29話 E8
亜綿郎は学園の壁から生徒たちを見てきた。心の内も記憶も見えるが、それで全て予想できてつまらなくなるということはなく、人間の行動は面白く眺めていられた。
リベン・クースは今のところ、この学園から追放されたツーホ・ルベンシュの息子であることも、彼女の復讐を継いでいることもバレてはいない。後者はもちろん、前者も場合によっては学園にいられなくなる。
前者に関しては軽く調べたくらいでは分からないようになっているが、本腰を入れて調べれば分かることだ。クース姓に変わったことを知っている者はいるが、元の姓がルベンシュであることを知る者はいない。
現状、姓が変わっていることを言いふらそうという者はいないし、元の姓を聞き出そうという者もいない。しかし、相手に大きく嫌われてわざわざ配慮する義理もないと思われれば広まる可能性はある。それを避けるには相手のことをよく知ることだ。
彼はそのことを分かっているが、相手への興味ではなく自分の命に関わるために相手の情報を得なければならないとは難儀なことだ。いや、もしかしたら、大体の人間は無意識に自分の命に関わるからやっているのかもしれない。
人間が生きるためには味方を作ることが有効であり、相手が味方にすべき価値があるのか、相手がどういう考えを持っていて味方になる条件は何か、ということを知るために相手に興味を持つのかもしれない。まあ人間の体を失った自分には関係のない話ではあるが、人間だったころの習性か、人間が気になるものは気になるようだ。
金曜日のユリブラン学園は灰色の空の下、しとしとと雨が降っていた。
帰りのHRが終わり、リベンが廊下に出るとメランドが廊下で立って待っていた。授業は違うがコマ数は一年生共通コースで同じで、メランドのクラスとどちらが先に放課後になるかはHRの長さ次第だ。今回はメランドのクラスの方が早かった。
「あ、リベン。今日の部活は休みだよ」
「それを伝えに来てくれたのか、ありがとう。まあ、連絡回って来たから知ってるけど」
リベンはウィンドウを出してメールの文章を見せた。
「もしかしたら読んでないかと思って」
「…無いとは言いきれないな」
リベンはウィンドウを消して、説明をちゃんと読まない悪い癖を思い浮かべた。
「今日は部活もないし、俺はもう寮に帰るわ」
「野鳥を見たかったんだけどな…。ねえリベン、日曜日に海に行かない?予報では晴れだから」
メランドはウィンドウを出して天気予報と天気図を見せた。明日は雨が上がるか怪しいが、明後日は晴れるようだ。
「まだ海開きには早くないか?」
「え?ああ、違う違う。泳ぐんじゃないよ。見るだけ。海鳥を見に行こう」
「うーん…」
正直なところ、日曜日は家で過ごしたい。学校の部活で一緒に過ごすのと違って、私服でお出かけとなると、エスコートしなきゃとかかっこ悪いところ見せないようにしなきゃとか気を遣って疲れそう。
「ねえ行こうよ~。私と一緒じゃ嫌?」
メランドは首を傾げつつリベンの胸にコツンと頭を当てて甘えるようにせがんだ。パーリラは部活に行こうと廊下に出たが、その光景を見て一瞬止まり、目を逸らすように横を抜けて行った。彼女のいる料理部は雨天でも関係ないため、今日も部活がある。
リベンはメランドの頭髪から漂う甘い香りと体温の暖かな熱気を頬で感じて思考力が低下していった。
「でも大変そうだし…」
「そんなことないよ。遊園地やお店を回るわけでも、山道を歩いたりするわけでもない。海沿いの公園に行って波の音を聞きながら海鳥や海をぼんやり眺めるの」
「それだけでいいのか?」
「んー…」
メランドはリベンの体から離れて向かいあった。
「お昼に屋台で何か買って食べよう。外で食べたり飲んだりすると美味しいよね」
「他には?」
「他?その辺を歩いたりかな?歩きやすい恰好がいいね。他はあんまり考えてないや」
「本当にそんなのんびりでいいのか?わざわざ海に行くのに他にもやっておかないといけないことが沢山あるんじゃ…」
「ここから電車と徒歩で30分くらいの場所だよ?しかも市民に開放されている無料の公園。いつでも行ける場所だから気軽に行こうよ」
もしかして難しく考えすぎていたか?あれこれ考えて機会を逃すのも良くない。
「じゃあ…行こうか」
「やった!学園前駅に9時は…早いかな?10時でどう?帰りは15時くらい」
「いいよ。それで行こう」
「約束だからね」
「ああ」
その後、2人は校舎を出て各々傘を差して雨の中を歩いた。傘や木の葉などを雨が打つ音が周囲を覆い、雨が降っている最中の匂いに包まれていた。特に何か喋るでもなく黙々と歩き、寮方面と校門方面に別れる分かれ道で立ち止まった。そこで口を開いた。
「じゃあ学園前駅の改札前に10時だからね」
「確認するけど10時に間に合うように、でいいんだよな?10時と言ったら実際は10時半とか、あるいは逆に9時半にはいるようにとかではなく」
リベンは最近ミクロナと異文化の話をして常識が違うことが印象に残っていたため、一応聞いた。この国では時間に間に合うようにという意味だと聞いているが念のため。
「10時に間に合うようにだよ。5分前くらいには着いていたいね」
「分かった。それくらいに着くようにする」
「それじゃまた明後日」
「ああ、またな」
2人は傘を持たない方の手を軽く振ってそれぞれ寮と家の方へと別れていった。
リベンは寮に戻り、軒下で傘の水気を払って巻いて紐を留め、自室に運んで紐を解いて広げて置いて乾かし、靴から館内用スリッパに履き替えた。
リベンは制服を脱いで普段着に着替えながら、クローゼット内の服を見た。
薄々思ってたけど、これもしかしてデートか?考えすぎで部活の延長みたいなものだったら恥ずかしい。しかしラフすぎる恰好も良くないよな。
リベンは悩んだがまだ時間はあるので一旦置いておくことにしてクローゼットを閉じた。
夜、遠く離れたクース家では、クレアとガランの姉弟が夕飯の準備をしていた。2人で台所に入り、クレアが野菜を切って鍋に入れ、横でガランがフライパンで具材を炒めていた。そう広い台所ではないが、2人は何も言わずとも台所内を移動してもぶつかったり道具の取り合いになったりせずごく自然にスムーズに調理をしていた。
「はーあ…料理を作っても食卓にお兄ちゃんがいない…」
「兄ちゃんはいないけど、父さんも母さんも婆ちゃんもいる」
リベンたちの故郷では家族で一緒に暖かい夕飯を取るのが基本だ。そしてこの家は道場をやっていることから、食事の傾向は油分が少なめでタンパク質が多めだ。とはいえ、揚げ物の出る日が少ないというだけで全く食べないわけではないし、炒め物に油は普通に使い、油の乗った肉や魚も多くはないが食べる。
「お兄ちゃんたまには帰って来ないかな。待ちきれなくてこっちから行っちゃうよ」
「遠いから何度も行き来するお金ないって」
「いつでも会えるのは卒業後か」
「向こうで婿入りして戻って来なかったりして」
クレアはカブの茎の根元を切り落とし、ダンッと包丁がまな板に当たる音がした。
「…何言ってるの?」
「じょ、冗談だよ。でも4年もいればそういうこともあるかなって…」
「……」
クレアは無言で野菜をザクザクと刻んだ。
「お兄ちゃんはケンランで私たちの剣術を示して道場の宣伝に役となるため、私たちのために行ったんだもん。色恋にうつつを抜かしたりしないもん。あんたみたいに自由奔放じゃなくて責任感強い人なんだから」
「…そうだね。兄ちゃんは責任感の強い人だものね」
ガランは気圧されて話を合わせた。内心ではありえなくはないだろうと思いながらも、姉に頭が上がらない。
クレアはまな板を持ち上げて切った野菜を包丁で押しながら鍋に入れ終えると、包丁を水洗いして布巾で拭いて片付けた。
そして調理を続けて何皿か料理を作り終え、家族で夕飯を取った。クレアは笑顔で楽しく食卓を囲んでいたが、物足りなさもまた感じていた。




