平穏な生活2
ゆっくりウイスキーを飲んで、美しい川の煌めきを見つめて、そしてまたとつとつと話す。ここは中の人に時間を感じさせないように日付や時間を知らせる物は一切置いていなかった。
夜の暗闇から時間を測ることは不可能だ。綴は諦めてそっと微笑んだ。樹もまた嬉しそうに微笑んだ。
「綴様、この後はどうします?僕はずっとここでもいいんですけれど、やはりいつかは誰か追手が来ます」
「そうね……」
眼差しには甘さが宿っていた。甘く柔らかい、そして永遠の安寧、それを彼の瞳からは感じていた。綴は少しばかり逡巡したが、諦めたように、どこか期待したように口を開いた。
「京紡に戻りたいって言ったら?」
「それは…」
「……なんでもない、無理なのはわかってるもの。名前を変えて全て移しましょう、新しい国にでも行って」
「そうです、それがいいと思います」
楽しそうに樹は手を叩いた。そうして仲良くベッドに入り、お互いの心臓の音を聞きながら眠りにつくのだ。
そんな毎日を三十回、四十回は繰り返しただろうか、綴には悟らせないように樹は慎重に行動に移していたらしい。徐々に部屋の中のものが減っていると感じたその日の朝に、引っ越すことになったと告げられた。穏やかだが、雨が降っていた。霧雨のような暖かく、生ぬるい雨が。
「…どこに?私たちに行くべきところなんてないじゃない……」
「新大陸ですよ。一攫千金を掴みたいわけではないのですが、綴様と逃げ延びるならば…あそこしかありません」
「新、大陸…」
「えぇ、入植者の国、人種の坩堝、色々な呼び方はありますが」
「そうね…」
「気に入りませんか?」
「いいえ、逃げるにはそこしかないわ」
「もう少ししたら車が来ますから」
「…誰が持ってくるの?」
「何も知らない一般市民の白タクですよ。僕たちのことは駆け落ちしたカップルと思わせてます」
「そう」
ギラリと鈍い光を目に宿らせた樹の様子を見るに、港まで届けた後にその市民とやらは殺すのだろうとなんとなく察しがついたが黙って微笑んだ。左手で右手の親指に嵌めた指輪を撫でる。親指に嵌めた指輪、それだけが綴の存在意義だった。
「綴様、新大陸に入ったら…なんですけれど」
「えぇ、何かしら」
「ここまで一人で頑張った僕にご褒美くれませんか?」
見つめていた指輪から目を上げると、どこか緊張したようにこちらを見下ろす樹が映る。おいでと手を伸ばすと縋るようにソファに座る綴の目の前に跪いた。暖かい瞳がこちらをじいっと見ている。どこにも逃げ場のないように、じいっと監視するように愛でるように見ている。
「…いいわ、なんでもあげるわよ」
パッと彼の顔が明るくなった。頬は紅潮し、瞳はキラキラと輝いている。おやつを前にした犬のようで本当に笑みが溢れてくる。
「僕、もう永遠にあなたと離れたくないんです。絆とかそんなあやふやなものじゃなくて、その、物質的に、社会的になんですけれど…」
「まどろっこしいわね、結婚しましょうでいいじゃないの」
「…ぁ、そ、そうです。綴様、結婚を」
「ふふ、いいわよ」
そう呟くと、ぽろりと樹の目から涙が溢れた。一つ、二つと溢れていく。黒曜石から生み出されるのは玉のような雫の涙で、少しばかり見惚れた。
雨の音に混じって、誰かの足音が聞こえた。
足音に反応した樹は涙を拭きながら照れくさそうに立ち上がった。白タクの運転手だと疑ってないらしい、扉を開けようとしたその一瞬、綴は何か胸騒ぎがした。隠れようとしたが、一足遅く、開き放たれた扉をただ見つめた。白タクの一般市民であることを祈って、しかし、祈りは届かなかった。
暖かな雨と返り血に濡れた朔夜が立っていた。
その腕に抱かれているのは、樹が待ち侘びていた一般市民だったに違いない。胸元から止めもなく血を流し、体を二つ折りにされて朔夜の右腕に抱かれている。明らかに生きている気配はない。笑みを浮かべていた樹の顔が一瞬で青ざめた。
綴は鋭く彼を呼んで後ろに庇って、朔夜と対峙する。おかしい。彼の目はこんなに澱んだ青だっただろうか、こんなに何もかもを捨てたような敗れ被れな雰囲気だったろうか。朔夜に初めて綴は恐怖した。
「…綴か?」
「あぁ…朔夜」
「探したぞ、お前」
「すまない、連絡の取りようがなかったんだよ」
「……そいつが手引きしたのか?お前が庇ってる、そいつが」
「まぁな、樹だよ。生きてたんだ、朔夜は信じなかったけれど」
「…は、はは、嫌な予感したんだよな。お前の話聞いて、生きているって信じたお前の話を聞いて。だって、お前が間違った考えを言ったことなんて一度たりともなかったから、……生きてるって知ってたぜ」
壊れたように口を開いて笑い声を出す朔夜はやはりどこかおかしい。笑い声というボタンを押されたおもちゃがそんな声を出しているだけのように見える。綴はできる限り刺激しないようにと気を引き締めた。
「そうか…。あの時は信じてくれないと責めて悪かったな」
「謝るなよ…お前が、お前が俺に謝ることなんて一度もなかっただろ」
「…すまない」
「…もういい、帰るぞ」
「帰れないんだよ、朔夜。私は、私たちは国を追われてる」
「あぁ、知ってる。だから、こいつを殺したんだ」
「…どう言う意味だ」
重かったと朔夜の腕から下ろされた運転手を見てゾッと背筋が凍った。顔がズタズタに切り裂かれていたのだ。執拗にどころか狂気さえ感じるほどのズタズタ具合だった。髪も乱雑に切られており、一眼では男か女か、人間かそうではないのかさえわからないだろう。
「…はは、お前らの風習が役に立ったぜ。顔が誰にも知られてねえんだもんな、こうすれば誰も気づくわけない。それに、京紡なんて名家の跡取りが娘なんておかしいだろ、普通男の嫡男だろ」
「そうだな、普通は。ただ軍は騙されないぞ。私と言う記憶がある者がどれほどいることか」
「いや、騙される」
朔夜は断言した。コーンフラワーだった彼の瞳は今や青錆色に変化していた。すうっと穏やかな表情で銃を取り出したのを見つめる。
「お前は和平のためのスケープゴートだ。京紡綴という何某かが死ねば軍は満足なんだよ、別に本人である必要なんかない。そんなこと、軍でお前に一度でも関わった人間はみんな分かってた。つまり、お前と名乗るこの死体と、もう一人、お前を連れ去った人間さえ死ねばいいんだ」
そこでようやく腑に落ちた。初めから余計なことをしなければよかったのだ。
スパイがいると語った瞬間の雨宮の青ざめた表情、田中中将に呼び出された時の違和感、あれに気づくべきだったのだ。上層部の狙いと隣国の取引があったと考えた上で動くべきだった。いくつもの反省が頭をよぎるが、朔夜の挙動で中断された。
あまりにも自然に取り出されたその銃の照準はぴったりと樹だった。私ということにした市民と樹を共に殺して差し出すことで、綴の安全と国の安全を引き換えにするらしい。
ハッハッと浅い息が漏れた。雨は止み始めていた。




