第4話
王立ブロッサム学院三年B組に赴任してひと月。
教室の空気は確実に変わり始めていたが、俺はまだ満足していなかった。
教壇の上に並べたのは、均等に切り出された三十枚の真新しい『木簡』だ。
「いいか、お前たち」
俺は白褌の胸を張り、黒板に大きく『魂の日報』と書き殴った。
「原稿用紙に書けない、人前で叫べない弱音もあるだろう。今日から毎日、この木簡に己の血を数滴垂らし、指でその日の嘘偽りない心の内を書き記して俺へ提出しろ。これは東方の呪具だ。命の器である木に血と氣を紐づけることで、俺と本人以外には文字が読めず、翌朝には揮発して白紙に戻る。絶対に誰にも見せん」
指を切る行為に生徒たちは一瞬顔をしかめたが、かつてのような冷酷な拒絶はなく、各々が配られた木簡を重々しく受け取っていった。
俺は教壇を降り、一人ひとりに木簡を手渡していく。
そして、ハーフエルフの少女、シルフィのデスクの前で足を止めた。
ここ数日、彼女の肌は土気色に濁り、季節外れなほど分厚い防寒ローブを深く着込んでいた。
「シルフィ。お前の分だ」
俺が木簡を差し出し、彼女が震える細い手を伸ばした、その時だった。
「あっ……」
シルフィの瞳から焦点が消え、顔面から一気に血の気が引いた。全身が痙攣を起こし、ローブの中から空になった小さなガラス瓶が床に転がり落ちる。
直後、糸が切れたように彼女の身体が大理石の床へと崩れ落ちた。
「シルフィ!!」
悲鳴が上がる中、俺は倒れ込む彼女の身体を間一髪で抱きとめた。腕の中のシルフィは、皮膚が焼け焦げるほどの異常な高熱を放っている。
俺は床に転がった瓶を一瞥した。スラムの闇市でしか出回らない、内臓をボロボロにする違法な軍用鎮痛薬だ。
「ガブリエル! 教頭へ連絡し自習の指示を出せ!」
俺はシルフィを担ぎ上げ、白褌の脚で保健室へと疾走した。
遮音結界の張られた保健室。診察を終えた女性校医が、血走った目でカーテンから出てきた。
「……ただの過労と極度の受験ストレスよ。数日休ませれば――」
「嘘をつくな」
俺は地を這うような声で校医の言葉を遮り、拾い上げたガラス瓶を机に叩きつけた。
「人間の魔力とエルフの魔力が体内で衝突し、互いを破壊し合う『魔力突発性過敏症(過昇ショック)』だな。しかも末期だ。……校医、お前が自分の給与を削って闇市からこの劇薬を引き、彼女に飲ませていたな?」
「……ッ!」
校医の顔が蒼白になった。
「組織の論理はわかっている。『欠陥種』のハーフエルフが魔力障害で倒れたと上に知れれば、即退学と一族からの廃嫡だ。だからお前は、教師としての立場を捨ててまで法を犯し、この保健室で彼女の激痛をごまかし続けてきた」
「……そうよ。私には治せない……っ」
校医は崩れ落ちるように椅子に座り、悲痛な顔で両手で顔を覆った。
「あの子の身体はもう限界よ……でも、私がこの薬を渡さなければ、あの子は正気を失って死ぬ……泥を被って隠してあげることしか、私にはできないのよ……っ!」
ガシャリ、とベッドのカーテンが開いた。
意識を取り戻したシルフィが、青ざめた顔でベッドの上に座り込んでいた。
「……先生」
かすれきった声。シルフィの目から、大粒の涙が溢れ出している。
「ごめんなさい……私、出来損ないなんです。人間の魔法もエルフの魔法も使えない……。嘘をついて学院に居座って……」
彼女は自身の細い腕を、掻きむしるように強く抱きしめた。
「でも……私、追放されたくない……っ。ここで……みんなと一緒に、明日も笑っていたいんです……っ!」
人間とエルフ、どちらの社会にも居場所がない少女の、あまりにも血を吐くような叫び。
俺は無言で歩み寄ると、彼女のベッドの脇に静かに両膝をついた。
「せ、先生……私を笑ってください……学院に、報告を……っ」
「……バカを言え」
俺は白褌の結び目に手を当て、丹田に深く息を流し込む。
「誰がお前を笑う。誰が上に報告などさせるか。……発作は俺が抑え込む」
俺は彼女の腹部――乱れ狂う魔力の中心である『丹田』に、己の分厚い掌を強く押し当てた。
「せ、先生……?」
「極東の禁術だ。俺の『氣』の経絡をお前の魔力回路と直結させ、暴走するダメージを俺の肉体へ逃がして相殺する。少し、我慢しろッ!!」
カッ!! と俺の掌から爆発的な氣が放たれた。
直後、シルフィの体内で暴れ狂っていた魔力の刃が、俺の腕を伝って全身の経絡へと逆流してくる。
「ぐ、おおおおぉぉぉッ……!!」
俺の全身の血管が悍ましく浮き上がり、毛穴という毛穴から血の飛沫が噴き出した。内臓を刃物でかき回されるような激痛に、骨がミシミシと悲鳴を上げる。
だが、その強引な命のバイパスによって、シルフィの荒かった呼吸が嘘のようにスッと落ち着きを取り戻していった。
「先生!? 血が……私のせいで、先生が……っ!」
「ハッ、うろたえるな……こんなもの、極東の修羅場に比べれば蚊に刺されたようなものだ……ッ!」
俺は血だらけの顔で、牙を剥き出して笑ってやった。
「魔力の型など関係ない! 世間がどんな冷酷な目を向けようと知ったことか! お前が苦しみながら掴み取ろうとしているその居場所は……俺が、この命と白褌にかけて、卒業まで絶対に守り抜いてやる!」
シルフィは目を見開き、ポロポロと涙を溢れさせながら俺の血に染まった手を見た。
「校医。あんたが一人で背負っていた泥、今日から俺にもかぶらせろ。俺とお前と、このシルフィの三人だけの『共犯』だ」
「……ええ。とんでもない馬鹿教師が来たものね。よろしく頼むわよ、ふんどし先生」
校医が涙を拭い、初めて小さく笑みをこぼした。
「シルフィ。……お前が背負っている苦しみは、これから毎日、あの木簡に血で書いて俺に提出しろ。木簡の呪を通じて、お前の魔力脈の異常は俺の丹田に直接伝わる。前兆があれば、俺がすぐに痛みを引き受けてやる」
「はい……っ……はい……!」
少女の震えが、ようやく止まった。
血統の偏見、学院の過酷な現実。己の居場所を求める少女と、泥と血を被る大人たちによる、絶対に負けられない『魂の防衛戦』の火蓋が、今ここに切って落とされたのだ。




