第1話
来春に王立高等魔法学院の受験を控えた、三年B組の教室。
重厚なオーク材の両開き扉の奥からは、鋭利に研ぎ澄まされた――ゆえに今にも折れそうな、脆弱でヒステリックな魔力の気配が漏れ出ている。
行き交う教職員たちが怪訝な視線を向ける中、俺は丹田に深く氣を落とし込み、真鍮のドアノブを回した。
教壇へ踏み込み、チョークが粉砕するほどの筆圧で黒板に己の名を書き殴る。
『坂本エルロンド』
「今日からこのクラスの担任になる。以上だ」
教室を満たしたのは、徹底的な『拒絶』と冷笑だった。
無魔力の落ちこぼれとして貴族社会を追放された男。それがなぜか今、東方のボロボロの法衣を纏って教壇に立っている。一瞬の静寂の後、生徒たちは狂った不審者を視界から外すように、分厚い魔法書のページをめくり、模範詠唱集を書き写す無機質な音を再開させた。
俺は教卓に激しい張り手を叩き込んだ。
豪快な衝撃音が教室の空気を引き裂き、ペンを走らせる音がピタリと止む。
俺が教壇から突きつけたのは、彼らがすがりつく羊皮紙ではない。東方の交易船から取り寄せた、正方形の格子が整然と並ぶ特殊な呪詛紙――『原稿用紙』だった。
「来春に向けて、長大な美辞麗句を暗記するのは結構だ。だがな――己の魂の在処も分かっていない奴が紡ぐ詠唱など、ただの記号の羅列に過ぎん」
「……おふざけはおやめください、坂本先生」
最前列で銀髪を揺らしたのは、学級委員長のエルフ、ガブリエルだった。
「私どもは上位学院の入試に向け、古典詠唱の暗記と魔力制御で一刻の猶予もありません。そのような東方の奇妙な紙で、お遊びに付き合う暇はないのです」
「お遊び、だと?」
「ええ。私どもの『私』など、すでに美しく体系化されております。我が血統の誇りを胸に、一族の発展のために魔法を修める者。今ここで、完璧な模範解答を口頭で述べて終わりにしてもよろしいですが?」
彼女の言葉に、周囲の生徒たちも冷ややかに頷く。
「――薄っぺらいな」
俺が一歩踏み出し、身に纏っていた漆黒の法衣を乱暴に脱ぎ捨てた。
あらわになったのは、無数の斬り傷と火傷に覆われた鋼の肉体と、腰に締めた『白褌』一丁。極限まで削ぎ落とされた異様な出立ちと、毛穴から噴き出す凄まじい氣の圧に、最前列の生徒たちが怯えて息を呑んだ。
「ガブリエル、お前の言う『私』には、肝心の心臓がごっそり抜け落ちている。立派な肩書や血統という飾りを剥ぎ取った後、裸一貫のお前自身は何に泣き、何に怒るエルフなんだ?」
俺は己の胸を強く叩いた。
「極東において白は無であり、神事に臨む禊の色。一切の偽りを捨て、死を覚悟して道に挑む顕現だ。見ろ、これが俺だ!」
俺は教室中を鋭く見据えた。
「借り物の綺麗な呪文を捨てろ。この紙は東方の呪詛紙。流れるように嘘をつける西欧の表音文字とは違う。この正方形の枠は、一字一字に魂を込め、文字を置くことを要求する。今日の課題は『私』だ。逃げずに己の心を叩きつけてみろ」
静寂が教室を支配した。
大半の生徒は呆れ果て、あるいは鼻で笑いながら、適当な建前を数行書き殴って教卓へ紙を放り投げていく。こんな狂人の授業に付き合う価値はないと、早々に自習に戻っていった。
だが――ガブリエルだけが動かない。
流麗な魔法詠唱と違い、枠内の余白は残酷だ。言葉を美しく飾ろうとすればするほど、枠は彼女自身の空虚さを浮き彫りにする。「お前は本当にそう思っているのか」と、呪詛紙そのものが問いかけてくるのだ。
授業終了の鐘が鳴る。
真っ白な紙の最初のマス目にペン先を押し当てたまま、ガブリエルは小刻みに震えていた。完璧な逃げ道を用意するプライドと、脆い本音を晒す恐怖の狭間で、黒いインクだけが虚しく滲んでいく。
鐘の音が鳴り終わると同時、ガブリエルは弾かれたように立ち上がり、教卓に原稿用紙を叩きつけた。
「私には……! 書くことなど、何もありません……!」
激しい怒りと屈辱に濡れた瞳。教卓に置かれたのは、見事なまでに真っ白な紙だった。
「……ほう。百点満点だ、ガブリエル」
「は……?」
俺は紙の右下を指差した。
「お前が握りしめていた部分は汗で皺くちゃだ。そして最初の枠の中心には、迷い続けた万年筆のインクが黒く滲みついている」
ガブリエルが息を呑む。
「上等な嘘を書いて逃げることもできず、本音を見るのも恐ろしい。結果、ペンを震わせて紙を握り潰すことしかできなかった。……お前は一文字も書かずに、お前自身の葛藤を完璧にこの紙へ叩きつけたんだよ」
完璧だった優等生の仮面が砕ける。年相応の激しい動揺と羞恥が、その顔を真っ赤に染め上げた。
「この『白紙』は俺が預かる」
俺が真っ直ぐに笑いかけると、ガブリエルは耐えきれないように顔を覆い、逃げるように教室を駆け出していった。




