第五話 見張りの天使
「ルシファー、か」
アレクがグラスを揺らしながら呟いた。
「本当に久しぶりに聞いたな、その名前」
「だから呼ぶなって」
神城流架は露骨に顔をしかめた。
「流架でいい」
「神からもらった名前だから嫌なの?」
ペネロペが聞く。
「……まあ、そんなところだ」
「随分と罰当たりね」
「今さら俺にそれ言う?」
「確かに」
あっさり納得される。
流架はため息をついた。
ルシファー。
それは、人間として生き始めてから名乗った名前ではない。
遥か昔。
まだ流架が天にいた頃。
神より与えられた名だった。
シェイラだけは笑わなかった。
静かに流架を見ている。
「……結局」
シェイラが口を開いた。
「あの時と、同じなのね」
流架の表情が僅かに変わる。
「あの時?」
ペネロペが聞く。
シェイラは窓の外を見る。
東京の空。
そこには今も、
ヘブンズゲートが浮かんでいる。
「人間を巡って」
小さく息を吐く。
「また、神と争う」
誰も答えなかった。
何千年も前。
彼らがまだ、
地上で人間として暮らしていなかった頃。
すべての始まりとなった出来事があった。
◇
それは、
人間がまだ今ほど多くのものを持っていなかった時代。
都市と呼べるものさえ、
世界に僅かしか存在しなかった頃。
神は、
人間を見ていた。
自らが生み出した存在が、
何を考え。
何を選び。
どこへ向かっていくのか。
だが。
神自身が常に地上へ降りることはなかった。
代わりに、
天より使者を送った。
彼らへ与えられた役割は、
ただ一つ。
――見ること。
人間へ干渉してはならない。
助けてはならない。
知識を与えてはならない。
選択を変えてはならない。
ただ観察し。
記録し。
天へ報告する。
それが、
《見張りの天使》だった。
◇
「また争っています」
一人の天使が言った。
遥か眼下。
二つの集落の人間たちが、
石と木の棒を手に争っている。
「原因は?」
「水です」
先頭に立つ天使が聞く。
「昨日は?」
「食料でした」
「その前は?」
「土地です」
「…………」
先頭に立つ天使が、
小さく息を吐いた。
「忙しい生き物ですね」
「それも報告しますか?」
仲間の天使が尋ねる。
「もちろんです」
淡々と答える。
見たものを、
見たまま報告する。
それが役目なのだから。
彼女の名は、
シェムハザ。
見張りの天使たちを率いる者だった。
現代。
人間の世界で彼女は、
シェイラ・ハザウェイと名乗っている。
だが。
その頃はまだ、
そんな名前を持っていなかった。
「シェムハザ」
別の天使が彼女を呼んだ。
「何です?」
「あれは?」
仲間が指差した先。
一人の人間が倒れていた。
まだ幼い。
子供だった。
身体は痩せ細り、
数日前からほとんど何も口にしていない。
「飢えています」
仲間の天使が言った。
「分かっています」
「このままでは死にます」
「……分かっています」
何も難しいことではなかった。
彼らなら助けられる。
食料を与えることも。
水を与えることも。
この子供一人を救う程度なら、
造作もない。
だが。
命令は明確だった。
見るだけ。
「行きましょう」
仲間の天使が言った。
「報告は済みました」
天使たちが去ろうとする。
だが。
シェムハザだけが動かなかった。
「シェムハザ?」
仲間の天使が呼びかける。
返事はない。
「どうしました?」
シェムハザは、
地上に倒れている子供を見つめていた。
しばらくして、
静かに口を開く。
「一つ、聞いてもいいですか?」
「何を?」
仲間の天使が聞き返した。
シェムハザは、
自分の手を見る。
「私たちには、この子を救う力があります」
「あります」
「なのに」
もう一度、
地上の子供へ視線を落とす。
「なぜ、見ているだけなのです?」
仲間の天使は、
少しの間を置いて答えた。
「神の命令だからです」
「…………」
シェムハザは何も言わない。
「シェムハザ?」
「分かっています」
それでも。
彼女は、
その場を動けなかった。
◇
それが最初だった。
何十年。
何百年。
見張りの天使たちは、
人間を見続けた。
人間は醜かった。
争った。
奪った。
騙した。
殺した。
昨日まで仲間だった者同士が、
僅かな食料を巡って争うことさえあった。
だが。
それだけではなかった。
自分の食料を、
見知らぬ子供へ分け与える者がいた。
傷ついた他人を、
背負って歩く者がいた。
自分が死ぬと分かっていても、
家族を守ろうとする者がいた。
泣いた。
笑った。
愛した。
失った。
そして。
何度失敗しても、
また立ち上がった。
いつしか。
彼らは、
人間をただの観測対象として見ることができなくなっていた。
◇
「これなら」
一人の天使が、
金属片を人間へ見せる。
「もっと強くできます」
人間たちは理解できない顔をしている。
「火の温度が足りないんだ」
天使は、
自分で作った刃を地面へ突き立てる。
「もっと熱くしろ」
シェムハザが後ろから見ていた。
「アザゼル」
「あ?」
「何をしているのです?」
「見りゃ分かるだろ」
「分かるから聞いています」
アザゼル。
現代では、
アレク・ゼインと名乗る男。
人間に金属の扱いを教えた者。
「こいつら」
アザゼルが人間を見る。
「獣に食われてる」
「知っています」
「なら、武器くらい持たせてもいいだろ」
「禁じられています」
「知ってる」
「では」
「でもよ」
アザゼルは、
出来上がった刃を見る。
「力がねえって理由だけで死ぬのを」
眉を寄せる。
「黙って見てろってのは、性に合わねえ」
シェムハザは何も言えなかった。
なぜなら。
自分も、
同じことを考えていたから。
◇
一度、
境界を越えてしまえば。
後は早かった。
「夜空を見て」
一人の天使が、
人間たちへ星を示した。
「星は、ただ光っているわけではない」
季節。
方角。
時。
天を見れば、
人間は多くのことを知ることができる。
名は、
コカビエル。
現代では、
コレット・ベルナール。
人間と星を見続ける、
天文学者。
◇
「術には規則がある」
別の天使が地面へ記号を描いた。
「規則があるものは、解くことができる」
呪い。
術式。
そして、
その解除。
名は、
アルマロス。
現代では、
アルバート・ロス。
大学で、
人間が残した古代宗教と古代言語を研究している。
◇
「覚えているだけでは駄目」
一人の天使が、
人間の手を取った。
「人は死ぬでしょう?」
人間が頷く。
「あなたが知っていることも、あなたが死ねば失われる」
だから。
「残しなさい」
記号。
文字。
記録。
「あなたが死んでも」
天使は微笑んだ。
「言葉は、次の人へ渡せる」
名は、
ペヌエム。
現代では、
ペネロペ・エマーソン。
何千年経った今も、
人間が言葉を残す仕事のすぐそばで生きている。
◇
知識は、
受け継がれた。
人から人へ。
親から子へ。
師から弟子へ。
そして、
世代から世代へ。
人間の文明は、
速度を上げていった。
当然。
天が、
それに気づかないはずがなかった。
◇
『誰が許した』
声が、
天を震わせた。
見張りの天使たちは、
神の前に並んでいた。
誰も答えない。
『汝らへ命じたのは』
『見ること』
『それだけだった』
神の声には、
怒鳴り声に似た激しさはなかった。
だからこそ、
恐ろしかった。
『人間へ知識を与えることを禁じた』
『人間の選択へ干渉することを禁じた』
『それでも』
『汝らは禁を破った』
「はい」
シェムハザが答えた。
後ろに並ぶ天使たちが彼女を見る。
「私が許可しました」
『責任を負うと?』
「私が彼らの長です」
『傲慢だ』
「そうかもしれません」
『人間は』
神が告げる。
『自ら歩むからこそ意味がある』
『汝らが与えた知識は』
『人が本来自ら到達すべきものだった』
「ですが」
シェムハザが顔を上げる。
「その前に死ぬ者もいます」
『それもまた、人の歩む道だ』
「選ぶことすらできない者もいます」
沈黙。
「生まれた場所を選べない子供が」
シェムハザの脳裏に、
あの日の光景が浮かぶ。
「飢えていました」
『それが汝の理由か』
「はい」
『僅かな命を救うため』
『人の歩む道そのものを変えた』
「見殺しにするよりは」
一瞬。
天界から、
すべての音が消えたように感じられた。
『ならば』
『その選択に対する責を負え』
◇
「待てよ」
声がした。
シェムハザが振り返る。
「……なぜ」
そこにいるはずのない者だった。
いや。
この件に、
関わる理由がない者だった。
「ルシファー」
神の前へ、
一人の天使が歩いてくる。
見張りの天使ではない。
人間を観測する役目を与えられていたわけでもない。
この場で裁かれる理由など、
どこにもなかった。
『汝には関係のないことだ』
「そうだな」
ルシファーは答える。
「俺、見張りじゃねえし」
『ならば去れ』
「でもさ」
シェムハザたちを見る。
「こいつらを地上へ送ったのは親父だろ?」
『…………』
「何十年も何百年も」
ルシファーは続ける。
「人間のすぐそばに置いた」
『それが任務だ』
「ああ」
「人間が泣いてるところも」
「笑ってるところも」
「死ぬところも」
「生まれるところも」
「全部見せた」
そして。
神を見る。
「その上で」
ルシファーは笑った。
「情を持つな?」
『それが天使だ』
「助けるな?」
『それが命令だ』
「…………」
ルシファーは、
盛大にため息をついた。
「だったら」
シェムハザが目を見開く。
アザゼルは、
思わず笑いそうになった。
なぜなら。
その顔を知っていたから。
ルシファーが、
本気で神に呆れた時の顔。
「目玉でも置いとけばよかっただろ」
天界が、
静まり返った。
シェムハザが額を押さえる。
「ルシファー……」
「何?」
「あなた……」
言葉が続かない。
この状況で何を言っているの。
そう言いたいのだろう。
だが。
もう遅かった。
『ルシファー』
天が震えた。
『今の言葉』
『撤回せよ』
「嫌だね」
一切の迷いがない。
『汝は』
『私に逆らうというのか』
「違う」
ルシファーは答えた。
そして。
仲間たちの前へ立った。
「親父が間違ってるって言ってんだよ」
その日。
神に最も近かった天使の一人が、
初めて。
神へ真正面から、
否を突きつけた。
◇
「……あの時は、本気で馬鹿だと思ったわ」
現代。
ベルのバー。
シェイラ・ハザウェイは、
昔を思い出すように言った。
「ひどくない?」
流架が不満そうな顔をする。
「神の前よ?」
「知ってる」
「これから私たちが裁かれるって時に」
「うん」
「目玉でも置いとけ、なんて普通言う?」
「正論だろ」
「そういう問題じゃない!」
アレクが笑っている。
「俺は好きだったけどな」
「ほら」
「味方がアレクしかいない時点で疑いなさい」
「俺まで馬鹿にされた?」
「気づくの遅いわ」
ペネロペが肩を震わせて笑っている。
アルバートはため息をつく。
コレットも、
ほんの僅かに口元を緩めていた。
◇
「まあ」
鈴司が料理を口へ運びながら言った。
「俺がその場にいたわけじゃねえがな」
「そういや、ベルは見張りじゃなかったもんな」
流架が言う。
「ああ」
鈴司は頷いた。
「俺が知ったのは、その後だ」
シェムハザたち見張りの天使が禁を破った。
人間へ知識を与えた。
そして。
それを庇ったルシファーが、
神へ真正面から異を唱えた。
天界で、
その話が広まらないはずがなかった。
「神に真正面から喧嘩売った馬鹿がいるって聞いてな」
「誰が馬鹿だ」
「お前だよ」
鈴司は即答した。
「面白そうだったから見に行った」
「野次馬じゃねえか」
「最初はな」
「最初は?」
鈴司は料理を飲み込むと、
流架を見る。
「その後は、お前の隣にいた」
「…………」
「そうだろ」
流架は、
少しだけ笑った。
「ああ」
黒崎鈴司。
彼は、
シェムハザたち《見張りの天使》とは違う。
だが。
神とルシファーの対立が決定的になった時。
彼もまた、
自らの意思でルシファー側へ立った。
「昔から物好きよね」
シェイラが言う。
「お前に言われたくねえよ」
「私は当事者よ」
「俺だって途中から当事者だ」
流架が鈴司を見る。
「そうだな」
そして、
何気なく昔と同じ名で呼んだ。
「なあ、ベルゼブブ」
「その名前で呼ぶな」
「いいじゃん、久しぶりで」
「よくねえよ」
ベルゼブブ。
それが、
黒崎鈴司がかつて天で呼ばれていた名だった。
今は、
その名の名残を残して。
親しい者から《ベル》と呼ばれている。
◇
「で?」
鈴司が聞いた。
「後悔してんのか?」
「何を?」
流架が聞き返す。
シェイラが答える。
「私たちを庇ったこと」
「…………」
「あなたがあの時」
シェイラは続ける。
「黙っていれば」
「少なくとも、あなたまで地上へ落とされることはなかった」
アレクも。
コレットも。
アルバートも。
ペネロペも。
黙って流架を見る。
流架は、
少しだけ考えた。
本当に、
ほんの少しだけ。
「ないな」
「即答ね」
「一回も」
「本当に?」
「ああ」
流架は、
窓の外を見る。
夜の東京。
車が走る。
人が歩く。
コンビニが光っている。
電車が走っている。
どこかの店から、
笑い声が聞こえる。
天界から、
人間を見ていた頃には知らなかったもの。
地上へ落ち。
人間と同じ場所で生きたからこそ、
知ったもの。
「むしろ」
流架が言った。
「地上に落とされて」
少し笑う。
「初めて分かったよ」
「何が?」
シェイラが聞く。
流架は、
人間たちが作った街を見る。
「人間って」
遠く。
東京の夜空には今も、
巨大なヘブンズゲートが浮かんでいる。
「見てるだけじゃ」
「全然分かんねえんだな」
だから。
今度は。
ただ見ているだけでは終わらない。




