第2話
赴任から数日。
王立学院が用意した豪華な教員宿舎の私室で、俺は荷造りを進めていた。ふかふかのベッドと温水シャワーが完備されたこの部屋は、今日で引き払う。高台の貴族街から谷底へ下った先――スラムの路地裏にある隙間風まみれの長屋こそが、闘争心を研ぎ澄ますための俺の新たな城だ。
開け放ったドアの枠を、無作法に叩く者がいた。
「よお、ふんどし先生。スラムのボロ長屋に引っ越しだって?」
学院の出入り業者用の荷台に寄りかかっていたのは、三年B組のケンだった。
制服の胸元をだらしなく崩した下町育ちの少年。実家は下層区で荷馬車の運送屋を営んでおり、休日はこうして学院の雑用を手伝っている。貴族の子女が八割を占めるこの難関校に平民の身で紛れ込んだのは、相応の野心と打算あってのことだ。
「ケンか。手伝いとは感心だな」
「かたいこと言いなさんなよ」
ケンは意地の悪い笑みを浮かべ、部屋の隅に積まれた俺の荷物――極東から持ち込んだ鉄芯入りの修練用砂袋や、分厚い木簡の山をねぶるように見下ろした。
「なあ、俺の実家の荷馬車使えよ。引っ越し代は『タダ』でいいぜ。その代わり――」
ケンは声をひそめ、十五歳にしてはあまりに冷めた瞳で俺を見た。
「来月の内申書、俺の評価に少し『色』をつけてくれりゃいい。貴族の奴らは金で高級な魔導書を買って点数を稼いでる。平民の俺が家業の『馬車』を使って評価を買うことの、何が悪い? 合理的な取引だろ」
俺の胸の奥で、静かに熱い塊が鎌首を持ち上げた。
実績があっても家柄で弾かれる理不尽なシステム。それに怯えるあまり、このガキは己の親父が血と汗を流して稼いでいる商売を、薄汚い不正の道具にしようとしている。
「断る」
俺は冷ややかに言い放った。
「お前の手は借りん。この異常に重い砂袋の山は、すべて俺自身の肉体で運ぶ」
「はっ、強がりなよ。あんな鉄の塊みたいな荷物、自力で運べるわけねえだろ。意地張ってねえで賢く生きろよ!」
「賢く、だと?」
俺は足元の砂袋を一つ、無造作にケンへ向かって蹴り飛ばした。
「おっと――っ!?」
慌てて受け止めようとしたケンは、その殺人的な質量に悲鳴を上げ、無様に床へ這いつくばった。わずか一つの砂袋に押し潰され、指一本動かすことができない。
「ひっ、ぐ、あ……っ!? な、なんだよこれ、岩でも入ってんのかよ!」
「東方の『締込み』――強靭な帯で丹田を締め上げ、骨盤を固定する。筋肉ではなく骨格の連動のみで大地の反発力を殺す歩法を知らねば、一歩も歩けぬ重さだ」
俺はケンの上から砂袋を軽々と拾い上げると、常人なら五人がかりでも持ち上がらない全重量を荒縄で縛り、己の背中にドカンと担ぎ上げた。ミシミシと全身の骨が悲鳴を上げるが、白褌の帯に深く息吹を落とし込むと、体幹が鋼のように固定される。
「行くぞ」
「ま、待てよ! ここから下層区に降りるには『魔断の心臓坂』を通るんだぞ! あそこは、貴族の流通ギルドを通さない平民の荷車に対し、数倍の摩擦と重力をかける搾取の結界が敷かれてるんだ! 荷車なしで、しかも魔力のないアンタがそんなモン背負って坂を下れば、重力と加速で膝の骨が砕け散るぞ!」
「だからどうした」
俺は石畳を踏み砕かんばかりの歩幅で、急勾配の坂へと足を踏み出した。
下り坂の容赦ない重力が、背中の質量と合わさって殺人的な負荷となり、両膝の関節を粉砕しようと牙を剥く。
「ぐ、おおおおおっ……!」
俺は氣の絶叫でその負荷をねじ伏せ、踵から伝わる衝撃を背骨のしなりだけで吸収しながら、一歩、また一歩と深淵へ向かって踏み下りていく。全身の毛穴から噴き出した汗が飛沫となり、石畳に赤い血混じりの染みを作った。
「や、やめろよ! 要領よく生きろって言ってんだよ! 平民だって、なりふり構わずズルしなきゃ貴族に勝てねえんだよ!」
後ろから泣き叫ぶようについてくるケンを振り返り、俺は牙を剥き出しにして笑った。
「ケン! お前の親父さんはな、毎日この理不尽な結界の坂で、文句一つ言わずに重力と戦いながら荷馬車を引いているんだぞ! お前をこの学院に通わせるためにだ!」
「っ……!」
「泥を舐め、関節を軋ませながら、誇り高く汗を流して一文を稼ぐ! お前は自分の父親が勝ち取ってきた職人の誇りを、己の不平等の言い訳のためにドブに捨てたんだ!」
雷鳴のような喝破に、ケンは雷に打たれたように立ち尽くした。
「ズルで手に入れた評価など、風が吹けば飛ぶ虚飾だ! 己の足で立って運んだ重みだけが、男の本当の価値になるんだよ!!」
俺の咆哮が、魔の力場をビリビリと震わせながらスラムの谷底まで響き渡った。
――数日後。王立学院三年B組。
教壇に立つ俺の前に、ケンが歩み寄ってきた。その手には、先日配った東方の『原稿用紙』が握られている。
「……先生。これ」
手渡された紙を受け取り、俺は目を細めた。
枠内には、俺の荷物を助け起こそうとした時についたのだろう、泥と汗の真っ黒な手形がべったりとついている。その汚れの上に、筆圧の強い乱暴な字が二行だけ刻まれていた。
『俺は、親父の手のタコを馬鹿にする奴は許さねえ。いつか俺自身の力で、親父の馬車に最高の魔法車輪をつけてやる。』
「……ケン。満点だ」
俺がニヤリと笑うと、ケンは「けっ、ふんどし先生に褒められても嬉しくねえよ」と悪態をつきながら背を向けたが、その横顔は誇り高く前を向いていた。
「よし! 三年B組、今日も汗をかいて己を鍛え上げるぞ!」
白褌をパチンと鳴らす俺の声が、今日も青空高く響き渡った。




