第8話
王立ブロッサム学院の期末テストが終わり、三年B組に最悪の嵐が吹き荒れたのは、金曜日の数理魔法解析の授業でのことだった。
教壇に立ったチャーリー教師は、分厚い眼鏡の奥の目を冷たく光らせ、採点結果の束を教卓に置いた。
「いいですか。上位学院の入試において、数理魔法解析は最も残酷に合否を分ける教科です。感情や熱意などという不確定な『ノイズ』は一切通用しない。必要なのは厳密な『数値』と『再現性』だけです」
チャーリーは冷淡な声で、教室を見渡した。
「特に平民出身の諸君。血統や魔力蓄積を持たないあなた方が、この貴族社会の盤面で成り上がるオッズ(勝率)は、計算上ほぼゼロです。期待値のないギャンブルに感情で突っ込むのは愚か者のすることだ。社会の不平等という環境変数を前に、あなた方にできる唯一の自衛は、冷徹な『数字』で自己の限界を悟ることです」
機械的に読み上げられるワーストテンの名前と点数。
「以上10名は、明日からの特別補習に参加しなさい。己の無価値さを数式で証明する作業です」
「――ふざけんなよッ!!」
ケンが激昂して立ち上がり、分厚い教科書を床へ叩きつけた。
「何が『期待値』だ! 貴族の連中は幼い頃から最高の環境を与えられてる! スラム上がりの俺たちが、今から机に噛みついたところで、その絶望的なオッズがひっくり返るわけがねえだろうがッ!」
「補習なんか行ったって惨めになるだけだ! 帰るぞ!!」
ワーストテンの生徒たちが一斉に席を立ち、逃げるように教室を飛び出していく。
――10分後。学院の演習場。
自暴自棄になって荒れていたケンたちの前に、ドスン、と重い足音が響いた。
白褌一枚の俺、坂本エルロンドだ。その後ろには、逃げ出した生徒たちを追ってきたチャーリーの姿もあった。
「見苦しいですね。逃げ出したところで、あなた方の人生の『期待値』は好転しませんよ」
チャーリーは冷笑すると、杖をひと振りし、演習場の空間に青白く輝く巨大な『魔導障壁』を展開した。
「この『絶対数理防壁』は、あらゆる物理と魔力のベクトルを瞬時に弾道計算し、相殺する幾何学の結晶。格差への不満だの、熱意だの、いくら感情をぶつけても、この美しい数式には傷一つつけられない。それが『理』です」
「くそっ……!」
ケンが渾身の魔力を込めて障壁を殴りつけるが、青白い光の壁は瞬時にケンの出力を計算し、完全に無効化して弾き飛ばした。
「……ケン。ジェイク。退がっていろ」
俺は静かに歩み出ると、青白くそびえ立つ魔導障壁の前に立った。
「坂本先生。魔力を持たないあなたが、私の完璧な数式を腕力で破れるとでも?」
「チャーリー先生。お前さんは一つ、重大な計算ミスをしている」
俺は白褌の帯をギュッと締め直し、重心を深く落とした。
「最短距離で正解という終着駅に向かうだけの数式など、現場じゃあ役に立たん。人間の泥臭い感情が引き起こす『予測不能な寄り道』を、計算不可能なノイズだと切り捨てたことだ」
俺は障壁の表面に、分厚い掌をピタリと当てた。
「ケン! ジェイク! お前たちの両手を、俺の背中に当てろ!」
「えっ!?」
「お前たちの乱れた魔力を、俺の経絡に全部流し込め!」
「無茶だ! 魔力のない先生の身体に流したら、内臓が破裂するぞ!」
「構わん! お前たちの悔しさも絶望も、俺の『氣』の経絡という最悪の悪路を通し、最高に狂った変数に変換して叩き込んでやる!」
ケンとジェイクが覚悟を決め、俺の背中に両手を当てる。
「うおおおおッ!!」
生徒たちの未熟だが強烈な怒りを帯びた魔力が、俺の背中から体内に流れ込む。皮膚の下で『氣』と魔力が衝突し、全身の血管が爆発しそうな激痛が走る。
だが俺は、丹田でその荒れ狂う魔力を意図的に乱反射させ、一瞬ごとに波長と質量が変異し続ける「無限のカオス」へと変貌させた。
「さあ、計算してみろ学士サマ!! 人間の命が弾き出す熱量を、机上の空論で測り切れるかァッ!!」
ドゴォォォォンッ!!!
俺の掌底から放たれた極東の氣と生徒の魔力の融合波が、魔導障壁に激突する。
青白い壁の表面に、無数の計算式が猛スピードで浮かび上がっては消える。障壁は、次々と波長を変える俺たちの攻撃ベクトルを弾道計算しようと試みるが、そのあまりにもデタラメで膨大な「感情の変数」の処理に追いつかない。
「な、なんだこの無茶苦茶な波長は……っ!? 変数が、計算領域をオーバーフローしていく……!?」
ピキッ……! パァァンッ!!
絶対の計算機たる防壁が、処理能力の限界を超え、粉々になって虚空へ散った。
圧倒的な沈黙が、演習場を支配した。
チャーリーは分厚い眼鏡をずり落とし、へたり込むように膝をついた。生涯を賭けた理論が、ただの泥臭い人間の連携によって「エラー」を吐いて崩壊したのだ。
だが、その顔に浮かんでいたのは、絶望ではなかった。
未知の事象を目の当たりにした学者の、血走った『狂気』だった。
「……あり得ない。これほどの不確定要素が、システムを破壊するほどの出力を生むなど」
チャーリーは震える手で、空中に残る障壁の魔力残滓を掴もうとした。
「理論値が……崩れた。ならば、あのデタラメな変数を数式に組み込めば……私の防壁は、さらに強固になる……!」
俺は全身から湯気を上げながら白褌の胸を張り、ニヤリと笑って見下ろした。
「数理ってのはな、期待値で若者の可能性を切り捨てるための道具じゃねえ。計算通りにいかない寄り道の途中で、新しい真理を拾い上げるためのモンだろうが」
チャーリーは立ち上がり、血走った目でケンとジェイクを睨みつけた。
「……おい、そこの劣等生ども」
「ひっ……!」
「明日からの補習は、基礎ドリルなどやりません。先ほどの坂本先生の異常な出力波長を、私の数式がなぜ計算しきれなかったのか……お前たちにも、徹底的に解析を手伝わせます」
冷酷だった教師の目に、今は未知を解き明かさんとする強烈な執念の炎が燃えている。
「貴族のオッズなどもうどうでもいい。これは『真理』の究明です。あの脳筋教師の暴力を数式で丸裸にするまで、お前たちを絶っっっ対に帰しませんよ!!」
ケンとジェイクが顔を上げた。その目には、格差への絶望ではなく、この狂った教師への恐怖と、ほんの少しの闘志が宿っていた。
「……上等だ! やってやりますよ、チャーリー先生!!」
――翌日。
三年B組の教室では、黒板を埋め尽くすほどの複雑な数式を前に、チャーリーとワーストテンの生徒たちが、目を血走らせながら議論を戦わせていた。正解のない未知の領域へ踏み込んだ彼らの顔は、泥まみれだが確かに生き生きとしていた。
俺は廊下から白褌一枚でその光景を見つめ、満足そうに頷いた。
「よし! 今日も魂の演算は完璧だな!」
白褌をパチンと鳴らす俺の声が、王立ブロッサム学院の空へと力強く響き渡った。




