第46話
蒸し暑い梅雨の晴れ間が広がる、6月中旬の午後。
地下の隔離教室『3年F組』で、俺、坂本エルロンドの目は、窓際に座る女子生徒・アキコの痛々しい姿に留まっていた。
アキコは一見すると大人しい生徒だ。だが、彼女の周囲の空間だけが、まるで時間が凍りついたように『停滞』している。
彼女は無意識のうちに、周囲の魔力と生命力を吸い上げて『絶対停滞の結界』を展開してしまう危険な特異体質だった。周囲の人間を衰弱死させるその呪いゆえに、彼女はF組に隔離されている。
ここ最近の彼女は、自らの結界の維持に生命力を奪われ、目の下に深い隈を作り、今にも命の火が消えそうに疲弊していた。
「アキコ、放課後少し話せるか?」
「あ……ごめんなさい、坂本先生。私、早く帰ってお父さんの時間を……守らなきゃいけないので……」
うわ言のように呟き、拒絶するように逃げていく背中。
俺は白褌の結び目をギュッと締め直すと、彼女の放つ停滞の魔力痕を追い、下町の古い長屋へと向かった。
――アキコの家。
玄関の引き戸の前に立った瞬間、むっとするような強い酒の匂いと、呼吸すら困難になるほどの高密度の『停滞の結界』が俺を拒絶した。
「アキコ! 坂本だ、入るぞ!」
ミシミシと氣を練り上げ、結界を強引に引き裂いて足を踏み入れる。
そこは、時間が止まったような惨状だった。転がる無数の酒瓶、割れた茶碗。そして薄暗い畳の上で、昼間から泥酔し、現実から逃避して寝こけている父親の姿があった。
「先生……!? ダメ……お父さんの時間を、動かさないで……!」
台所の隅で、命を削って結界を維持していたアキコが、真っ青な顔で立ち塞がった。
「アキコ……お前、親父の時間を止めるために、自分の命をすり減らしていたのか」
「お父さん……腕のいい魔導具の職人だったんです。でも、去年の冬に騙されて工場を奪われて……。これ以上時間が進んだら、お父さんが壊れちゃう……! だから私が、お父さんを守るの……!」
親を想うがゆえの、破滅的な魔法の暴走。自分を犠牲にし、絶望した父親の世話と『時間』を一人で背負い込んでいた十五歳の少女。
その時、畳の上で寝こけていた父親が、うっすらと目を開けた。
「うぅ……なんだよ、やかましいな……。アキコ、時間が止まってりゃ腹も減らねえ……酒だ……」
「お父さん、もうお酒はダメだよ……! これ以上飲んだら死んじゃう!」
「ケッ、死んだっていいさ! 工場も仲間も全部奪われた俺の人生は、あの日から終わってんだよ! 放っておいてくれッ!!」
絶望に背を向け、娘の命を吸い上げながら酒の毒に逃げ込む父親の醜い叫び。
俺の胸の奥で、激しい怒りと血の出るような悲しみが噴き出した。
「バカヤローッ!!」
俺の雷鳴のような怒号が、停滞の結界をビリビリと震わせた!
「お前さんが奪われたのはな……ただの建物と機械だろ! テメェの絶望のために、娘の命を食い潰す気かッ!」
俺は白褌姿のまま一歩踏み込み、丹田から極限まで練り上げた極東の『氣』を、部屋を覆う停滞の結界へ向かって全力で叩きつけた。
ドゴォォォォンッ!!
「やめて先生ッ! お父さんの時間がぁぁっ!」
アキコの悲鳴とともに、空間を覆っていた呪いの結界がガラスのように粉々に砕け散った。
その瞬間、限界を超えて魔力を搾り出していたアキコが、大量の血を吐いて畳の上に崩れ落ちた。
「アキコッ!?」
父親が酔いと驚きで目を丸くする。
俺は倒れたアキコの身体を抱き起し、泥酔した父親の目の前に突きつけた。
「見ろッ!! お前さんが現実から逃げて止めていた時間はな……この子が自分の寿命を削って作っていた『血の結界』だ!!」
「な……なんだと……っ!?」
「お前さんが酒に逃げて死んだような顔をしている間……この子はな、毎日学校でバケモノ扱いされながらも、お前さんの時間を守るために血反吐を吐いて命を削っていたんだぞ! 娘に自分の命を食わせて……何が『父親』だ! 何が『職人』だぁぁぁっ!!」
圧倒的な魂の叫びと、物理的な流血の現実。
父親の目が、ハッと見開かれた。
酒の毒に痺れていた脳裏に、アキコの吐いた鮮血と、自分が娘に強いてきた残酷な呪いが、鋭利な刃となって突き刺さった。
「あ……アキコ……! 俺のせいで……お前が……っ」
俺は父親の胸ぐらを掴み、その固くタコの出来た手のひらを親父の目の前に突きつけた。
「工場は取られてもな……この手の中に染みついた『職人の技』まで奪われたわけじゃねえだろ!!」
俺はドスンと自らの胸を叩いた。
「同情もコネもくれてやらん! お前さんの人生だ、てめえの手で泥水すすって這い上がれ! まずはその職人の手で、この長屋の壊れた引き戸から直し始めろ! アキコにこれ以上命を削らせねえのが、父親としての最後の意地だろうがッ!!」
血の涙を流す白褌教師の一喝。
父親の手がガタガタと震え始めた。酒の毒を洗い流すような、後悔の大粒の涙。
「う……うあぁぁぁっ……! アキコ……! アキコぉぉぉっ!!」
父親は床にひざまずき、血を流す娘の小さな手を力強く握り締めた。
「ごめんよ……! 俺が逃げていたせいで……お前の時間を奪ってごめんよアキコぉぉぉっ!!」
アキコが薄く目を開け、父親の手に自分の手を重ねて、声を上げて号泣した。
「お父さん……! お父さんッ! 私……工場なんて要らないから……昔みたいに、自分の手で機械を直すお父さんが戻ってきてくれれば、それだけでいいんだよぉぉぉっ!!」
泣き叫び、抱き合う親子。
停滞の呪縛が完全に解け、小さな長屋の『時間』が、再び未来へ向かって動き出した瞬間だった。
教壇……ではなく、夕陽が差し込む長屋の路地裏で、俺は白褌の帯をパチンと弾いた。
「よし! 3年F組! 止まった時間は、テメェの手と熱で動かすしかねえ! 愛する家族のために、何度でも立ち上がっていくぞ、お前ら!!」
「「「おうッ!!」」」
――だが、その裏で。
3年F組の生徒であるカルロスは、廃棄された魔導具のコアを集め、致死性の『魔力圧縮爆弾』の最終調整を進めていた。
「……フフッ。絆だの愛情だの、ヘドロが出るぜ。この爆弾で、F組ごと学園のすべてを吹き飛ばしてやる……」
アキコの停滞が解けたことで、カルロスの凶行のカウントダウンもまた、最悪の速度で進み始めていた。




