15話
「はぁ、はぁ、はぁ」
カールは森の中を必死に駆け抜けていた。
息も絶え絶え、滝のような汗を流しながら右も左もなくただひたすらに逃げ回っている。
カールを追っているのは一匹の魔獣だった。
万全な状態なら、たとえ足場の悪い森の中でも、鼻歌交じりで駆け抜けることができたかもしれない。
それがこの魔の森であっても、狼族の獣人であるカールにとっては変わらない。
深淵に入り込みさえしなければ問題ないはずだった。
しかし、カールがいた隊を襲ったのは、深淵にいるはずの魔獣だった。
振り返った視界に、獅子の頭が映る。
天馬のような翼が木々を薙ぎ倒し、龍を思わせる尾が地面を打った。
キマイラだ。
目にしたのは初めてだが聞いたことはあった。
伝説の存在で畏怖の象徴。
森の中を闇雲に動き回ればキマイラに捕まって食べられてしまうよ。
そう子供に言って聞かせる御伽噺。
揺れた地面に足が取られそうになる。
意図的に飛ばしたであろう木々の破片が、カールの身体を切り刻んでいく。
誰が見てもボロボロだった。
体力も魔力も限界に近い。
奴隷として連れてこられ、食事も満足に与えられていない。
こうして使い潰すつもりだったのだろう。
だが、彼らにとって誤算だったのは、意図しない襲撃により隊が壊滅寸前になったことだ。
生き残りはカールと奴隷商の男、それと護衛隊長の三人だけだった。
連中はカールを放り出し、命令を下した。
囮になれ。
それだけだった。
いまここで足を止めても命令違反にはならないだろう。
それでも今も必死に逃げ続けているのは、愛する妻と成人したばかりの娘、一族の皆の顔が脳裏に浮かんでいたからだ。
だが、連中のもとにいる限り、生きて帰れる見込みはない。
どうせ死ぬなら皆に誇れる死に様でありたい。
この状況は逆にチャンスではないかとさえ思えた。
隷属させられ、死に様すら選べないような状態で生き恥を晒したとして、村に帰ることは叶わず、誇りを穢されるだけだ。
それならば、誇り高き死を望む。
無手であろうと強者に挑み、命を散らすべきだ。
カールは意を決して足を止めた。
振り返り、キマイラを視界に入れる。
キマイラはそれが気に入らないとばかりに咆哮を上げた。
どんな強者を前にしても、自分を奴隷にした護衛隊長と対峙したときでさえも、決して心から屈服した訳ではなかった。
それなのに、たった一声で、カールの戦意は根こそぎ奪われた。
身体から意思が抜けた。
動かない。
震えが止まらない。
意識があるだけに、自分に何が起こったか分からず、ひどく混乱した。
「あぁ……」
カールはかすかにうめき声を漏らし、膝から崩れ落ちた。
キマイラが眼前に迫る。
醜悪に口を歪ませて、だらだらと唾液を溢した。
カールの視界のすべてが、ゆっくりと覆い尽くされていった。
その瞬間、カールの頭上で声が聞こえる。
「邪魔だ、どけっ!」
頭部を噛み砕こうと大口を開けたキマイラの側頭部を男の足が蹴りぬいた。
キマイラは、横ざまに吹き飛び、地面にバウンドして、数本の木々をなぎ倒した後、動きを止めた。
「……はっ、はっ、はっ」
呼吸がうまくできない。
まだ、身体が動かない。
胃が痙攣している。
カールはそのままばたんと前のめりに倒れた。
意識はある。
枯れ葉や枝を踏む音が聞こえた。
「おいっ、大丈夫かよっ。えっ、犬?」
頭上からカールがもっとも嫌う、一族を侮蔑する言葉が聞こえてきた。
■
「いやー、悪かったな。そのなんだ、獣、獣人間?そういうの初めてでよ」
犬と言われたことで咄嗟に唸り声をあげてしまったカールに、男は怒るどころか罰が悪そうに言う。
見ると、申し訳なさそうにしているが、言ってることは大分酷い。
ただ、カールが体を起こそうとすると、無言で手を貸してくれたし、手持ちの容器でビックリするほどうまい水を飲ませてもくれた。
信じられないことに、カールのような獣人は見たことも聞いたこともないらしい。
あのまま倒れていたら、取り敢えず顔のマスクを剥ごうと思ってた、と笑いながら言われて卒倒しそうになった。
命の恩人であることに違いはないが、キマイラより恐ろしいと思ってしまう。
「大上与一だ。よろしくな」
「カールと言います。助けてくれてありがとう」
獣人に自ら手を差し出して名乗る人間は初めてだった。
カールは大上の差し出した手をしっかりと握りしめた。
その時、カールの首についていた首輪がブンと一瞬光った。
「おおっ、何だそれ?」
大上がカールの首の辺りを見ながら、不思議そうに聞く。
「これは……その、奴隷の……」
カールはきまりが悪そうに答えた。
「なんで光ったんだ?」
そう言って、大上はカールの首に見立てて、トントンと自分の首を指す。
「定期的に主人の元へ生存の情報を送るためです」
「ふーん、大変そうだな」
それだけ?と、カールは思った。
侮蔑したり、嫌悪を見せたりされる方がまだ良かった。
確かに獣人の奴隷など珍しくもなんともない。
カールより悲惨な状況にある奴隷も星の数ほどいるだろう。
まったく興味がないのも、人の街で暮らしていれば良く分かる。
通りすぎる人間は、皆同じ目線をぶつけてくる。
同じ人族としての認識を持ってないのだ。
路上の石。
それこそさっき大上が言った犬である。
いや、可愛がられている分犬の方がまだマシかもしれない。
大上の反応の無さに少しばかりショックを受けて自虐気味なことを考えてしまう。
「気に入ってつけてるわけじゃねーのか……」
カールが物思いにふけっていると、目の前にしゃがんだ大上が首輪に触れた。
カールが慌てて手を振りほどこうとする。
「何をっ!危な……」
ガシャン、と音がして首輪が外れた。
地面に、ごとんと落ちる。
専用の呪具なしで外せるなんて聞いたことがない。
というか絶対にありえない。
無理に外そうとすれば魔素が逆流し気絶するか、最悪死に至る。
はずだった。
それがこんなにも容易く、カールは大上が何をしたのかまったく理解出来なかった。
三年もの間、カールから自由を奪い、尊厳を奪った忌まわしき首輪が、目の前に転がっている。
体が震えた。
涙が溢れ落ちた。
「ふっ、ふぐぅぅ……」
カールは口元を押さえて嗚咽を漏らした。
そんなカールの前で大上は固まっていた。
なんとなく触らせて貰おうかと思ったら、触れた途端バチッと電気が走って、反射的に「イテッ」と力が入った。
そうしたら、首輪が外れて落っこちてしまったのだ。
壊してしまったと思い冷や汗をかいた。
一万くらいでどうにかならねーかな、などと考えていたら、カールが泣きだしてしまった。
大上は慌てて首輪を拾う。
カチカチと触ってみると、壊れてはいないようだった。
嵌めればまた使えるだろう。
ミサンガのように一度外れたら効果がないとかなら取り返しがつかないが、とりあえずもう一回はめ直した。
カチャリ。
ブーンと首輪が光る。
再起動。
大上は冷や汗を拭い満面の笑みを浮かべた。
「わりぃ、わりぃ、ぶっ壊したかと思って焦ったわ」
まさに天国から地獄。
カールは今まで体感したことのない感情の振り幅に卒倒しそうになった。
「また、はめ直すとはなんて残酷な」
「えっ?」
「こんな仕打ち……あの人間どもにもされたことは……ないのです」
「うん?」
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