第14話
来春の王立魔法高校入試まで、残すところあと数日。
王立ブロッサム学院の校舎は静まり返り、時刻は深夜二時を回っていた。
誰もいない暗い職員室で、たった一つだけ明かりが灯るデスクがあった。坂本エルロンドだ。
俺は白褌の背中を丸め、三年B組三十人分の内申書と願書の最終点検を行っていた。記載漏れはないか、生徒たちの泥臭い足跡が完璧に伝わる文章か。魔力を持たない俺ができる、命懸けの裏方作業だった。
「ふぅ……よし、次はイズミのか――」
手を伸ばしたその時だった。
デスクの端に積み上げられていた『魂の日報(木簡)』のうち、一枚からピキッ……と乾いた音が鳴った。
「ん……?」
俺が手に取ると、木肌に無数の亀裂が走り、かつて彼女が誓約として垂らした『血』が、極限のストレスと恐怖に共鳴してドス黒く滲み出していた。
『怖い。……助けて、先生』
呪具を通して伝わる、悲痛なSOS。イズミの木簡だ。
俺は木簡から伝わる微弱な生命波長を丹田の『氣』で探った。
「波長が近すぎる……自宅の寮じゃない。校内だ!」
俺はデスクの上の厚手外套を引っ掴み、深夜の職員室を飛び出した。
――暖房の落ちた、極寒の学院地下。
分厚い魔導書が眠る『閉鎖図書室』の奥深く。魔力感知の死角となる書架の隙間に、小さなランタンの明かりが灯っていた。
氷点下の冷気が底冷えする室内。そこに、毛布を被ったイズミがいた。昼間の放課後から隠れ続け、そのまま閉館されて閉じ込められたのだ。彼女は低体温症で全身をガタガタと震わせ、かじかんで動かない指で無理やりペンを握ろうとしては落とし、泣きながら拾おうと足掻いていた。
「イズミッ!!」
俺が書架を退けて踏み込むと、イズミはビクッと肩を跳ねさせた。
「せ……先生……!?」
「こんな深夜まで図書室に潜伏するなど……見つかれば一発で受験資格取り消しだぞ! 体温も限界だ、そんな初歩的なリスク管理もできないほど狂ったか!」
俺の厳しい叱責に、イズミの顔からサーッと血の気が引き、せき止めていたダムが決壊したようにボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「う……うん……っ! 分かってるけど……怖いの、先生……っ! 寮のベッドにいても、目を閉じると不安で押し潰されそうで……指が動かないのに、勉強をやめたら、私が消えちゃう気がして……っ!」
俺は駆け寄ると、手にしていた厚手の外套でイズミの震える細い肩をすっぽりと包み込んだ。外套に浸透していた俺の強靭な生体熱気が、冷え切っていたイズミの身体をじんわりと温めていく。
「私、カズヒコくんみたいに頭が良くないし、ダイゴくんみたいな才能もない……。普通なの……っ! だから、人の何倍もやらないと追いつけないのに……もし本番で頭が真っ白になって落ちたら、私のこれまでの努力も全部無駄になって、消えちゃうんじゃないかって……っ!」
天才や問題児たちの陰で、凡人だからこそ誰にも気づかれずにプレッシャーを抱え込んでいた十五歳の繊細な恐怖。
俺は外套越しにイズミの肩を力強く抱き寄せ、もう片方の手で、彼女が涙で濡らした『ノート』を拾い上げた。
「イズミ。お前は根本的な勘違いをしている」
俺の声が、静寂な地下図書室に深く響く。
「凡人であることが、そんなに恐ろしいか? ……このノートを見てみろ」
俺はランタンの明かりにノートをかざした。
「お前の数式には、天才的な魔力演算のショートカット(飛躍)は一つもない。天才たちの歩みを『目的地へ直行する特急列車』とするなら、お前の歩みは、泥臭く遠回りをする長距離の『鈍行列車』だ」
「え……?」
「だがな、天才ってのは己の鋭い才能に頼るから、想定外の難問や極限のプレッシャーという嵐に巻き込まれた時、あっけなく脱線して折れる。……だがお前は違う。誰も見ていないところで、自分の凡庸さに絶望しながら、こうして通し切符を握りしめ、一つ一つの基礎(駅)で泥臭く途中下車を繰り返して、自らの足で地形を踏破してきた」
俺はイズミの、インクで黒く汚れた小さな手を取った。
「本番の荒れたレース展開で、天才が足を滑らせて転落する時……お前だけは、その泥臭い足回りで『確実に拾える基礎点』をかき集めて生き残れるんだ! それが、お前が血反吐を吐いて築き上げた『凡人の戦い方』だ。自分の泥臭い強さを信じろ!!」
圧倒的な言葉と、残酷な大勝負を生き抜くためのリアルな戦術。
夜の暗闇と孤独に包まれていたイズミの心に、エルロンドの突きつけた熱が満ちていく。
「それに……お前は一人じゃない」
俺は図書室の小さな天窓を指差した。澄み切った冬空に、一番星が静かに輝いている。
「今この瞬間もな……三年B組の三十人の仲間たちは、それぞれの部屋で、お前と同じように震えながら参考書と戦っている。お前が孤独にペンを握る時、三十人の仲間と、この俺が……お前の背中をずっと支えているんだよ!!」
イズミは声を上げて泣きじゃくり、俺の胸にしがみついた。
「うあああぁぁぁんっ! 先生ぇぇぇっ! 私……私、怖かったの……! ありがとう……ありがとう、先生ぇぇぇっ!!」
俺はイズミの頭を優しく撫で回した。
「よく頑張ったな、イズミ。今夜の戦いはここまでだ」
俺は背中を向け、イズミを負ぶった。
「女子寮の裏口まで運ぶ。寮母には、俺が『夜間巡回中に中庭で過労で倒れているのを発見した』とうまく誤魔化して引き渡す。安心しろ、お前の努力も尊厳も、絶対に俺が守り届けてやる」
「……うん。先生……あったかい……」
外套に包まれたイズミは、安心したように俺の背中で静かに寝息を立て始めた。
――翌朝。
朝日が眩しく差し込む三年B組の教室。
昨夜の涙が嘘のように、すっきりと晴れやかな顔で登校してきたイズミの姿があった。
彼女は自分の席に着くと、隣のガブリエルに向かって温かい笑顔で声をかけた。
「ガブリエルちゃん、おはよう!」
「おはよう、イズミ。……なんだか今日、とても強い顔をしているわね」
「うん! 私、自分の本当の武器が分かったから!」
教壇の上で、俺は白褌の帯をパチンと弾いた。
生徒たちの顔を見渡すと、全員の瞳に「静かな覚悟」が満ちていた。
真夜中の孤独を乗り越え、本当の意味で自分たちの試練に立ち向かう準備が整ったのだ。
「よし! 三年B組! 入試本番まであとわずか! 一人で戦うな、全員の魂を一つにして……合格を咲かせに行くぞ、お前ら!!」
「「「おうッ!!」」」
三十人の力強い叫びが、春を呼ぶ王立ブロッサム学院の空へと力強く響き渡ったのだった。




