第48話
梅雨の晴れ間がのぞく、6月終わりの午後。
王立ブロッサム学院の旧校舎の裏手にある用務室の前に、ここ数日から奇妙で愛らしい「新しい住人」が姿を現すようになっていた。
「フゴッ……フゴッ……」
クシャリと潰れた愛嬌のある顔と、珍しい銀灰色の毛並みをした一匹のシルバーパグだ。下町の路地裏から迷い込んできたらしいそのパグは、いつの間にか用務室のひなたぼっこスペースに居付き、生徒たちから「シルバー」と呼ばれていた。
「おいおい、シルバー。お前、今日も白褌の匂いに惹かれてやってきたのか?」
俺、坂本エルロンドが屈み込むと、シルバーは短く鼻を鳴らし、しっぽをちぎれんばかりに振って俺の膝に首をこすりつけてきた。
デイビッドやアキコたちF組の生徒たちも、休み時間になるとシルバーの愛くるしい仕草に心を和ませていた。
しかし――俺の胸の奥には、鉛のような重い冷たさが居座り続けていた。
コウイチだ。
『触れれば、先生は僕を傷つけた加害者として呪い殺されますよ』
前話、自らを傷つけて被害者を演じる『絶対被害の呪詛』を展開し、俺の熱血を完全に封殺した少年。
(あいつの目は……笑っちゃいねえ。関心を引くための自作自演が通じないと悟り……次はもっと恐ろしい『狂言』を企ててやがる……!)
俺が焦りと警戒を深めていた、まさにその日の放課後だった。
コウイチが誰にも何も言わず、一人静かに鞄を持って教室を出て行った。
俺が跡を追おうとした、その時――。
「ワンッ! ワンワンッ!! フゴッ、フゴッ!!」
突如、用務室の影からシルバーが猛然と飛び出してきた。いつもの温厚な姿からは想像もつかない、激しい警戒の咆哮。
シルバーは全身の毛を逆立て、旧校舎の屋上へと続く禁断の非常階段を睨みつけると、俺の白褌の帯の端を小さな歯で力いっぱい引っ張ったのだ。
「シルバー……!? お前……屋上に『死の匂い』を感じ取ったのか!?」
「ワンッ!!」
動物の鋭い危機察知能力。俺は白褌の結び目をギュッと締め直すと、シルバーの後を追いかけて旧校舎の階段を駆け上がった。
――旧校舎の屋上。立ち入り禁止のフェンスの向こう側。
夕暮れの赤い光の中、コウイチが笑みを浮かべて立っていた。その足元には、彼が用意した手製の「偽装発火ボトル」が転がっている。
「ふふっ……。自作自演の落書きじゃダメなら、学校を巻き込んだ狂言爆破くらいやらないと、誰も僕を可哀想な被害者として見てくれないもんなぁ」
だが、その直後だった。
「……フフッ。無駄な青春ごっこだぜ、コウイチ」
「え……?」
屋上の貯水塔の影から、不気味な笑い声を上げて現れたのは、同じF組のカルロスだった。
「カ、カルロス? お前、なんでここに……」
「お前みたいな『偽物の絶望』は邪魔なんだよ。今日、この学園は本物の爆発で消え去る」
カルロスが指を鳴らした瞬間、屋上の床面に隠されていた幾何学的な魔法陣が赤黒く発光し始めた。
コウイチの偽装ボトルなど比べ物にならない、致死性の『魔力圧縮爆弾』の起動陣。コウイチは自作自演の舞台に選んだ屋上で、本物のテロリストの爆弾トラップのど真ん中に足を踏み入れてしまっていたのだ。
「な、なんだこれ……! や、やめろ!」
コウイチは慌てて自分の『絶対被害の呪詛』を展開しようとした。だが、カルロスは直接コウイチを攻撃しているわけではなく、ただ無差別に空間を爆破しようとしているだけだ。「特定の加害者」が存在しない無差別テロの前に、コウイチの呪詛は発動対象を見失い、無効化されてしまう。
「う、嘘だろ……! 僕、本当に死ぬ……っ!」
死のカウントダウンがゼロに達し、貯水塔の下から鼓膜を破るような爆音が轟いた、その刹那!
「フゴォォォッ!!」
鉄扉の隙間を潜り抜け、小さな銀色の影が屋上へ飛び出してきた。シルバーだ。
「犬……!? 来るな、死ぬぞ!」
そして、爆風がコウイチとシルバーを飲み込もうとした瞬間。
「伏せろ、コウイチッ!!」
ドッシャアァァァンッ!!
鉄扉を蹴り破り、白褌一枚の俺が弾丸のごとく飛び込んだ。
俺は極東の『氣』を丹田から爆発的に放出しながら、コウイチとシルバーの上に覆い被さり、分厚い背中で猛烈な爆炎と瓦礫の散弾をすべて受け止めた。
ジュゥゥゥッ……!!
俺の背中の肉が焼け焦げ、爆風の衝撃で肋骨が軋む。
「さ、坂本先生ッ!?」
コウイチは俺の胸の下で、目を見開いて息を呑んだ。
「なんで……なんで僕を庇うんだよ! 僕の『絶対被害の呪詛』が発動してるんだぞ! 僕に触れたら、呪い殺されるのに……っ!」
「バカヤローッ!!」
俺は血を吐きながら、雷鳴のように吠えた。
「呪いだろうが何だろうが、俺には関係ねえ! 俺は今、お前を『攻撃』しに来たんじゃねえ。お前とこの小さな命を……俺の命に代えても『守り』に来たんだよッ!!」
敵意ゼロ。純度100%の自己犠牲と守護。
その絶対的な「盾」としての行動の前に、コウイチの『加害者を呪うシステム』は完全にバグを起こし、パリンッと音を立てて粉々に砕け散った。
「あ……あぁ……っ」
爆風が収まった屋上。
俺の火傷だらけの腕の中で、シルバーが「フゴッ……フゴッ……」と鼻を鳴らし、怯えるコウイチの頬をペロペロと温かい舌で舐めた。
本物の死の恐怖。そして、自分の命を盾にしてくれた巨漢の教師と、危険を顧みずに駆けつけてくれた無垢な命のぬくもり。
同情を引くための薄っぺらい自作自演にすがりついていた少年の冷酷な仮面が、ガラガラと音を立てて崩壊していった。
「うあ……あぁぁぁっ……!」
コウイチはシルバーの小さな身体を抱き締め、俺の血塗れの白褌に顔を埋めて、ついに大声をあげて泣きじゃくった。
「寂しかった……誰かに、僕を見てほしかったんだよぉぉぉっ! ごめんなさい……ごめんなさい……っ! うああぁぁぁんっ!!」
初めて曝け出された少年の「真実の涙」。
言葉や小細工ではなく、圧倒的な生のぬくもりと、逃げずに盾となった白褌の愛が、最大の難敵の心をこじ開けた瞬間だった。
「よし……! 泣け、コウイチ! 狂言なんかしなくても、俺はいつだってお前のことを見てるぞ!!」
夕陽が赤く染める焦げた屋上で、俺は泣き叫ぶコウイチとシルバーを力強く抱き締め続けた。
だが――俺の視線の先には、悠然と姿を消していくカルロスの冷たい影があった。
3年F組は、最大の難局を乗り越え一つの心を取り戻した。しかし、学園を揺るがす本物のテロリストとの死闘は、いよいよ待ったなしの最終局面へと突入していくのだった。




