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あの子の  作者: ヒビ
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17/20

平穏な生活


朝が来た。


カツカツカツ、と規則正しく足音が聞こえて、扉が控えめにノックされた。足音が聞こえた段階で目を覚まして身を起こした綴は一つため息を吐いた。



「…どうぞ」


「おはようございます、綴様」


「あぁ、おはよう」



6時だというのにもうスーツを着た樹が入ってきた。いそいそとカーテンを開けて採光すると朝の身支度を手伝おうとしてきた。ベッドから降りるのも抱き上げてくる。あまりの過保護っぷりに呆れるばかりだ。



「…本日は?」


「スーツで」


「はい、御髪はどうなさいますか?」


「…何度も言うが、樹、そのような真似はやめろ。お前をメイドだと思ったことはない」


「そうですけれど…でも、手伝いたいんです」


「はぁ……ご飯は食べたか?」


「まだです、本日は焼き魚です」


「そうか、わざわざありがとう」


「いえ、そんな…お礼なんて」



寝巻きを脱ぐ姿を、じいっと樹は見つめている。初めは恥ずかしいからやめろと言ったが、目を離した隙にいなくなると本気で思っているらしくて、どんなに言ってもやめなかった。そのうち呆れて好きにさせているが、居心地が悪いことこの上なかった。


シャツを着て、パンツを履いて、ジャケットを羽織ってとりあえず落ち着いた。髪の毛はいつも通り適当に樹がシニヨンにまとめてくれた。顔を洗って、スキンケアをして、軽くメイクをすると朝食の時間になった。いつもは運動しているが、さすがに隠棲生活なので人目につかないように外をランニングなどは止めている。


これまた同じテーブルに就きたがらない樹を言いくるめて同じ卓で暖かい朝食を摂る。窓からは穏やかな川が見える。サラサラと流れる水を見つめていると、外の世界の喧騒が嘘のようだった。



「…本日はどうなさいますか?」


「寝て寝て眠る、そして本でも読むか」


「いいですね」



片付けも食後のコーヒーもすべて樹がやってくれた。どこまでも尽くすことに重きを置いていて、少しでも手伝おうとすると抱き上げられてソファに座らされる。



「これでも軍時代は一人で生活していたのだが」


「…これは僕のわがままです。綴様の世話をするのは誰にも譲りません」


「だから、お前はわたしのペットであって、メイドではないのだがな…」


「ペットシッターということで」


「…意味違うだろ」


「ふふ」



軽やかに笑いながら川を見つめて眠気が来ないか試してみる。思い残すのはやり残した仕事と京紡のこと、そして朔夜のことだった。


斜め前のソファに腰掛けた樹はこちらを窺うように見つめていた。



「…何か考えていました?」


「あぁ、残してきたことを」


「…京紡については心配しないでください。非常事態の暗号して来ましたから」


「それじゃあ、財は」


「えぇ、海を渡って第三国の銀行に眠っています。京紡ブランドの企業は少し立ち回りに困るでしょうが、取締役たちがうまくやってくれます。ほら、株も変動ないでしょう?」


「そうだな、ありがとう」


「お、お礼なんて言わないでくださいよ」



照れくさそうに手をパタパタと靡かせてから、照れ隠しにコーヒーを一口飲んだ樹はそれでも気づいていた。鬱っぽい表情をした綴が本当に気にしているのは家のことだけでなく、残してきた男、朔夜のことだろうと。



「気になりますか?」


「家は気になるね、分家を粗方片付けて来といてよかったよ」


「そうではなくて……流朔夜のこと」



ハッと息を呑んだ音がした。綴は思わず口元を手のひらで塞いだ、その様子を見て樹は少し歪に微笑んだ。



「聞きたいですか?」



少しの間川を見つめて、それから綴はゆっくりと首を振った。樹はホッと安心して、綴を抱き上げた。くるりと回すと自分の膝の上に乗せた。ここへ来てからさらに食事量の減った綴は驚くほど軽かった。



「…いいえ、平気よ。もう会うことはないでしょ」


「ふふ、そうですね」



軽やかに歌うように肯定されたその言葉に綴はそっと微笑んだ。柔らかな甘い日々だった。この土地は元々母への嫌がらせの土地だ。


何も中にいる者を傷つける物はない。鋭利な刃物も、首をかける縄も、縄をかける梁も、頭を打ちつける重たい物も、飛び降りれるような2階も、ここには何もない。綴自身が作った煉獄だ、中にいる者は何からも傷つけられない。それでもなぜか叫びながら窓を飛び降りて走り出したくなる。叫びながら自分自身を自傷して、そして川へ身を投げたくなるのだ。


綴はとうとう一人ですべてを見通してしまった。











夜はいつもシャンパンかウイスキーを揺らしながら樹と話すのだ。酔っているからか距離は近づく。樹は常に斜め前のソファに座るのだが、この時間だけは促すと隣に座ってくれる。綴はそっと彼の肩に凭れてどうでもいいことを呟くのが好きだった。



「…それで、その時読んだ本がですね」


「あぁ、夜と霧か」


「そうです…!内容を呟いただけでよく分かりましたね」


「夜と霧は内容が単調だからな、大体わかる」


「お好きでした?」


「…いや、特には」


「ふふ、綴様は白樺派がお好きでしたからね」


「よく覚えてるな」


「もちろんですよ」


「あの頃、お前はよく寝てたのにな。お前が寝てから私は読書をしていたんだが」


「そりゃ、翌朝何読んでたか確認していましたもん。そして暇があれば自分も同じもの読んでました」


「そうか、それでよく読みかけの本がなくなっていたのだな」


「ふふ、その通りです」


「全く…手癖の悪い犬だこと」



目を眇めて楽しそうに話す姿をぼんやりと眺める。大きな瞳、長いまつ毛、白い肌、男にしては妙に艶かしい赤い唇、頬が赤くなっているのを見るといつもより酔っているらしい。そして同じくいつもよりほんの少しだけ酔った綴は口を開いた。



「なぁ、答え合わせをしようか」



その言葉にビクッと怯えたように樹はこちらを見下ろした。いつか言われると感じていたらしい。


そのびくつきかたは初めて会った頃を思い出して笑いが込み上げる。安心させるようにゆっくりと頬を撫でた。つるりとした肌は象牙のようだった。



「…綴様、どうしても、ですか?」


「あぁ、そろそろ頃合いだろ」


「…分かりました」


「まずは、樹、お前が全ての黒幕だな?」



そう聞くと、はいと諦めたように樹は頷いた。がっかりとでも言いたげな認めかただった。



「初めから話せ」


「わかりました…あの時瀕死だった僕を雨宮叔父さんは殺そうとしました」



やはり、生きていたのだ、あの時。自分の勘が正しかったことを考えると雨宮の様子は明らかにおかしかった。綴が依存していた樹という存在を消すことで何にも囚われず、ただ京紡のためだけに生きるようにプログラミングした気でいたのだ。


雨宮に失望することはないが、大凡の予感は当たっていたのだとすると今となっては彼の知らないふりという臭い演技も馬鹿らしい。ため息のような吐息が漏れた。



「そう」


「しかし、運がいいことに連れて行かれた先はこの森の中でした。南雲は滅ぼされて僕は戸籍を失っていましたから、死んでも身元は確認できません。ですから、自分の手を汚すまでもないと考えたのでしょうね……京紡本家ならば絶対にしない甘い考えです。雨宮叔父さんはそう言った意味でも本家の血ではなかった」


「その通りね、私や祖父だったら確実に自分の手を使って殺して、寧ろ自分の手で死亡診断書を書くわ」


「ふふ、そうしてこの森の中で放置されたのですが、またしても運の良いことに隣国の視察団がいたのです。瀕死の僕はもちろん抵抗することなく捕虜となり、隣国で新しい戸籍を授かりました」


「そうだったの、あなたは隣国の人ね」


「そうです。ただやはり助けてもらった恩があったので入隊して軍人として働いていました。前線で、井上という補給兵と知り合うまでは」



やはり、井上と樹は前線で交錯していたのかと納得した。不思議な運命なものだなと感心すらする。


ゆっくりとウイスキーを揺らして口に含む。この上なく甘いように感じた。



「そして、彼を一度捕まえました。捕虜とするか上司に話そうとした時、彼はあなたへの恨みを盛大に吐き散らしました」


「…わたしの?」


「えぇ、拷問もしてないのに、こんなはずじゃなかったと魘されるように言うあいつにどれほど殺意が湧いたか…綴様に見出されておいて、そして自分自身の覚悟で志願したくせによっぽどアホらしいと何度殺すか迷いましたよ」



本当に、とガクガク震える手でシャンパンを煽る姿は幼い子供のようだ。その手からグラスを取り上げると不服そうに樹はこちらを見下ろした。



「そして、上司と相談してスパイに仕立て上げたのですよ。あなたは、綴様は…泰平の世では輝けないから」


「…どういう意味?」


「あなたは平和になったら絶望してしまうと思ったんです。あなたはただの人間にはどうあがいてもなれない、人々を破滅へと導く悪魔ですから。あなたは暖かな光の中では生きられない、筒がない日々を生きようとすると窒息してしまうから」


「はは、散々な評価だな」


「事実でしょう?あなたは暖かな家庭を知らない、愛して愛されることを知らない。平和になった世の中で求められるのは恋に落ちて暖かい家庭を作る女か、安寧を享受してそれを守る努力を行う男だ。あなたはそんな市民になれない、なるように作られていないから」


「概ね同意するよ」


「だから、あなたのために地獄を創り出すことにしたんです」



声のトーンが変わった。


手に持っていたシャンパングラスを綴から取り返すと樹はぐいっと飲み干した。その暖かい黒い瞳は遠くを見ていた。



「綴様ならこの隣国とのおかしな戦争も操ると思っていました。本当は僕もあなたと合流して協力して隣国を蹴散らすつもりでした。あなたの忠実な僕として。しかし少しばかり予定は崩されて、綴様も私もどちらも国を追われることになりましたが、今こうして闇の中にいると安心するんです」



サイドテーブルにグラスを置くと、樹は綴を抱き寄せた。ぬいぐるみのような扱いに綴はそっと嫌がるが気にせず抱きしめた。



「綴様、流朔夜との平穏な日々はどうでしたか?」



そっと祈るような声で尋ねられた。綴は言いたいことをほとんど全て噛み殺して、小さな声で呟いた。



「楽しかったよ…ただ、私にとっては地獄だった」



それはまごうことなき本音だったが、本心ではなかった。



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