第15話
王立魔法高校の入試を明日に控えた、最後の登校日の朝。
王立ブロッサム学院三年B組の教室は、まるで張り詰めた弓の弦のように、息を呑む静寂と殺気めいた緊迫感に包まれていた。
教壇には、各教科の担当教師たちが代わる代わる立ち、最後の生存戦略を早口で捲し立てていた。
「いいですか! 実技試験における『魔導重圧結界』において、貴族と同じ正面突破を図れば、君たちの魔力容量では三秒で内臓が破裂します! 私が教えた極東の身体力学を用いた『ベクトル逸らし』で耐え凌ぎなさい! 美しさなど不要、泥水に顔を突っ込んででも生き残る数式を組むのです!」
数理担当のチャーリー教師が、黒板が割れんばかりの勢いでチョークを走らせる。その分厚い眼鏡の奥の瞳には、かつての冷酷さはなく、教え子たちの生還と勝利を祈る狂気にも似た光が宿っていた。
「筆記の『古代契約言語』では、王宮の気取った模範解答だけでなく、東方の現場の『血の誓約』の概念を必ず叩きつけなさい! 現場のリアルを知る平民の底力を、採点官の貴族どもに見せつけるのです!」
外国語担当のシルバ教師もまた、生徒たちを鼓舞するように語気を荒らげた。
魔法社会のエリート選別という名の、理不尽で残酷な処刑場。
その鉄火場へ向かう生徒たちの顔は、極度の重圧で蒼白になっていた。ケンは拳を固く握り締め、ユージは額に脂汗を浮かべ、ガブリエルすらも震える手で万年筆を握り壊しそうになっている。
やがて、教科教師たちが去り、静かにチャイムが鳴り響いた。
静まり返った教室の前扉が、ゆっくりと開く。
入ってきたのは――いつものように極寒の気温をものともせず、白褌一枚で堂々と胸を張った坂本エルロンドだった。
エルロンドは無言のまま教壇へと歩み寄り、生徒一人ひとりの顔を、静かに、そして深く見据えた。
「……みんな、よくここまで逃げずに刃を研いだな」
静かな、しかしどこまでも重く温かい声。
それだけで、カチカチに固まっていた三十人の肩の力が、ふっと抜けた。
「各先生方から、生き残るための戦術を聞いたと思う。……だがな、俺からお前たちに伝える『最後の命令』は、たった一つしかない」
エルロンドは白褌の結び目にギュッと手を当て、丹田に深く息を吸い込んだ。
「明日、お前たちが試験会場で向かい合うのは……理不尽な魔力審査でも、貴族の試験官でもねえ。お前たち自身の『心』だ!」
生徒たちが息を呑み、エルロンドを見つめる。
「血統の違いに絶望し、頭が真っ白になり、逃げ出したくなる瞬間が必ず来る! ……だがな、そんな時は思い出せ!」
エルロンドは自分の分厚い胸を、ドスンと重い音を立てて叩いた。
「お前たちがこの教室で書き上げてきた、あの『原稿用紙』のことをな!!」
「原稿用紙……」
ガブリエルが小さく呟いた。
「そうだ! 借り物の綺麗な嘘を捨て、泥を舐めて自分の本音を叩きつけたあの紙切れだ! お前たちはもう、自分の脆さも、弱さも、劣等感も……全部さらけ出して、それを武器に変えて立ち上がってきたんだ!」
エルロンドの瞳に、熱い魂の業火が宿る。
「問題用紙の向こうに『答え』を探すな! お前たちが今日まで血反吐を吐き、理不尽に抗い、仲間と肩を組んできたその歴史の中に……真実の答えはすでに刻まれている! 自分を信じろ! お前たちが命懸けで生き抜いてきたこの一年間を、絶対に疑うな!!」
圧倒的な熱量。
不安で凍りついていた三十人の胸に、不滅の勇気の炎が爆発的に燃え上がる。
「もし、どうしても手が震えて止まらなくなったら……俺のこの白褌を思い出せ!」
「「「え……?」」」
意表を突かれた生徒たちから、小さな驚きが漏れた。
「俺は魔力もなく、世間から変態と嗤われても……明日も変わらずこの白褌一つでここに立っている! 試験に落ちたって命まで取られはせん! お前たちが何度破れようと、帰る場所はこの坂本エルロンドが白褌一枚で死守してやる! だから……安心して、貴族のど真ん中で思いっ切り暴れてこい!!」
教室に、温かく力強い笑い声が広がった。
緊張という名の呪縛が、綺麗に消え去っていく。
「よし! これにて三年B組、最後のホームルームを終わる!」
帰りの鐘が、学院に重厚に鳴り響いた。
生徒たちがゆっくりと席を立ち、荷物をまとめて教壇の前へと歩み出てくる。
エルロンドは教壇の脇に立ち、戦場へ向かう生徒一人ひとりの目を真っ直ぐに見据え、その背中に檄を飛ばし始めた。
「ガブリエル。お前の素顔の強さで、完璧な貴族の仮面を叩き割ってこい。……行ってこい!」
「……はい! 行ってきます、先生!」
「ケン。親父さんの荷馬車の重みを胸に、お前自身の足で権力を轢き潰せ。……行ってこい!」
「へっ……言われなくてもやってやるよ! 行ってくるぜ、ふんどし先生!」
「ユージ。装飾を捨てたお前自身の『裸の言葉』で、採点官の心臓を貫け。……行ってこい!」
「はいっ! 行ってきます、先生!」
「ダイゴ。お前の打球は、どんな恐怖も吹き飛ばす。最悪のオッズをひっくり返してこい。……行ってこい!」
「エルナ。一族の点数に囚われるな、お前自身の言葉で新しい『舫い』を結んでこい。……行ってこい!」
「カズヒコ。過ちから這い上がったお前は、誰よりも泥に強い。……行ってこい!」
「イズミ。お前は一人じゃない。鈍行列車で培った泥臭い基礎点で、天才どもを追い抜け。……行ってこい!」
一人、また一人。
エルロンドは三十人全員の名前を呼び、その手を骨が軋むほど力強く握りしめ、背中をバシッと叩いて戦地へ送り出していく。
生徒たちは泣き笑いの顔で「行ってきます!」「行ってきます、坂本先生!」と叫び、春の柔らかな光が差し込む廊下へと踏み出していった。
最後に、教壇の前に立ったのはシルフィとシンゴだった。
シルフィの腰には、シンゴが睡眠を削って極限まで小型化した『急造の魔力循環バイパス』が、痛々しくも力強く装着されている。
「先生……私達、二人で一つの命です。この機械と一緒に、泥を舐めても合格をもぎ取ってきます」
「おう! お前たちが紡ぎ上げたその平民の技術で、血統至上主義の度肝を抜いてこい! ……行ってこい!!」
「「はいッ!!」」
二人はしっかりと手を握り合い、誇り高く扉を出て行った。
バタン……と、扉が静かに閉まった。
誰もいなくなった三年B組の教室。
夕陽が茜色に染め上げる静寂の中、三十人分の机と椅子だけが、戦いに挑む兵士たちの墓標のように、あるいは凱旋を待つ玉座のように、整然と並んでいた。
エルロンドはたった一人、誰もいない教壇の上にぽつんと立ち尽くしていた。
静まり返った室内に、窓の外から夕陽の中を戦地へと向かって歩いていく生徒たちの、遠い足音が、かすかに届いては消えていく。
エルロンドはゆっくりと目を閉じると、白褌の結び目をギュッと、指から血が滲むほど固く締め直した。
そして、茜色の空に向かって、誰もいない教室に向かって、深く、深く頭を下げた。
「……勝て……みんな……必ず生きて、勝てよ……っ」
誰にも聞こえない、たった一人の将の祈り。
目元からポロポロとこぼれ落ちる大粒の涙が、誰もいない教壇の床をぽつぽつと濡らしていく。
教え子たちの未来を信じ、自らの魂のすべてを捧げて送り出した熱血教師。
静寂の三年B組に、茜色の光と白褌の純白が、どこまでも神聖に、どこまでも熱く輝いていたのだった。




