第7話
期末テストが返却された、その日の放課後。
王立ブロッサム学院の特別棟から、張り詰めた怒声が響き渡った。
駆けつけた俺、坂本エルロンドの目の前に広がっていたのは、外国語担当のシルバ教師と、解答用紙を握りしめ、全身を屈辱で震わせている三年B組の生徒、エルナの姿だった。
東方諸国との海上貿易で使われる『東方交易語』に長けた優等生の彼女が、唇から血が滲むほどの形相で教師を睨みつけている。
「エルナ! どうした!」
俺が歩み寄ると、シルバ教師が鼻で笑いながら吐き捨てた。
「彼女の退学手続きを前に、最後のテストを採点していたのです。最終問題『東方ギルドとの模擬交易文書の作成』。彼女は完璧な文法を構築しながら、肝心の『契約』を意味する単語に、東方の港湾労働者が使う野蛮なスラングを用いた。やはり、母親が東方の下層平民だと、土壇場で血の卑しさが表に出る!」
「……ッ!!」
エルナの瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ただのミスではありません……! 嵐の港で命を懸ける荒くれ者たちを相手にするなら、王宮の気取った言葉より、この言葉の方が絶対に信用を得られる! お母様が残してくれた言葉は、決して野蛮なんかじゃない……っ!」
「下賤だと?」
俺はエルナの手から解答用紙を抜き取った。
書かれていた単語の語源は、巨大な交易船を嵐の港に繋ぎ止める『舫い(もやい)』だ。荒波の中で命を預け合い、沈む時も生き残る時も運命を共にする――血と汗に塗れた、一蓮托生の誓約の言葉。
「シルバ。お前は安全な教室で辞書を引いているだけだ。この言葉に込められた命の重さも、現場を知り尽くしたこの生徒の実務的判断も理解できん二流の学者だ」
俺が地鳴りのような声で睨み下ろした、その時だった。
「……その二流の学者に頭を下げ、娘に『完璧な純血の令嬢』としての成績という甲冑を着せなければならない、私の身にもなってみろ」
重厚な足音とともに現れたのは、エルナの父親――東方貿易の利権を握るグスタフ男爵だった。
彼はシルバを一瞥して下がらせると、冷酷な目でエルナを見下ろした。
「エルナ。明日、お前は学院を中退し、上位の伯爵家へ嫁ぐ。……王宮の公文書に下賤な港のスラングを書くような娘を、これ以上庇いきれん」
「お父様……っ!」
「娘のテスト結果を、政略結婚の道具にする気か!」
俺は男爵の前に立ち塞がり、凄まじい眼光で睨み下ろした。
「平民の血を引くエルナを恥じ、飾り物の令嬢として売り飛ばそうとしているだけだろうが! 現場の言葉を知る彼女の才覚こそ、東方交易の絶対的勝者に押し上げる最強の武器だというのに!」
「黙れッ!!」
突然、男爵がこれまでの冷静さをかなぐり捨て、血走った目で俺を怒鳴りつけた。
「現場の言葉の価値など、東方の海を渡った私に言われるまでもない! だがな、ここは王都だ! 権力闘争の渦巻くこの場所で、公式文書にスラムの言葉を使えばどうなるか分かるか!? 『不浄の血』として一族ごと異端審問にかけられ、娘はギロチン送りだ!!」
男爵の悲痛な絶叫が、廊下に響き渡った。
「私とて、妻の故郷の言葉を誇りに思っている……! だが、この狂った血統至上主義の国で娘を生かすには、心を殺して完璧な貴族の仮面を被らせ、強大な伯爵家に押し込むしか道はないのだ! ふんどし一丁の狂人教師に、我が娘の命の責任が取れるのか!!」
絶対的な現実の恐怖。親としての、血を吐くような愛と絶望。
エルナは自身の言葉が父親をどれほど追い詰めていたかを悟り、顔面を蒼白にしてへたり込んだ。
「お父様……私、私が悪かったの……。もう、東方の言葉は使わないから……っ」
「……」
俺は無言のまま、己の腰に締めていた極東の『白褌』の長い帯にするすると手をかけ、一気に解き放った。
「な、何を血迷って――」
男爵が後ずさるより早く、俺は分厚い白木綿の帯でエルナの腕を巻き込み、そのまま男爵の右腕、そして俺自身の左腕を、骨が軋むほどの圧倒的な力で強引に縛り上げた。
「き、貴様ッ! 離せ!」
「これが『舫い』だ!!」
俺の咆哮が、特別棟のガラスをビリビリと震わせた。
「娘が処刑されるのが怖いだと!? だったら親のお前も、担任の俺も、一緒にギロチンに並んで首を刎ねられりゃあいい!!」
「なっ……狂っているのか!?」
「嵐の中で船が沈む時、己の保身のために縄を切る奴を、東方の海では『人間のクズ』と呼ぶ! 娘のルーツを否定し、権力者に媚びへつらって生き長らえる命に、何の価値がある!!」
俺は血の滲むほど強く縛り上げた三人の腕を、男爵の目の前に突きつけた。
「エルナは今日、命懸けで母親の言葉を答案用紙に叩きつけた! その魂の『舫い』を、お前は親として結び返す覚悟があるのか、ないのか! 答えろ、グスタフ!!」
圧倒的な氣の暴風。命を捨てる覚悟を持った者だけが放つ、全裸の狂気。
男爵は縛られた腕の強烈な痛みと、眼前の男の熱量に当てられ、ガタガタと震えていた。その瞳から、長年被り続けてきた貴族の仮面がひび割れ、かつて荒波を越えた商人の、泥臭い熱が溢れ出そうとしている。
「お父様……!」
エルナが、縛られた腕のまま男爵の胸に飛び込んだ。
「私、伯爵家には嫁ぎません! 殺されるなら、お父様とお母様の言葉と一緒に死にます! だから……もう、心を殺して笑わないで……っ!」
娘の泣き叫ぶ生の声が、男爵の胸を貫いた。
「……っ、ああぁぁぁぁッ!!」
男爵は顔をくしゃくしゃに歪め、貴族の矜持も何もかも投げ捨てて、縛られた腕で娘を強く、強く抱きしめた。それは、嵐の海で互いの命を確かめ合うような、不格好で力強い『舫い』だった。
――数日後。
男爵は伯爵家への縁談を白紙に戻し、王宮での数々の嫌がらせを、東方貿易で培った莫大な財力と商魂で真っ向からねじ伏せ始めていた。シルバの不当な減点も、男爵の圧力によって撤回された。
そして、三年B組の教室。
放課後、一人残り、黙々と分厚い東方語の実務書をめくるエルナの姿があった。その表情からは怯えが完全に消え、荒波を越えて未知の海へ漕ぎ出すような、不敵で野心的な光が宿っていた。
俺は教壇の上から、きつく締め直した白褌をパチンと弾いた。
「エルナ! 次はどんなスラングを覚えるんだ?」
尋ねると、エルナは辞書から顔を上げ、かつての母親と同じであろう、誇らしく泥臭い笑顔で答えた。
「王宮の言葉なんかじゃありません! 次に嵐が来たら、お父様と先生の首根っこを私が『舫い』で縛り上げてやれるくらい……最強に生きた言葉を学びます!」
「ふっ……言うようになったじゃねえか!」
教室に、遠慮のない大きな笑い声が広がっていく。
見栄と権威の呪縛を断ち切り、本当の意味で己のルーツと結びついた少女。
三年B組に、また一つ、魂の熱が灯った瞬間だった。




