第20話
新学期も軌道に乗り始めた五月の半ば。
昼休みが過ぎた頃、新・三年B組の教室の隅で異変が起きた。
「う……ぐ……ぎぃっ……!」
「サトル……? おい、白目剥いてるぞ……!?」
大人しくて目立たない男子生徒、サトルが、自分のデスクに突っ伏してガタガタと全身を震わせていた。滝のような冷や汗を流し、腹部を抱えて痙攣を起こしている。
「サトル! どうした!?」
騒ぎを聞きつけて踏み込んだ俺、坂本エルロンドは、サトルの全身から『東方軍用の濃縮兵糧丸』特有の、致死量の魔力暴走の匂いを感じ取った。
「誰だ! コイツに軍用の劇薬を食わせたのはッ!!」
俺の咆哮に、教室の空気が凍りつく。
サトルの周囲を取り囲んでいたタケシとそのグループが、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべながら一歩後ずさった。
「え~? なんですか先生。俺たちはただ、闇市で手に入れた『すげぇ魔力アップの薬』を、親切に分けてやっただけですよ」
「サトルが『魔力が欲しい』って言うから、ちょっと口に突っ込んでやっただけで――」
「ノリですよ、ノリ!」
「……ノリ、だと?」
俺は即座に教室の扉を蹴り閉め、分厚いオーク材の扉に極東の『封縛の符』を叩きつけた。
「せ、先生……?」
外へ逃げる道を完全に塞がれ、タケシたちが怪訝な顔をする。
俺は床でのたうち回るサトルの横に片膝をつき、冷徹な声でタケシたちを睨み据えた。
「お前たちが飲ませたそれは、連続摂取すれば魔力膨満で内臓が破裂する劇薬だ。……いいかタケシ。サトルの胃は今、限界まで膨張している。あと三分で破裂し、コイツは死ぬ」
「え……っ」
タケシの顔から、一気に血の気が引いた。
「し、死ぬって……嘘だろ!? ただのおふざけで――」
「お遊びで済むか!!」
俺の怒号が、教室の窓ガラスをビリビリと震わせた。
「自分より弱い者を囲み、断れない恐怖を利用して劇薬を流し込む。それがお前たちの言う『ノリ』か! 集団の空気に隠れて自分の残酷さを誤魔化すな! お前たちは今、クラスメイトを殺そうとしている『殺人犯』なんだよ!!」
殺人犯。
その取り返しのつかない重圧と、足元で血を吐きながら痙攣するサトルのリアルな「死」の気配を前に、タケシたちは腰を抜かして床にへたり込んだ。
「い、嫌だ……! 俺、殺すつもりなんて……っ!」
「ならば責任を取れ」
俺は懐から短刀を抜き、床に放り投げた。
「サトルを救う方法は一つ。お前たちの魔力回路をサトルの経絡と強制的に繋ぎ、毒化している魔力熱をお前たちの肉体へ逆流させて引き受けることだ」
「えっ……」
「だが、致死量の魔力を引き受ければ、お前たちの魔力回路は完全に焼き切れ、一生魔法が使えない身体になるだろう。……さあ、選べ。一生魔法を捨てるか、このままサトルを見殺しにして絞首台に登るか!!」
圧倒的な命の選択。
タケシたちは顔面を蒼白にし、ガタガタと震えながら後ずさった。
「や、嫌だ……! 魔法が使えなくなるなんて……! 俺のせいじゃない、俺はただ……っ!」
仲間を見捨てて逃げ惑う、惨めな自己保身。
その時だった。
「……触るな……っ」
血反吐を吐きながらのたうち回っていたサトルが、震える手で床を掴み、ギリッと歯を食いしばって顔を上げた。
「サトル……!?」
「こんなクズどもの……汚い魔力なんか、借りるもんか……っ!!」
サトルの瞳には、涙ではなく、自身の命を弄んだ者たちへの凄まじい『怒り』の炎が燃え上がっていた。
「先生……っ! 僕の、回路を……開いてください……っ! こんな毒、僕一人で消化してやる……っ!!」
「……サトル。気を失えば、そのまま内臓が破裂するぞ。耐えられるか!」
「死んでも……コイツらに、命を握られたままなんて、ごめんだぁぁぁッ!!」
魂の絶叫。
「上等だ!!」
俺は白褌の帯に深く息を落とし込み、サトルの背中――丹田の裏側に両の掌を叩き込んだ。
「極東の理――『氣脈強制拡張』ッ!!」
「ガアアアァァァァッ!!」
サトルの全身の血管が悍ましく浮き上がり、毛穴から赤い蒸気が噴き出す。内臓を引き裂かれるような地獄の激痛。
だが、サトルは白目を剥きかけながらも、決して意識を手放さなかった。己をバカにしてきたタケシたちを血走った目で睨みつけ、己の精神力だけで暴走する劇薬の魔力を強引にねじ伏せ、自身の魔力回路の限界をゴリゴリと押し広げていく。
「あ……あぁ……」
タケシたちは、血まみれになりながらも圧倒的な執念で死の淵から這い上がろうとするサトルの姿に、ただ恐怖と畏敬でガタガタと震えることしかできなかった。
「ぐ……うおおおおぉぉぉッ!!」
バァァァンッ!!
サトルの体内から爆発的な魔力の余波が放たれ、教室の窓ガラスが一斉に吹き飛んだ。
静寂。
土煙が晴れた教室の中央で、サトルは荒い息を吐きながら、自らの両足でフラフラと立ち上がった。
その身体からは、劇薬を完全に消化し切り、以前とは比べ物にならないほど太く強靭になった魔力のオーラが立ち昇っている。
「……サトル」
タケシが、へたり込んだまま震える声で名前を呼んだ。
「……タケシ」
サトルは口元の血を手の甲で拭うと、タケシを見下ろして冷たく言い放った。
「僕はもう、お前たちのおもちゃじゃない。次に僕を『ノリ』で巻き込もうとしたら……その時は、僕のこの手で、お前たちの魔法ごと叩き潰す」
それは権力(大人)に頼る言葉ではない。己の力で死線を越え、絶対的な強者として引いた、揺るぎない『境界線』の宣言だった。
「ひっ……!」
タケシたちはいじめグループ全員で床にひれ伏し、本物の恐怖に顔を歪めて震え上がった。集団の「ノリ」という名の無責任な悪意が、個人の圧倒的な魂の前に粉砕された瞬間だった。
俺は立ち尽くすサトルの肩を、力強く叩いた。
「よく耐え抜いたな、サトル。お前の『個』の勝利だ」
「……はいっ……先生……っ」
サトルはようやく緊張の糸が切れ、俺の胸に寄りかかって静かに気を失った。
教壇の上で、俺は白褌の帯をパチンと弾いた。
「新・三年B組! 集団の空気に隠れて、自分の魂を汚すな! 相手の痛みが分かる、本当の『個』として立てよ、お前ら!!」
初夏の青空の元、圧倒的な魂の誕生を目撃した生徒たちは、誰一人として言葉を発することなく、ただ深く、深くその教えを胸に刻み込んでいた。




