第31話
王立魔法高校の入試まで、残すところ一ヶ月あまり。
新・三年B組の教室は、吐く息も白む冬の気配とともに、冷たく殺伐とした焦燥感に支配されていた。
カリカリ、カリカリ……。
教壇の上の教師の声を遮るように、あちこちのデスクで不自然なペンの音が響いていた。
『内職』――自分の志望校に必要な教科の暗記や参考書を、関係のない授業中に隠れて勉強する行為である。
その日の3時限目、魔法薬学の授業でのことだった。
担当のマリア教師は、教卓のフラスコから幻想的な紫の湯気を立ち上らせながら、静かに語りかけていた。
「……いいですか、皆さん。この魔法薬の抽出比率は基本でありながら、極めて繊細な魔力操作を要求されます。手元の術式変化から目を離さないように」
マリアが教卓から巡回を始めた、その時だった。
最前列の席で、女子生徒のハルカが膝の上に隠した分厚い『高等魔導解析』の参考書を必死にめくっていた。フラスコの火など見向きもせず、魔法薬の実習を完全に無視して、入試科目の暗記に没頭していたのだ。
「……ハルカさん」
マリアの声が低く固まった。
「私の授業中に……他教科の参考書を開いているのですか。今は実習中ですよ」
ハルカはビクッと肩を跳ねさせたが、昨夜の模試で判定が下がり、不合格の恐怖に脳を焼き切られかけていた彼女の抑圧が、限界を突破して爆発した。
バァァンッ!!
ハルカは参考書を教卓の上に叩きつけ、血走った目でマリアを睨みつけた。
「……私、第一志望の高校では魔法薬学の試験なんてないんです!」
ハルカの悲痛で、冷たい声が教室に響き渡った。
「私にはもう時間がないんです! 出題されない教科の授業をぼーっと見ている余裕なんて一秒もない! 受かるために、自分に必要な教科を効率良く勉強して何が悪いんですか!?」
教室が一瞬で静まり返った。
ハルカの言葉は、隠れて内職をしていた他の生徒たちの本音でもあった。ガトーやレオ、ヒロユキたちも、マリアから気まずそうに目を逸らす。
マリアは唇を震わせ、黙り込んだ。
受かるための効率と、入試に関係のない授業の軽視。教室に決定的な亀裂が走り、マリアが口を開きかけたその時――。
ガラァッ!!
後方の扉が乱暴に開かれ、重い足音が教室を揺らした。
白褌姿の俺、坂本エルロンドが、凄まじい眼光で足を踏み入れたのだ。
「さ、坂本先生……!」
ハルカが身構える。
「先生だって分かってるでしょ!? あと一ヶ月しかないんです! 受からなきゃ意味がないんです!」
「あぁ、分かっているとも」
俺はハルカの横に歩み寄ると、彼女のデスクにあった魔法薬学の教科書を手に取り、ゴミ箱へ放り捨てた。
「え……?」
「ハルカの言う通りだ! 入試に出ない科目をやるのは時間の無駄だ! 効率よく点をもぎ取れる奴だけが生き残る。それが受験という戦場だ!」
俺の言葉に、マリアが目を見開き、ハルカは呆然とした。
「だがな、ハルカ」
俺は教卓に叩きつけられたハルカの『高等魔導解析』の参考書を手に取った。
「お前、このページの『多重魔力分離式』の暗記で、さっきから三十分も手が止まっていたな。頭の中で魔力の動きがイメージできず、ただ文字面を丸暗記しようとしてパニックになっている」
「っ……! それは……」
「マリア先生!」
俺は教卓で紫の湯気を上げるフラスコを指差した。
「このフラスコの中で今、何が起きているか……こいつらに教えてやってくれ!」
マリアは一瞬驚いたが、すぐに教師としての誇り高き顔つきに戻り、冷徹な声で解説を始めた。
「……マンドラゴラの猛毒素と、回復成分の分離です。ハルカさんが今読んでいる『多重魔力分離式』の理論を、炎と触媒を使って物理的に実証しています。文字で読むより、この波長の揺らぎを見た方が、はるかに構造を理解できるはずです」
「なっ……!?」
ハルカが息を呑み、フラスコの中の紫の湯気と、自分の参考書の数式を交互に見比べた。
全く関係ないと思っていた魔法薬学の実習が、自分が最も苦戦していた魔力解析の「生きた解答」だったのだ。
「科目というラベルに騙されるな!!」
俺の地鳴りのような咆哮が、教室の窓ガラスをビリビリと震わせた。
「文字面だけを睨んで暗記できずに焦り狂い、目の前のフラスコで起きている『生きた解答』をドブに捨てる! 自分の視野を狭め、使える武器を自分から投げ捨てているお前が、一番『非効率な大バカ野郎』なんだよ!!」
圧倒的な物理の実証と、論理による完全な粉砕。
「お前たちが受けるのは、紙切れの上のテストじゃねえ! この世界の理そのものだ!」
俺は白褌の帯をギュッと締め直した。
「関係ないからと目を塞ぐな! すべての現象から知識を奪い取り、貪欲に己の血肉に変える『本当の野心』を持て!!」
効率という名の言い訳で、自らの視野を狭めていたハルカの胸に、エルロンドの突きつけた『生存戦略』が雷のように突き刺さった。
「私……なんて、バカなことを……っ」
ハルカは参考書を強く握り締め、震える手でフラスコへ向き直った。
ただ泣いて謝るような弱い子供ではない。彼女の瞳には、目の前のすべてを利用して生き残ってやるという、戦士としての強かな光が宿っていた。
「マリア先生……! 私に、その分離式の熱量変化を……一番前で見せてください! 絶対に、この目で解析して盗み取ります!」
「ええ。一瞬の波長の変化も見逃さないでくださいね、ハルカさん」
マリアもまた、プロの魔術師としての鋭い笑みを浮かべ、フラスコの火力を一段階引き上げた。
内職をしていたガトーやレオたちも、無言で参考書を鞄に叩き込み、一斉に教卓のフラスコへと身を乗り出した。
冷たい焦燥感に包まれていた三年B組の教室に、「目の前のすべてを奪い尽くして学ぶ」という、圧倒的に泥臭く熱い空気が戻った瞬間だった。
教壇の脇で、俺は白褌の帯をパチンと弾いた。
「ふっ……点数に踊らされる部品になるな。世界を丸ごと喰らい尽くすバケモノになれ、お前ら」
初冬の三年B組の教室に、フラスコの沸き立つ音と、三十人の飢えた獣たちの息遣いが、いつまでも熱く響き渡っていたのだった。




