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あの子の  作者: ヒビ
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19/20

平穏な生活3


かつて好きだと熱っぽく語った薄藍の瞳は、光鈍く、そして地獄の底のように澱んでいた。


かつて愛していると蕩けて語った夜空の瞳は、熟れ落ち、そして煉獄の底のように燻っていた。



ここまで来てようやく綴は身動きした。ドアの前で呆然と立っている朔夜を抱きしめた。生ぬるくて血生臭いぐちょぐちょする服ごと抱きしめると、朔夜はガタガタと震え始めた。撃墜数と殺しは違うと言うほど潔癖な彼をここまで追い詰めたことに申し訳ないとすら思う。そして身を離すと鈍い青に向かって口を開いた。



「…ここまで迎えに来させて悪かった」



震えたまま話せないようだ。こちらを縋るように見つめてくる。目に宿った大粒の涙をそっと拭いてやる。



「朔夜、少しだけ樹と話してもいいか?あの子は、わたしのペットなんだよ。飼い主なんだから、責任はあるだろ」



小さく頷いた彼を見て、次に樹を呼んだ。壁際に寄っていた彼にそっと近づくと樹もまた震えていた。



「綴、様…」


「大丈夫よ、樹」



安心させるように微笑んで抱きしめる。返り血が彼にも移っただろうか、せっかく綺麗なスーツだったから残念だが震えを止めるには幼い頃に樹から学んだこれしか知らないのだ。


ぎゅうっときつくきつく抱きしめた。彼の温まりを忘れられないほど抱きしめたかったが、きっと忘れてしまうだろうなと苦笑した。不審がったのは樹だ。どうしたの、と口を開いたその瞬間、樹は浮遊感を感じた。


落ちる。


一瞬の浮き上がる感覚と同時に気道がぎゅっと締め付けられたような気がした。



「綴!!何して!!!」


「はいはい、落ち着いてね」



開いたままの窓から綴は樹を突き落としたのだ。階下に広がる川に向かって。


計画がっと叫んで慌てて窓へ駆け寄った朔夜だが、目を見開いて驚いた樹を見て微笑んだ綴の姿に何も言えなくなった。綴は窓から目を逸らして朔夜に向き直る。



「ここね、私の母さんに宛てた地獄だったの」


「…そんなことより、死体!死体を探さないと、死体がないと、綴が…」


「死にたいと思った時、一つしか道はなかった、ここから飛び降りて、川へ飛び込むこと」



慌てふためく朔夜の手を握りしめた。終わりのカウントダウンは近づいてきている。


そう、いくつもある京紡の闇の歴史、比較的新しい1ページに綴の母はいた。彼女はやがて耐えきれなくなった。この永遠の安寧が。生ぬるくて優しい、煉獄が。


だから何度も何度も自殺を試みようとしたが、死ねなかった。徹底的な監視下で、中のものを傷つけないように整備された小屋で死ぬのは容易ではなかった。ある日、監視役が川へ足を滑らせる日まで。


その日は雨だった。濁流は容易に監視役を飲み込み、下流へと凄まじい勢いで押し流した。人情があったのか年老いた監視役に何か情でも湧いていたのか母は必死で窓から吊り下がり、監視へと手を伸ばした。そして手が触れる直前で、共に濁流へ飲み込まれた。


救いを求めて、死を求めて川へ飛び込んだ時、下流には京紡が管理する小さなダムがあった。そこで拾われるのだ、生きたまま。幼く、残酷だった綴は、母が心から悔いて、悔やんで、苦しんで、苦しみ抜いて死を選んだ時ようやく許そうと思っていたのだ。ごめんなさいなんて陳腐な言葉すら必要なかった、彼女には許しを与えて好きなように生きていける手筈を整える予定だったのだ。


人を救おうと濁流に飛び込まなければ。


小さなダムはあっという間に大雨の影響で処理能力を超えた水量でパンクし、濁流は濁流のまま貯水された。平時であれば生きたまま水揚げされるはずの母は濁流の中パンパンに腫れ上がった体で死んだ。綴によく似た美しかったあの顔も、こちらを見つめることはなかったあの大きな瞳も、使用人たちからよく褒められていた抜群のスタイルも永遠に失われた。身につけていた結婚指輪でようやく京紡夫人だと認識できたくらいだ。


そして同時に綴はもう2度と母を許すことができなかった。


だから、この水量であれば、雨が霧雨レベルであればと賭けられたのだ。樹の人生を。


流されていく樹の姿はもう見えない。しかし、綴には彼の姿がはっきりと見えていた。その背に向かって祈るように呟いた。



「生きろ、そして忘れろ」



その言葉はペットに向けるにはあまりにも情が込められており、恋人に向けるにはあまりにも尊大。だが、綴は気にしなかった。





「行きましょうか、朔夜。待たせたわ」


「は、どこに…」


「ふふ、いやね、軍よ」


「お前、…捕まるぞ」


「…もう覚悟はできてるわよ。それにね、お迎えが」



そこまで話してまたドアがノックされた。朔夜はビクンと怯えたように綴とドアを交互に見つめた。その様子に少しだけ苦笑して、綴はドアを開いた。そこにいたのは。



「…あぁ、お待ちしてましたわ」



雨宮少将




かつて共に戦乱を駆け抜けて、共に家に苦しんだ年上の同志は苦悩に満ちた顔でこちらを見つめていた。返り血に塗れた朔夜と綴を見て、そして足元に崩れ落ちている市民を見て、より一層眉を顰めた。朔夜に向かって鋭い一瞥を寄越す。



「…お前、まさか」


「いえ、私が殺したんです。追手だと思って。さ、行きましょ」


「…流は?」


「あら、私の裁判でしょう?」


「…そうだが」



軽く微笑んで雨宮の手を掴む。エスコートでも頼むように柔らかく触れた綴の手は温かかった。ぴくりと震えたのは雨宮だ。何か懇願でもするようにこちらを見つめていた。



「…もう、戻れないんだぞ、ここにいればまだ、俺が隠し通せる」


「まぁ、おかしなことを言うんですね、叔父様。あなたがここにいる、それはつまり軍本隊がここを疑ってるんでしょう?いくら緩衝地帯であり、非武装地域であっても、人一人くらい見つけて連れ出すのなんて単純なことですわ。それに私は両国の緊張を高めた罪人、それならば協力して捜索したっていい」


「…そうだが、でも、この小屋は……」


「母の思い出の地なんです。汚されるわけには行きませんわ」



元々ここは地盤が緩い。窓の外がすぐ川という時点でお察しだ。どうせしばらく経てば川に侵食されて跡形もなく流されるだろう。むしろここまで持ったことが驚きなくらいだ。またいつかの豪雨の日に流されてもおかしくはないし。


美しく微笑みながらそう言うと、朔夜は震えながら膝をついた。不必要な犠牲だ、どうにかして掬い上げたいのに何もできることがない、どうしたらいいのかここ最近の寝不足と疲労の溜まった頭でぼんやりと考える。焦るほど相反するように綴は神々しくなるばかりだ。美しい紫は今や透き通るアメジストのようであった。一粒たりとも涙は見せなかったな、と終わりを見極めたような感想が出たことに朔夜が自己嫌悪した。


なんとかしてくれ、誰か助けてくれ、縋るように雨宮を見るが雨宮も絶望したように顔を土色に染めて俯いていた。軽やかな春の風のように薄く笑うと綴は強引に雨宮を引っ張り、朔夜を立たせて表に停まっていた軍用車に乗り込んだ。手慣れた様子でダイヤルを回して管理官に通信する。



「…こちら、コントロールセンター」


「おつかれさまです」


「その声、は」


「えぇ、京紡です。今から戻ります」


「…そんなっ、馬鹿な」



涙声で話された内容に驚く。戻るなと懇願するような響きだ。何度か差し入れに行ったことのある管理棟は生真面目で実直な者たちが多く、寝る間も惜しんで働く様子は好ましく綴はよく褒めていたことを思い出した。仲間とまでは言わないものの、それなりに親しみは感じていたらしい。


右頬にうっすらと笑みを浮かべて綴は口を開いた。



「ご心配なさらず。雨宮少将が見つけてくれましたから」


「そうです…か、お気をつけて」


「えぇ」



グッタリとした様子の雨宮に驚いて運転を代わる。後ろで朔夜は暴れている。どうにかして逃がそうとしているらしい。やれやれ、なぜ追われてる側が運転し、追っていた側が逃げたいと頼むのか。


格好のつかない配役ねと苦笑しながらも車を走らせた。隣と後ろからの喚き声には気づかないふりをして。




表門から堂々と車を乗り入れると、憲兵が二十人ほど勢いよく出てきて車を取り囲んだ。締め上げるようにして外に連れ出されると、目の前に田中中将がいた。目のクマがひどく、それを見ただけでどこか胸が空くような気がした。



「…どの面下げて戻ってきた」


「ふふ、この面ですわ。近くでご覧に入れましょう」


「は、結構だ。おい、そのまま連れて行け。軍法会議は君の議題で終わりだ」


「お待たせしたようで申し訳ないですわね」



くすくすと笑う綴はこんな状況下で尚美しかった。より華奢になった肩から、腰のラインから、細く長い指先からこちらが慄くほどの色気が滲んでいた。陽の光をほとんど浴びず、透けるように白くなった肌は生き物のようですらなかった。瞳は雨上がりのつきりと刺さる光を吸収して穏やかに笑んでいた。


憲兵たちも魅入られて、荒々しく掴み損ねてしまった。春の風、美しい凪、遠くで柔らかく光る月夜、そんな表現しかしようのないほど綴は美しく微笑んだ。そして、憲兵の一人にエスコートされるように堂々と帝国軍へ足を踏み入れたのだ。誰も、彼女が罪人だとは思えないほど優雅な足取りだった。




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