第19話
奇跡のようなあの卒業式からひと月。
王立ブロッサム学院に新たな春が訪れ、俺、坂本エルロンドは、新・三年B組の担任として、夕闇の迫る誰もいない教壇に立ち、苦い過去の記憶を呼び起こしていた。
(……地球は、お前のために回っているのではない。お前も社会の歯車の一つだ)
三年前。教育実習生だった俺が、周囲を見下すエリート生徒に向かって言い放った正論だ。だが、その言葉を真に受けた彼は、貴族社会の冷酷な「効率化の歯車」として己をすり減らし、やがて心を壊して学院から姿を消した。
『真の理を持たぬ者に、人の魂を導く資格はない』――あの日の流血にも似た敗北があったからこそ、俺は白褌を締め、退路を断ってこの教壇に立ち続けている。
そして今、目の前の新・三年B組に、かつてのあの生徒と酷似した少年がいた。
レオ。大商人一族の跡取りとして生まれ、魔力も頭脳も最高峰。しかし彼は、「資本と効率」の観点から他者の努力を冷酷に切り捨てる男だった。
「先生、来週のクラス親睦会ですが、俺は欠席します」
レオは冷めた笑みを浮かべて言った。
「あんな非効率な馴れ合いに付き合うより、個人の魔力練成に時間を遣いたい。我が家では『成果と効率を出せない人間は無価値だ』と教えられてきました。俺の1秒の価値は、彼らの1時間より遥かに高価ですから」
周囲をリソース(資源)としか見ない、冷徹な万能感。
その歪んだ防衛本能は、翌日の昼休み、最悪の形で教室に亀裂を生むことになった。
平民出身の男子生徒・トモが、三ヶ月かけて大切に育てていた薬用魔法植物の鉢植えを、レオが冷たい視線で見下ろしていた。
「トモ。お前、まだそんな低級な雑草に泥水を与えているのか?」
「雑草じゃないよ。これは将来、下町で安価に使える傷薬になるんだ。時間をかけて魔力を土になじませれば――」
「無駄な労働だ」
レオは鼻で笑うと、指先から高度な練成魔法を展開した。光が収束し、わずか一秒で、一瓶の高純度な『合成霊薬』が生成される。
「見ろ。俺の演算能力と魔力を使えば、お前が三ヶ月かけた薬効成分だけを、一秒で100パーセントの純度で合成できる。お前たちのような無能が泥にまみれる労働など、この世界には不要なんだよ。俺たち優秀な人間が、効率よく世界を回してやっているんだからな」
「そんな……」
自らの労働と時間を『非効率』と完全に否定され、トモが唇を噛み締めて肩を震わせる。教室中に、冷ややかな失望が広がっていく。
自分を「世界の中心」だと信じ、他者を数字でしか計れないレオの脆さ。
その時。
ドスン……と、重い足音が教壇を揺らした。
白褌一枚の俺が静かに歩み寄り、レオの目の前に仁王立ちした。
「……レオ。お前、自分の魔力で世界を回している気になっているのか?」
「なんですか、坂本先生。俺の効率的な練成魔法に感心しましたか?」
「大バカヤローが」
俺は懐から、血と瘴気に濡れた包帯を解き、自身の腕の傷を晒した。昨夜の巡回で、スラムの魔獣から受けた複合毒の傷だ。
「治してみろ、レオ。お前のその『一秒の成果』でな」
「ふん、そんな擦り傷……」
レオが自信満々に合成霊薬を俺の傷口に振りかける。
だが次の瞬間、傷口から紫色の煙が上がり、肉がジュゥゥゥッと焼け焦げる音が鳴った。
「なっ……!?」
「単一の有効成分だけを超高純度で抽出しただけのハリボテが、魔獣の『複雑な複合毒』に対応できるわけがねえ。純度が高すぎるが故の、過剰な拒絶反応だ」
「俺の……完璧な魔法計算が、間違っているとでも言うのかッ!」
プライドを傷つけられたレオが激昂し、指先に強烈な魔力波(衝撃波)を練り上げ、俺に向かって放った。教室の机が吹き飛ぶほどの殺意。
だが俺は、白褌のまま一歩も引かず、ただ静かに掌を前に出した。
極東の理――合気。
俺は一切の筋力を使わず、足裏から丹田を繋ぎ、レオの放った魔力波の直進ベクトルを、自身の背骨の旋回(螺旋)で絡め取り、そのまま床の石畳へとアース(放流)させた。
パァァンッ!! という音と共に、魔力波が俺の足元で無害な風となって霧散する。
「なっ……魔力が、俺の力が……吸収されて……!?」
「世界はお前の単純な演算で回っているのではない。お前もまた、この巨大で泥臭い循環の一部に過ぎないんだよ!!」
俺は白褌の帯をパチンと弾き、トモを振り返った。
「トモ、お前の育てたその植物の葉を一枚くれ」
「あ、はい……!」
トモがちぎって渡してくれた泥のついた葉を、俺は傷口に擦り込んだ。
青臭い匂いとともに、傷口の瘴気がスッと引き、赤黒かった肉が急速に本来の生気を取り戻していく。
「……あり得ない。俺の高純度合成薬でダメだったのに、ただの雑草が……」
「これが『労働の熱』だ、レオ」
俺は傷の癒えた腕をレオの目の前に突きつけた。
「この葉はな、三ヶ月間、土壌の無数の微生物や大気の魔力と闘いながら、数千種類の酵素を複雑にブレンドさせて生き抜いてきた『生態系の結晶』だ。……人間のたった一秒の薄っぺらい計算能力で、大自然が泥水すすって組み上げた『複雑系のアルゴリズム』に勝てると思うな!」
圧倒的な物理と生命の実証。
成果と効率という鎧を剥がされたレオは、己の無力さに愕然とし、床にへたり込んだ。
「お前が一人で大きくなった顔をして踏んぞり返っているその足元はな……お前が非効率だとバカにしている大勢の平民たちの汗と、この大地の泥臭い循環の上に成り立っているんだ! 効率を出さねば一族に捨てられるという恐怖から逃げるために、他人の労働を見下すな!」
完璧な優等生として自分を飾り立て、周囲をリソースとしてしか見れないことで自分の存在価値を守っていたレオの脆いプライドが、ドロドロと溶け落ちていく。
「……う……あ……っ」
レオは泥のついたプランターの前で、顔を覆って声を上げて泣きじゃくった。
「俺……怖かったんだ……っ! 1秒でも立ち止まって、効率の悪い落ちこぼれになったら、一族にゴミみたいに捨てられると思って……! だから……威張って……みんなを見下して……っ!」
効率の呪縛から解き放たれ、十五歳の子供としての弱さを曝け出した少年。
トモが静かに歩み寄り、レオの震える肩にそっと手を置いた。
「レオ。君の合成魔法も、使い方を合わせればすごい力になるよ。……親睦会、君のそのすごい知識を僕たちに教えてよ」
レオは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、トモの泥のついた手を強く握り返した。
「……ごめん……俺の魔法より……君の育てた葉っぱの方が……ずっと温かいよ……っ!」
新・三年B組の教室に、温かい静寂が訪れた。
自分を中心に世界を回そうとしていた少年が、初めて他人の存在と労働を敬う「真の循環」を見つけた瞬間だった。
教壇の上で、俺は白褌の帯をパチンと弾いた。
「よし! 全員、親睦会の準備に取りかかるぞ! 地球はお前らのために回らんが……お前たちの青春とこの教室は、お前たち自身の手と足で、泥臭く回していくんだ!!」
「「「おうッ!!」」」
新・三年B組の全員の力強い返事が、春の青空高く、どこまでも響き渡ったのだった。




