第21話
新・三年B組の教室で、その決定的な瞬間を目撃したのは、静まり返った昼休み終わりのことだった。
俺、坂本エルロンドが廊下から教室を覗くと、魔導クリケット部のテツヤが、同級生・ダイスケの鞄から膨らんだ財布を抜き取ろうと手を伸ばしていた。
「……テツヤ」
低く抑えた声に、テツヤは悲鳴を上げて跳び上がり、財布を床へ落とした。
「あ……あ……っ! ふ、ふんどし先生……! ち、違うんです! これは……!」
「……動くな」
俺は歩み寄り、テツヤの肩に分厚い掌をそっと置いた。
極東の理『無音の氣縛陣』。俺の丹田から放たれた氣が周囲の空間を歪め、教室の雑音も光も一瞬で遮断された。
「ここで全てを吐き出せ。お前はなぜ、仲間の財布に手を伸ばそうとした。答えるまで、この氣の結界は解かんぞ」
圧倒的な達人の気迫。逃げ場のない死の重圧に、テツヤは膝から崩れ落ちて大粒の涙をこぼした。
「う……うぁぁぁんっ! すみません……っ! でも、どうしても十万ルピが必要だったんです……っ!」
テツヤは声を殺して泣きじゃくりながら、真相を語り始めた。
高等部の先輩から呼び出され、OBの治療費名目で寄付を強要されたのだという。『集められなければ、入部時に書かせた【魔導誓約書】の違約金条項を発動し、お前の一族から賠償金を取り立てる』と。
「先輩は『尊い人助けのカンパだ』って……。でも、断ったら一族が破産するって脅されて……っ! ダイスケの財布から借りて、あとで何とかすればいいやって……っ!」
魔法的契約を悪用した、巧妙な恐喝。
「人助け」という免罪符で後輩を洗脳し、己の手を汚さずに資金を吸い上げる先輩たちの狡猾な悪意。
俺の胸の奥で、マグマのような怒りが爆発し、氣の結界がビリビリと波打った。
「バカヤローッ!!」
俺の地鳴りのような叫びが、テツヤの鼓膜を揺らす。
「どんな綺麗な言葉で飾ろうが、仲間の財布から金を奪うことが『人助け』だと!? ふざけるな! 紙切れの鎖に怯えて、テメエの魂を汚すくらいなら、俺の白褌にしがみついて泣けッ!!」
俺はテツヤの襟首をガシッと掴み上げた。
「お前が怯えていたのは誓約書か!? 部活での仲間外れか!? そんな理不尽な圧力に屈して、仲間の背中を刺すことが……お前の愛したクリケットかッ!?」
「っ……! ち……違う……! 俺……正しくクリケットがやりたかった……っ!」
「なら、俺の背中についてこい!!」
俺が氣を解くと、再び教室の喧騒と光が戻ってきた。
俺はテツヤの首根っこを掴み、高等部の部室棟へと大股で歩き出した。
――高等部・魔導クリケット部室。
バァァンッ!!
俺が重厚な扉を蹴り開けると、優雅に茶を飲みながら談笑していた主将や先輩生徒たちが、跳び上がってこちらを睨みつけた。
「な、なんだ貴様は!? ここは高等部の部室だぞ!」
「テツヤに『人助け』と称して十万ルピの恐喝を行った件について、落とし前をつけに来た」
先輩生徒は一瞬動揺したが、すぐにニヤリと不快な笑みを浮かべ、一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
「ハッ、何のことですか? こいつは任意でこの【魔導誓約書】にサインしたんです。ノルマを達成できなければ一族の資産を差し押さえる。王国の魔力審査を通った、絶対の呪術契約ですよ」
「白々しい嘘をつくな」
俺の声が部室の空気を凍りつかせた。
「『人助け』という美しい言葉を盾にして、後輩にドロボーを強制しようとするな! 本当に困っているOBがいるなら、なぜお前たち自身が汗を流して働き、金を工面せん!」
「ふん、平民の教師が吠えたところで無駄だ。その誓約書は魔力で刻まれている。破り捨てようが燃やそうが、術式はすでにこいつの血に――」
ダンッ!!
俺は教卓を蹴り飛び越え、先輩の胸ぐらを掴んで壁に叩きつけると同時に、自らの親指の腹を犬歯で噛み千切った。
「なっ……!?」
ブシャッと血が吹き出す。俺はその血に染まった親指を、魔導誓約書に記されたテツヤの署名の上へ、親の仇のように力強く叩きつけた。
「極東の理――『血盟上書き(オーバーライト)』ッ!!」
「き、貴様……他人の契約書に己の血を……っ!」
「テツヤの契約は今、この坂本エルロンドが肩代わりした! さあ、俺から違約金を取り立ててみろ!!」
直後、羊皮紙から漆黒の呪詛がヘビのように這い出し、俺の右腕にギリギリと巻きついてきた。契約違反者の生命力と魔力を強制的に絞り取る、呪術の取り立て。
皮膚が焼け焦げ、激痛が腕を走る。
「ハッハッハ! バカめ、自ら呪いを被るとは! 魔力を持たないお前など、一瞬で干からびて――」
「笑わせるなァッ!!」
俺は丹田に深く息を落とし込み、全身の毛穴から極限の『氣』を爆発させた。
「こんな蚊の鳴くような呪術で、極東の修羅場を生き抜いた俺の命が吸い尽くせるか!!」
ドゴォォォォンッ!!
俺の肉体から放たれた規格外の生体エネルギー(氣)の奔流が、呪詛の許容量を瞬時にオーバーフローさせた。巻きついていた黒い呪いは悲鳴を上げて弾け飛び、魔導誓約書そのものが内側から発火し、一瞬で灰と化して虚空へ消え去った。
「ば、バカな……! 魔力のないただの肉体が、絶対の呪術契約を……物理的な生命力だけで焼き切っただと……!?」
先輩たちは顔面を蒼白にし、腰を抜かしてへたり込んだ。
「フェアプレーを誇るグラウンドで、後輩を脅して泥棒まがいの真似をさせる奴らに、バットを持つ資格はない!!」
俺の圧倒的な狂気と暴力の前に、彼らはガタガタと震えながらひれ伏すしかなかった。
俺はテツヤの肩に手を置いた。
「テツヤ! 不当な圧力の鎖は断ち切った。だが……お前が犯しかけた『盗み』の罪は消えん。自分の犯した愚かさと、グラウンドで真っ正面から向き合ってこい!」
「……はいっ……!」
――数日後。新・三年B組の教室。
テツヤは、財布を盗まれかけた同級生・ダイスケの前に立ち、自らの愛用するクリケットバットを両手で差し出した。
「ダイスケ君……ごめんなさい! 先輩が怖くて、君から金を盗もうとしました!」
教室に静寂が走る。テツヤは真っ直ぐにダイスケの目を見て言った。
「どんな理由があっても、俺のやったことは最低だった。……このバットで、俺の右腕を折ってくれ。盗みを働こうとした腕だ、もうプレーする資格はない」
物理的な痛みを伴う、逃げ道のない謝罪。
ダイスケは複雑な表情でテツヤを見つめ――やがて、差し出されたバットを弾き飛ばした。
「……腕を折ったら、誰が次の試合で守備につくんだよ」
ダイスケの厳しい、だが嘘のない言葉。
「正直、すごくショックだった。すぐに許せるわけじゃない。だから……腕なんか折る暇があったら、グラウンドで泥を舐めて、プレーで俺に借りを返せ」
「ダイスケ君……っ! ありがとう……ありがとう……っ!」
安っぽい許しではなく、血の通った関係再構築の第一歩。逃げずに痛みを受け入れようとしたテツヤの背中を、クラスメイトたちが静かに見守っていた。
教壇の上で、俺は白褌の帯をパチンと弾いた。
「よし! 三年B組! 理不尽な圧力に負けるな! 間違ったことには勇気を持って自分の血を流せる、本物の強さを持てよ、お前ら!!」
「「「はいッ!!」」」
三十人の力強い返事が、初夏の王立ブロッサム学院の空へと高く、まっすぐに響き渡ったのだった。




