは、そうしてシバが項垂れている間に現実にどうにかなってしまった。


 息が尽きる。無理矢理クールダウンのために歩く。息が尽きる。


 世界はナラティブの中にある。ユアンの死後、全てが虚偽だったとSIN上でも示され、公的な報道すら成されたが、未だにSNSでもニュースサイトのコメント欄でも動画共有サイトでも、彼女が外国の手先の、悪鬼のような人間で、最低な爆弾魔であると語る人間は大勢いる。デマであるという指摘の方こそ他国のプロパガンダであり情報工作であるとされ、稚拙な妄想がいくらでも書き連ねられる。現実からどこまでも後退してよいならばどんな無理な話も事実という事にできる、ということの見本市のような状態。


 息が尽きる。


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