第44話
新緑の風が校舎を吹き抜ける、5月中旬の放課後。
地下の隔離教室『3年F組』では、見るも無惨な「除染清掃」の時間が繰り広げられていた。
「おい、そこ代われよ! なんで俺が呪詛のヘドロなんて拭かなきゃなんねえんだよ」
「だるい〜。どうせ俺たち廃棄品なんだから、教室がちょっとくらい腐ってもバレないって」
F組の生徒たちは、規格外のバケモノだ。彼らが日常的に過ごすだけで、教室の床や壁には、魔力暴走の『高熱の煤』や、ドロドロとした『呪詛のヘドロ』が蓄積していく。放置すれば瘴気が充満し、彼ら自身の命に関わる猛毒の汚れだ。
だが、社会から見捨てられた問題児たちは「面倒だ」「どうせ俺たちはゴミだ」と自暴自棄になり、特殊な防護雑巾での清掃作業を適当に押し付け合い、サボることしか考えていなかった。
そこへ、白褌一枚の俺、坂本エルロンドが静かに歩み寄ってきた。
「おい、お前たち。掃除は終わりか?」
「おう坂本先生、適当にやっといたぜ! じゃ、俺たちもう帰るから!」
コウタロウや他の生徒たちが、床にヘドロを残したまま教室を出て行こうとした。
俺は汚れた防護雑巾を拾い上げると、静かに、しかし地鳴りのような低い声で言った。
「……今日から、お前たちの掃除を全面的に禁じる」
「え……?」
生徒たちが足を止めて振り返った。
「掃除禁止だ。明日からお前たちは、放課後になったら除染なんざ一切せず、さっさと帰って寝ろ」
「マジで!? ラッキー! ふんどし先生、話がわかるじゃん!」
生徒たちは大喜びで、自分たちの毒がこびりついた教室から駆け去っていった。
――それから一週間。
王立ブロッサム学院の3年F組で、奇妙な現象が起きていた。
生徒たちが全く掃除をしていないにも関わらず、毎朝登校すると、教室の呪詛のヘドロや煤は完全に拭き取られ、清浄な空気が保たれているのだ。
「……なぁ、坂本先生」
ある日の放課後。買い食いから戻ってきたデイビッドとシンイチが、忘れ物を取りに薄暗い地下教室の扉を開けた。
ジュゥゥゥッ……!!
扉の奥から、肉の焦げる悍ましい音が響いていた。
「なっ……!?」
二人は息を呑んだ。
生徒たちが全員いなくなった静まり返る教室で、白褌一枚の俺が、たった一人で床に膝をつき、防護手袋もつけずに『素手』で呪詛のヘドロを拭き取っていたのだ。
猛毒のヘドロに触れるたび、俺の腕や手の甲の皮膚が黒く爛れ、血が滲む。俺は極東の『氣』を丹田から極限まで練り上げ、自身の肉体をアースにして、生徒たちの残した致死の毒を相殺・浄化し続けていた。
全身から滝のように噴き出す汗。火傷と傷だらけになった広い背中。
「せ……先生……! なんで一人でそんなこと……手袋もせずに……っ!」
デイビッドが悲鳴のように叫んだ。
俺は膝をついたまま振り返り、血の滲む腕で汗を拭った。
「なんだ、デイビッド。忘れ物か?」
「違うよ! なんで何も言わずに……僕たちの毒を、一人で被って火傷してるんだよッ!?」
シンイチも、固く握り締めた拳を震わせた。
「僕たちがサボったから、当てつけでやってるのか!? 言ってくれよ……先生の背中見てたら、自分たちがすごくズルくて……ゴミみたいな奴に思えてきて、もう耐えられないんだよ!!」
廊下には、異変に気づいて戻ってきた他のF組の生徒たちも集まっていた。
誰もが、ボロボロになりながら教室を除染し続けるエルロンドの「無言の背中」の前に、自暴自棄になっていた己の甘さを恥じ入り、顔を伏せていた。
俺はゆっくりと立ち上がり、白褌の結び目をギュッと締め直した。
「デイビッド……シンイチ……そしてお前たち」
俺の静かな声が、浄化された教室に響き渡った。
「俺はお前たちに当てつけで掃除を代わっていたわけじゃねえ。お前たちの毒を浄化できるのは、この学園で俺の『氣』だけだからだ」
「じゃあ……なんで僕たちにやらせようとしたんだよ……っ」
「お前たちに……『自分の足元のレールを守る尊さ』を知ってほしかったからだ」
俺は血の滲む手で、ピカピカに磨かれた床を指差した。
「いいかお前ら! 特急列車に乗ったエリートどもなら、何もしなくても自動で終点まで運んでもらえるだろう。だがな、お前らは社会のレールから外れたボロ列車だ! 自分の足元のレール(土台)の腐食を点検し、泥水すすって『保線作業』をしなければ……明日にも脱線して死ぬんだよ!!」
俺はドスンと自らの胸を叩き、血走った目で生徒たちを睨み据えた。
「家でも社会でもな……てめえらが明日も生きていけるのは、誰かがこうして見えない夜中に、血反吐を吐いてお前たちの足元のレールを磨いてくれているからだ! それを『だるい』と投げ捨てる奴が……どうして自分の人生という列車を、前へ進められると思うかッ!?」
圧倒的な魂の教え。
罰でも当てつけでもない。命を削って示された、生存戦略としての教育。
デイビッドの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
デイビッドは教室へ飛び込むと、自分のシャツを引き裂いて即席の雑巾にし、床にベタリと膝をついた。
「僕……やるよ! 自分の命のレールは……僕たちの手で磨くよッ!!」
シンイチも泥だらけの靴を脱ぎ捨て、素手で煤を拭き始めた。
「僕もやる! 先生一人に……これ以上、僕たちの毒を被らせない!!」
廊下にいた生徒たちが、争うように教室へとなだれ込んできた。
「俺にも拭かせろ!」「アタシの呪詛はアタシが落とすわ!」
かつて「自分たちはゴミだ」と投げ出していた問題児たちが、自分たちの手でボロ布を握り、自らの魔力毒と向き合いながら、汗を流して教室を磨き始めた。
誰一人として嫌々やっている者はいない。そこにあったのは、自分の生存の場を自らの手で慈しみ、整えるという、美しく誇り高き『戦士の保線作業』だった。
教壇の脇で、俺は火傷だらけの腕で白褌の帯をパチンと弾いた。
「ふっ……自分の足元を磨ける奴は、どんな暗闇の未来だって脱線せずに走り抜けることができる!」
夕陽が差し込まない地下の3年F組。
ピカピカに除染された床と壁に、三十人のバケモノたちと白褌教師の誇らしい笑顔が、眩しいほどの命の光を放っていたのだった。




