第七話 天使
「……兄様」
◇
白い世界だった。
空も。
大地も。
境界すら存在しない。
ただ、
どこまでも白い光が満ちている。
その中に。
巨大な神殿が建っていた。
人間の建築物とは、
何もかもが違う。
天井は見えない。
左右に並ぶ柱も、
どこまで続いているのか分からない。
壁という概念すら曖昧で、
神殿の向こうには白い雲海が広がっている。
静寂。
その中央。
巨大な円形の広間に、
四人の天使がいた。
彼らの前には、
一枚の光景が浮かんでいる。
映っているのは、
東京。
そして。
白い光を長剣で斬り裂いた男。
神城流架。
否。
この場所で、
その名を知る者はいない。
天界に存在する者たちが知る、
彼の名は一つだけ。
ルシファー。
「……兄様」
もう一度。
一人の天使が、
同じ言葉を口にした。
ラファエル。
生命と癒しを担う天使。
そして。
かつて、
ルシファーを兄のように慕っていた者。
光景の中では、
戦いが続いている。
ルシファーが消える。
天兵の背後へ現れる。
一閃。
光の障壁が砕け、
白い翼が地上へ落ちる。
ラファエルは、
その姿から目を離さなかった。
「変わっていませんね」
小さな声だった。
「何がだ」
低い声が返ってくる。
ラファエルの隣。
一人の天使が立っていた。
他の三人とは、
纏う空気そのものが違う。
ミカエル。
天界の軍勢を率いる者。
その視線もまた、
光景の中のルシファーへ向いている。
「戦い方です」
ラファエルが答えた。
「昔と同じです」
「そうだな」
ミカエルは否定しなかった。
消える。
現れる。
斬る。
また消える。
乱暴なように見えて、
無駄がない。
敵の攻撃を避けているのではない。
最初から、
攻撃される場所にいない。
「相変わらず」
ミカエルが呟いた。
「面倒な戦い方をする」
その声に、
怒りはなかった。
ただ。
かつて幾度となく見たものを、
確認するような口調だった。
◇
光景が切り替わる。
長槍を手にする女。
敵が動くより先に、
槍を構える。
そこへ、
天兵が飛び込んでいく。
「シェムハザ」
別の天使が名を呼んだ。
ガブリエル。
神の言葉を伝える天使。
その瞳は、
映し出された戦場を冷静に観察していた。
「未来視も健在です」
「あの程度ならな」
ミカエルが答える。
さらに。
光景が変わる。
次々と武器を切り替え、
天兵を蹂躙する男。
「アザゼル」
今度は、
ミカエルが名前を呼んだ。
剣。
弓。
斧。
槍。
盾。
武器が、
次々と変わっていく。
「兵装生成も確認」
ガブリエルが言う。
「堕天した身とは思えない動きですね」
「力と技量は別だ」
ミカエルが答えた。
何千年。
天を追われ、
地上で生きた。
その時間が、
失わせたものもある。
だが。
戦い方までは、
失われていなかった。
三人の動きには、
迷いがない。
互いを見る必要すらない。
シェムハザが未来を見る。
アザゼルが道を作る。
ルシファーが、
最も危険な場所へ飛び込む。
言葉すら、
ほとんど必要としていない。
「随分と」
ガブリエルが呟いた。
「人間らしい戦い方になりました」
ミカエルが、
僅かに視線を動かす。
「人間らしい?」
「互いに補っています」
ガブリエルが答える。
「かつての彼らなら」
一拍。
「己の力だけで突破していたでしょう」
「…………」
ミカエルは、
何も答えなかった。
◇
光景の中。
巨大な神獣が現れる。
口腔に、
白い光が収束する。
放たれた。
そして。
ルシファーが、
真正面から斬り裂いた。
ラファエルが、
ほんの僅かに身を乗り出す。
アザゼルの矢が、
神獣の翼を貫いた。
体勢が崩れる。
そこへ、
ルシファー。
転移。
頭上。
長剣。
一閃。
神獣が、
地上へ落下した。
光景が止まる。
広間に、
静寂が訪れた。
やがて。
ガブリエルが口を開く。
「追撃部隊を送りますか」
「必要ない」
即答だった。
ミカエル。
ガブリエルが彼を見る。
「しかし」
「無意味だ」
ミカエルは、
倒れた神獣を見る。
「天兵を追加して何になる」
「…………」
「神獣を十体送るか?」
誰も答えない。
「二十体?」
沈黙。
「結果は変わらん」
ミカエルが断言する。
「奴らは確かに」
光景の中。
ルシファーが長剣を消す。
「かつての力を失った」
シェムハザ。
アザゼル。
かつて、
天界に存在した頃とは違う。
翼を失い。
天より与えられた力の多くを失い。
人間の世界へ堕ちた者たち。
「だが」
ミカエルの瞳が、
僅かに細くなる。
「弱くなったとは」
一拍。
「誰も言っていない」
ガブリエルが黙る。
映像の中には、
三人が立っている。
たった三人。
それだけで。
天兵たちを殲滅し、
神獣まで地へ落とした。
「天兵や神獣を何体追加したところで」
ミカエルが言った。
「失う兵が増えるだけだ」
「では」
ガブリエルが問う。
「日本への侵攻は?」
「一度停止する」
「神の御意志は、人類の統治です」
「分かっている」
ミカエルは、
ガブリエルを見る。
「だからこそだ」
低く。
静かな声。
「戦力を無駄に捨てることと」
「神命を果たすことは違う」
ガブリエルは、
それ以上反論しなかった。
「次に日本へ兵を送るなら」
ミカエルが続ける。
「奴らを排除できる戦力を送る」
天兵ではない。
神獣でもない。
その言葉が意味するものを、
そこにいた全員が理解していた。
◇
「……コカビエルは?」
それまで。
一言も発していなかった天使が口を開いた。
サリエル。
監視と追跡を担う者。
視線は、
映像の中の誰にも向けられていない。
「確認されていない」
ミカエルが答える。
「アルマロスとペヌエムもです」
ガブリエルが補足する。
だが。
サリエルは、
その二人の名前には何の反応も示さなかった。
「そうか」
それだけだった。
ラファエルが、
僅かにサリエルを見る。
「気になりますか?」
「何がだ」
「コカビエルです」
サリエルの視線が、
ゆっくりラファエルへ向く。
「確認しただけだ」
「そうですか」
「ラファエル」
「はい」
「余計な詮索はするな」
ラファエルは、
それ以上聞かなかった。
サリエルも、
再び光景へ視線を戻す。
だが。
そこに映っていない一人を、
確かに探していた。
◇
東京上空。
ヘブンズゲートが閉じ始める。
扉の向こう。
地上との繋がりが、
少しずつ細くなっていく。
ラファエルは、
ただ黙って見ていた。
最後まで。
ルシファーの姿を。
「ラファエル」
ミカエルが呼ぶ。
「はい」
「その呼び方はやめろ」
ラファエルは、
ミカエルを見る。
「何のことです?」
「分かっているはずだ」
ミカエルの視線が、
閉じかけた門へ向く。
「ルシファーは」
一拍。
「もう天の者ではない」
「…………」
「神に背いた」
「はい」
「今は」
ミカエルが言う。
「敵だ」
ラファエルは、
しばらく答えなかった。
ヘブンズゲートが、
閉じていく。
細くなっていく光の向こう。
まだ、
ルシファーが見える。
「分かっています」
ラファエルが言った。
「なら」
「でも」
ミカエルの言葉を、
ラファエルが遮る。
「私にとっては」
その声は、
とても静かだった。
「今も兄様です」
ミカエルは、
何も答えない。
「神に背いたことも」
「天を追われたことも」
「人間を選んだことも」
ラファエルは、
すべて知っている。
それでも。
「兄様が」
閉ざされていく門を見る。
「何の理由もなく、神に背くとは思えません」
「理由なら分かっている」
「いいえ」
ラファエルは首を振った。
「私たちは」
僅かに言葉を止める。
「兄様から聞いていません」
ミカエルの表情は変わらない。
「必要ない」
「ミカエル」
「理由が何であれ」
ミカエルが言う。
「神に刃を向けた」
その事実だけは、
変わらない。
「そして今度は」
人類側へ立った。
「我々の敵になった」
「…………」
ラファエルは、
それ以上何も言わなかった。
◇
やがて。
東京へ繋がっていた門が、
完全に閉ざされた。
光が消える。
地上の映像も、
同時に途切れた。
「ガブリエル」
「はい」
「神へ報告を」
「どのように?」
ミカエルは、
光の消えた場所を見る。
「ルシファーを確認」
「シェムハザ、アザゼルも同様」
一拍。
「三名は」
ミカエルの声が、
白い神殿へ響く。
「人類側へ立った」
「承知しました」
ガブリエルが去っていく。
サリエルも、
無言のまま背を向けた。
ラファエルだけが、
その場に残っている。
やがて。
ラファエルも歩き始めた。
ミカエルとすれ違う瞬間。
「ミカエル」
「何だ」
「もし」
ラファエルが足を止める。
「兄様と戦うことになったら」
「…………」
「あなたが戦うのですか?」
ミカエルは、
すぐには答えなかった。
長い沈黙。
やがて。
「いずれ」
静かに答える。
「そうなるだろう」
「そうですか」
ラファエルは、
それ以上聞かなかった。
足音が遠ざかっていく。
一人。
広間に残ったミカエルは、
映像の消えた空間を見つめていた。
「人間を選んだか」
独り言。
「ルシファー」
遥か昔。
同じ天の下で、
何度も剣を交えた男。
背中を預けたことも、
一度や二度ではない。
そして今。
その男は、
神に刃を向けようとしている。
ミカエルは、
静かに目を閉じた。
「なら」
再び目を開く。
「次に会う時は」
そこに迷いはなかった。
「敵だな」
白い天界に。
その言葉だけが、
静かに残った。




