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第二話 戦争


 神が人類へ宣戦を布告してから、七日。


 世界各地の空に現れた巨大な門には、その間にいくつもの名前がつけられた。


 天門。


 神の門。


 終末の門。


 国によって。


 宗教によって。


 あるいは報道機関によって、呼び方は異なっていた。


 だが。


 いつしか世界でもっとも広く使われるようになった名前がある。


 《ヘブンズゲート》


 天国へ通じる門。


 誰が最初にそう呼んだのかは、もう分からない。


 ただ一つだけ。


 人類はまだ知らなかった。


 その向こうに、本当に天国があるのかさえ。


 そして。


 七日目の朝。


 ヘブンズゲートは、開いた。



     ◇



 アメリカ東部時間、午前六時。


 ワシントンD.C.上空。


 七日前から空に浮かび続けていた巨大な門が、初めて音を立てた。


 大気が震える。


 黄金の装飾に光が走る。


 固く閉ざされていた純白の扉が、ゆっくりと左右へ開き始めた。


『ヘブンズゲートに動きあり!』


『全部隊、所定の配置につけ!』


『繰り返す! ゲートが開く!』


 首都周辺に展開していた軍が、一斉に動き出す。


 戦闘機が次々と離陸する。


 地上では砲身が空へ向けられ、迎撃システムが起動する。


 警察と州兵は、避難区域に残る民間人を地下施設へ誘導していた。


 七日間。


 人類は、何もせずに待っていたわけではない。


 門の大きさ。


 高度。


 周辺で観測される未知のエネルギー。


 分かることは、すべて調べた。


 考えられる限りの事態を想定し、世界各国が軍を展開した。


 なかでも、ワシントンD.C.周辺の防衛体制は、人類が用意できるものとして最大規模だった。


 何が現れても迎撃する。


 どれほど強大な敵であろうと、首都への侵入は許さない。


 少なくとも。


 そのときの人類は、そう信じていた。


『扉、開放率三十パーセント』


『ゲート内部の映像は?』


『光量が強すぎます。解析できません』


『熱源反応は』


『確認不能』


『何か来るぞ』


 門が、完全に開いた。


 向こう側には空も大地もなかった。


 ただ、白い光が満ちている。


 奥行きさえ分からない光の中から、何かが落ちてきた。


『物体を確認』


『何だ?』


『……羽根です』


『羽根?』


『白い羽根です』


 一枚。


 また一枚。


 雪のように、門から無数の羽根が舞い落ちる。


 人類の誰もが想像した。


 その先にいるものを。


 白い翼を持つ、人間に似た存在。


 天使。


 しかし。


 門から最初に現れたものは、人ではなかった。


『大型反応!』


『何か出てくるぞ!』


 白い光を割り、


 巨大な爪が門の縁へ掛かった。


 続いて、純白の鱗に覆われた頭部が現れる。


 長い首。


 鋭い角。


 人間など一飲みにできそうな巨大な口。


 門を通過した巨体から、二枚の翼が広がった。


「……ドラゴン?」


 管制官の一人が呟いた。


『何だと?』


『ドラゴンにしか見えません!』


『大型飛翔生物と仮称。全機、警戒しろ!』


 咆哮。


 大気が震え、地上の窓ガラスが一斉に鳴った。


 一体ではない。


 二体。


 三体。


 巨大な飛翔生物が、次々と門の向こうから現れる。


『大型飛翔生物、複数確認!』


『まだ来ます!』


 その下を縫うように、


 白い翼を持つ人型の兵士たちが降下してきた。


 白銀の甲冑。


 手には剣や槍、弓。


 顔立ちは人間とよく似ていた。


 だが。


 誰一人として表情を持っていない。


 瞬きさえしない。


 一糸乱れぬ隊列を組み、地上を見下ろしている。


『翼を持つ人型を確認』


『便宜上、翼人型と呼称する』


『翼人型、推定三千。なおも増加中!』


 人類にはまだ分からなかった。


 その翼人型たちは、天使ではない。


 名前も。


 意志も。


 祈りも持たない。


 ただ神の命令を実行するためだけに存在する、天界の兵士だった。


 そして。


 異常はそれだけではなかった。


『ゲート内に別の反応!』


『形状が……解析できません』


『何だ、あれは』


 門の奥から、巨大な輪が現れた。


 一つではない。


 幾重にも重なった輪の表面を、無数の目が覆っている。


 すべての目が別々に動き、地上を見つめていた。


『未確認物体を環状個体と仮称!』


『さらに後続!』


 六枚の翼だけが宙に浮いている存在。


 獣と人間の顔を同時に持つもの。


 身体の前後も上下も判別できない、歪んだ塊。


 人類の知る生物の法則へ当てはまらないものが、次々と門から出現していく。


『六枚の翼を持つ個体を六翼型と仮称』


『他の未確認個体については識別コードを付与します』


 翼人型。


 大型飛翔生物。


 環状個体。


 六翼型。


 それは、兵士だけで構成された軍隊ではなかった。


 天界という未知の世界そのものが、


 軍となって地上へ降りてきたように見えた。


『全軍、警戒を維持!』


『攻撃許可が下りるまで待機せよ!』


『こちらからは絶対に撃つな!』


 戦闘機が距離を保ち、空に現れた軍勢を包囲する。


 地上部隊が照準を合わせる。


 天から降りた軍勢も動かない。


 どれほどの時間が経ったのか。


 やがて。


 一体の翼人型が、軍勢の前へ出た。


 他の個体とまったく同じ顔。


 同じ甲冑。


 同じ白い翼。


 その口は動かなかった。


 それでも。


 声が人々の意識へ直接届く。


『人の国へ告ぐ』


 感情のない声だった。


『これより、この地を天の統治下へ置く』


『直ちに武装を解除せよ』


『我らへの抵抗を、永久に停止せよ』


『天門および天の軍勢への干渉を、永久に放棄せよ』


『人による国家統治を終了し、天の統治を受け入れよ』


 淡々とした宣告。


『受諾するならば』


『天は、この地に生きる者の生命を保証する』



     ◇



「国家主権を放棄しろ、か」


 地下指揮所。


 壁一面に並ぶモニターには、ワシントンの空を覆う軍勢が映っている。


 大統領は、正面の映像を見つめていた。


 周囲には政府高官と軍首脳。


 七日間、ほとんど眠っていない者もいる。


「回答期限は?」


「提示されていません」


「今すぐ決断しろということか」


「その可能性が高いかと」


 大統領は軍司令官を見る。


「敵戦力をどう見る」


「現時点では不明です」


「それは聞いた」


「しかし、我々には七日間かけて構築した防衛網があります」


 軍司令官は、モニターに映る巨大な門を見据える。


「相手が何者であろうと、戦う前から国を明け渡すことはできません」


「勝てるか?」


 室内が静まり返る。


「予測で構わない」


 軍司令官は答えた。


「戦えます」


 勝てます、とは言わなかった。


 大統領も。


 その場にいた全員が、その違いに気づいていた。


 それでも。


 大統領の答えは決まっていた。


「降伏勧告を拒否する」


「閣下」


「これは私一人の国ではない。誰かに命じられて渡せるものでもない」


 大統領が立ち上がる。


「民間人の避難を最優先。攻撃対象は敵軍とゲート周辺に限定する」


「承知しました」


「それと」


 軍司令官が足を止める。


「最後まで交渉回線は維持しろ」



     ◇



『回答を確認した』


 翼人型の声が響いた。


『人の国は、抵抗を選択した』


 怒りはない。


 失望もない。


『その選択を受理する』


『これより』


『戦争を開始する』


『全軍、攻撃開始!』


 人類が先に空を裂いた。


 戦闘機から放たれたミサイルが、白い軌跡を引いて敵軍へ向かう。


 一発ではない。


 十。


 五十。


 さらに地上から、無数の迎撃兵器が火を噴いた。


 爆音が首都を揺らす。


 空が爆発した。


 炎。


 黒煙。


 衝撃波。


『第一波、着弾!』


『効果を確認しろ!』


『煙で見えません!』


 モニターを埋め尽くす黒煙。


 その中で、


 何かが光った。


 翼人型の軍勢を覆う、半透明の障壁。


 だが、無傷ではない。


 障壁の表面には、無数の亀裂が走っていた。


『効いている!』


『集中攻撃を続けろ!』


『第二波、発射!』


 再び、空が爆発する。


 光の障壁が激しく明滅した。


 そして。


 ついに砕けた。


 炎に呑まれた翼人型が、次々に地上へ落下していく。


『撃墜を確認!』


『倒せるぞ!』


『敵は無敵ではない!』


 歓声が上がった。


 その声は前線だけでなく、中継を見守っていた世界中へ広がっていく。


 神の軍勢は無敵ではない。


 人類の武器が通用する。


 七日前から世界を覆っていた恐怖へ、初めて亀裂が入った。


 だが。


 仲間が撃ち落とされても。


 翼人型たちは、何の反応も示さなかった。


 振り返りもしない。


 怒りもしない。


 ただ一斉に、


 翼を広げた。


『翼人型、散開!』


『来るぞ!』


『各機、回避!』


 白い翼が空を覆う。


 パイロットが敵を認識したときには、翼人型はすでに戦闘機の横にいた。


『右だ!』


『振り切れない!』


『速すぎる!』


 銀の剣が振り下ろされる。


 火花。


 戦闘機の翼が切断され、黒煙を噴きながら落下を始めた。


『メーデー! メーデー!』


『脱出しろ!』


『制御が――』


 通信が途絶える。


 別の翼人型が槍を掲げる。


 穂先に白い光が集まった。


『敵人型に高エネルギー反応!』


『全機、散開しろ!』


 光が空を走った。


 ほんの一筋。


 それだけだった。


 だが。


 その軌道上にいた複数の戦闘機が、跡形もなく消えていた。


『第三飛行隊、応答せよ!』


『第三飛行隊!』


 返事はない。


 直後。


 咆哮が空を揺らした。


『大型飛翔生物が接近!』


 純白の飛竜が、戦闘機部隊へ突っ込む。


 機銃が鱗を叩く。


 白い破片が飛び散り、その下から血が噴き出した。


 巨大な生物が苦痛に首を振る。


『効いている!』


『頭部へ集中しろ!』


 ミサイルが直撃した。


 巨体が炎に包まれる。


 一体の大型飛翔生物が翼を失い、地上へ落下していく。


『大型目標を撃墜!』


『次が来るぞ!』


 二体目が、傷ついた仲間を避けるように上昇する。


 口が開いた。


 喉の奥に、白い光が集まっていく。


『回避!』


 光が吐き出された。


 空が焼けた。


 複数の戦闘機が炎に呑まれ、燃えながら落下する。


 その向こう。


 門からは、新たな大型飛翔生物が次々と姿を現していた。



     ◇



 一日目。


 アメリカ軍は、敵軍の侵攻を首都上空で食い止めた。


 被害は決して小さくない。


 それでも翼人型を撃墜した。


 大型飛翔生物を倒した。


 地上への本格的な侵入を許さなかった。


 その事実は、瞬く間に世界中へ伝えられた。


『神を名乗る存在の軍勢は無敵ではありません!』


『アメリカ軍は現在も防衛線を維持しています!』


『人類の兵器は通用しています!』


 世界が沸いた。


 人類は戦える。


 勝てるかもしれない。


 だが。


 その希望は、


 二日目の朝に崩れ始めた。



     ◇



『レーダーから反応が消えた!』


『目視では確認できる!』


『なのにロックできません!』


 幾重にも重なった環状個体が、空中でゆっくりと回転する。


 表面を覆う無数の目が光るたび、レーダー画面が乱れた。


 通信。


 照準。


 誘導。


 あらゆる電子機器が、正常に機能しなくなる。


『全システム、手動へ切り替えろ!』


『無理です、速すぎる!』


『接近を許すな!』


 六翼型が、地上部隊の上空へ到達する。


 六枚の翼が開いた。


 音はない。


 光すらない。


 それでも。


 その下にいた兵士たちが、一斉に倒れた。


『何が起きた!』


『部隊が沈黙!』


『攻撃が見えません!』


『直ちに退避させろ!』


 大型飛翔生物が防衛線へ突撃する。


 翼人型がその背後から降下する。


 異形の未確認個体が、人類の通信と兵器を狂わせる。


 それぞれが別々に動いているようで。


 実際には、恐ろしいほど統制されていた。


 環状個体が人類の目を奪う。


 大型飛翔生物が陣形を崩す。


 翼人型が、崩れた隙間へ入り込む。


『第一防衛線、突破されました!』


『全部隊、第二防衛線へ後退!』


『負傷者を置いていくな!』


『大型目標が来る!』


『対空兵器を――』


 通信が途絶える。


 一つ。


 また一つ。


 モニターに表示されていた友軍の反応が消えていく。


 それでも。


 アメリカ軍は戦った。



     ◇



 二日目の夜。


 空は赤く染まっていた。


 戦闘機の残骸。


 撃ち落とされた翼人型。


 墜落した大型飛翔生物。


 炎上する軍用車両。


 街の灯りと戦火の区別すらつかない。


 人間も。


 翼人型も。


 巨大生物も。


 地上へ落ちている。


 だが。


 人間だけが疲れていた。


 兵士は眠れない。


 弾薬は減る。


 燃料も。


 兵器も。


 交代要員も。


 一方。


 翼人型は、何時間戦っても動きを鈍らせない。


 仲間が倒れても気にしない。


 命令された場所へ向かい。


 命令されたものを破壊し。


 次の命令を待つ。


 そして門からは、


 新たな戦力が降り続けていた。



     ◇



 三日目。


『第二防衛線、崩壊!』


『敵地上部隊、ポトマック川を越えました!』


『増援は!』


『到着できません!』


『なぜだ!』


『大型飛翔生物によって輸送路を遮断されています!』


『航空支援は!』


『残存航空戦力は二割を下回りました!』


 地下指揮所。


 大統領は、モニターに映る戦場を見つめていた。


 目の下には濃い隈がある。


 それでも、


 目から戦意は消えていなかった。


「西部の戦力を回せ」


「すでに指示しています」


「空母打撃群は」


「環状個体の影響で、通信と索敵能力が低下しています。大型飛翔生物にも拘束され、首都圏への即時展開は困難です」


「州兵は」


「前線へ投入済みです」


「なら予備戦力を――」


「閣下」


 軍司令官が遮った。


 大統領が振り返る。


「何だ」


「…………」


「報告しろ」


 軍司令官は、一度だけ目を閉じた。


「もう、ありません」


「何?」


「予備戦力もです」


「他州の部隊がある」


「移動中に敵の攻撃を受けています」


「まだ軍は残っている」


「残っています」


 軍司令官が答える。


「ですが、戦力として再編成し、首都防衛へ投入できる部隊はありません」


「ならば残った兵を集めろ」


「閣下」


「武器を持てる者を集めろ。私も行く」


「なりません」


「大統領だからか?」


「違います」


 軍司令官は、


 まっすぐ大統領を見た。


「あなたが前線で死んでも、我が国の戦力は増えません」


「…………」


「兵士たちは戦いました」


「まだ戦っている」


「はい」


「なら私だけが、安全な場所で降伏を選べると思うか?」


 大統領の声は低かった。


「まだ国民がいる」


「はい」


「まだ国土がある」


「はい」


「我々は、まだ負けていない」


 それでも。


 軍司令官は首を振った。


「いいえ」


 室内が静まり返る。


 大統領の顔に怒りが浮かんだ。


「今、何と言った?」


「我々は負けました」


「まだ首都は落ちていない」


「時間の問題です」


「軍人がそんなことを言うのか」


「軍人だから申し上げています」


 軍司令官の手が震えていた。


 恐怖ではない。


 悔しさを抑えるためだった。


「もう戦う戦力が、我が国にはありません」


「…………」


「戦う意思ではありません」


 軍司令官は続ける。


「戦う兵士はいます」


「では」


「ですが、彼らを送り出しても戦闘にはなりません」


 モニターに映る。


 崩壊した防衛線。


 燃え上がる車両。


 負傷した仲間を背負って後退する兵士。


 その頭上を飛ぶ白い翼。


「これ以上は、戦争ではありません」


 軍司令官が言った。


「兵士と国民を、死なせるだけです」


 大統領は、


 何も言えなかった。


 拳を固く握りしめる。


「……私に」


 絞り出すような声だった。


「国を明け渡せと言うのか」


「いいえ」


 軍司令官は答えた。


「国民を生かしてください」



     ◇



 同じ頃。


 翼人型の一団が市街地へ入った。


 逃げる市民を追わない。


 武器を持たない者へ、剣を向けることもない。


 だが。


「助けてくれ!」


 崩れた建物の下。


 瓦礫に足を挟まれた男が、通り過ぎる翼人型へ手を伸ばす。


 翼人型が止まった。


 男を見る。


 感情のない瞳。


「頼む……」


 翼人型は、


 何もせず歩き出した。


 男は敵ではない。


 だが。


 救助対象でもない。


 天の軍勢が保証するのは、


 降伏した者の生命だ。


 今はまだ、


 戦争中だった。


 遠くで爆発が起きる。


 衝撃が市街地を襲う。


 瓦礫が崩れた。



     ◇



『天の軍勢へ』


 三日目の夜。


 通信が開かれた。


『こちらは、アメリカ合衆国政府である』


 戦場を覆っていた翼人型が、


 同時に動きを止める。


 大型飛翔生物が翼を広げたまま、空中で静止する。


 環状個体を覆う無数の目が、一斉に政府施設へ向いた。


『我々は』


 一度だけ、


 大統領が言葉を詰まらせる。


 誰かに促されることはなかった。


 自らの意志で、


 続きを告げる。


『貴軍の提示した降伏条件を受諾する』


 戦場が、


 静まり返った。


『確認する』


 翼人型の口は動いていない。


 それでも、


 声が意識へ直接響いた。


『天の軍勢に対する抵抗を、永久に停止するか』


『停止する』


『すべての軍事力を放棄し、天門および天の軍勢への干渉を永久に放棄するか』


 大統領は目を閉じた。


 軍司令官が帽子を取り、胸へ抱く。


『放棄する』


『人による国家統治を終了し、天の統治を受け入れるか』


 この言葉だけは、


 すぐに答えられなかった。


 建国以来。


 多くの人間が、その国を作ってきた。


 守ってきた。


 間違えながら。


 争いながら。


 それでも自分たちの手で、国家を続けてきた。


 それを、


 今から終わらせる。


『回答せよ』


 感情のない声が告げる。


 大統領は、


 震える息を吐いた。


『……受け入れる』


 声が答えた。


『降伏を受諾した』


『これより、この地に生きる者の生命を天が保証する』


『全軍』


『武器を収めよ』


 その瞬間。


 攻撃が、


 完全に止まった。


 一発も。


 一振りも。


 それ以上の攻撃は行われなかった。


 翼人型が剣を下ろす。


 巨大な飛翔生物が攻撃をやめる。


 異形たちの光が消えていく。


 数秒前まで命を奪い合っていたとは思えないほど、


 正確で。


 完全な停止だった。


 その無機質さが、


 何よりも恐ろしかった。



     ◇



『……速報です』


 日本。


 テレビの中で、アナウンサーの声が震えていた。


『アメリカ合衆国政府は先ほど、天の軍勢から提示された降伏条件を受諾しました』


 手元の原稿へ視線を落とす。


『繰り返します』


『三日間に及ぶ戦闘の末』


『アメリカ合衆国は――』


 一瞬。


 声が途切れた。


『神軍へ、全面降伏しました』


 世界が凍りついた。


 一日目。


 人類は敵を倒せると知った。


 二日目。


 それでも勝てないかもしれないと知った。


 三日目。


 戦う力そのものを失った。


 国土は残った。


 都市も残った。


 人々も生きている。


 だが。


 軍事力を失った。


 国家主権を失った。


 そこを統治する者は、


 もはや人間ではない。


 その日。


 アメリカ合衆国は、


 人間の国ではなくなった。


 世界地図から、


 一つの国が消えた。



     ◇



「……食うか?」


 テレビの前で、


 男が皿を差し出した。


「いらん」


「お前が?」


「そういう気分じゃねえ」


「重症だな」


 都内の裏通りにある、小さなバー。


 看板には、準備中の札が掛かっている。


 店主の名は、


 黒崎 鈴司。


 親しい者からは、


 ベルと呼ばれている。


 鈴。


 英語にすれば、ベル。


 ただし。


 その呼び名には、人間には知られていないもう一つの由来があった。


 カウンターには、


 神城 流架が座っている。


 テレビでは、アメリカ全面降伏の速報が繰り返されていた。


 映像には、


 政府施設の前に立つ白翼の兵。


 その奥を飛ぶ巨大な生物。


 空には、今もヘブンズゲートが浮かんでいる。


 ベルは差し出した皿の料理を、


 自分の口へ放り込んだ。


「人間は、あれを天使って呼んでるみたいだな」


「あの見た目なら仕方ねえだろ」


「天兵が聞いても何も思わんだろうが」


「そりゃそうだ。あいつらに、そんなもんねえよ」


 ベルはテレビを見る。


 瓦礫の中を歩く、


 白い翼の兵士たち。


 流架たちにとっては、


 見間違えるような存在ではない。


 《天兵》


 名前も。


 自ら選ぶ意志も持たない。


 神の命令を実行するための兵。


 人間たちが想像する「天使」とは、


 最初から違う存在だった。


 画面が切り替わる。


 空を飛ぶ巨大な竜。


「神獣まで連れてきやがったか」


 ベルが呟く。


「ああ。異形もな」


「随分、本格的じゃねえか」


「三日でアメリカを落とすくらいにはな」


 ベルの手が止まる。


「……なのに、天使は一人も出てきてねえ」


 流架が言った。


「ミカエルも?」


「見てねえ」


「ガブリエルも?」


「いねえな」


「…………」


 ベルが料理の乗った皿を、


 静かにカウンターへ置いた。


 三日三晩。


 世界最強クラスの軍事力を持つ国家を相手にしたのは、


 天兵。


 神獣。


 異形。


 神の命令に従う、


 天界の軍勢。


 そこに。


 本物の天使は、


 一人もいなかった。


「親父はまだ」


 流架が低く言う。


「本命を一人も出してねえよ」


 店内が静まり返る。


 ベルが、


 やがて短く息を吐いた。


「そりゃ、まずいな」


「ああ」


 流架が答える。


 神が宣戦布告した日。


 流架は言った。


 また親父が余計なことをしている、と。


 だが。


 門は本当に開いた。


 三日三晩戦い。


 一つの大国から、


 人間による統治を奪った。


「親父は本気だ」


 ベルが流架を見る。


「そうか」


「ああ」


「脅しじゃない?」


「脅すだけなら、ここまでやらねえよ」


「試してる可能性は?」


「それでも同じだ」


 流架はテレビを見る。


 瓦礫の中を歩いていく天兵。


 苦しんでいる人間がいても、


 命令になければ振り返らない。


 悪意すらない。


 ただ、


 必要がないから助けない。


「人間が何人死ぬかを、親父は気にしない」


「昔からだろ」


「ああ」


 正しいと決めたことを、


 神は曲げない。


 その正しさによって、


 どれほど多くの者が傷ついたとしても。


「昔からそうだ」


 流架が吐き捨てる。


「だから、タチが悪い」


 ベルはそれ以上何も言わなかった。


 料理を一口。


 咀嚼する。


 飲み込む。


 それから、


 流架を見る。


「で?」


「何が」


「お前、何か決めた顔してるぞ」


「分かるか?」


「何千年の付き合いだと思ってんだ」


「数えてねえよ」


「俺もだ」


 流架はカウンターへ肘を置く。


 少しだけ考える。


 だが。


 答えは最初から決まっていた。


「ベル」


「なんだ」


「店を貸せ」


 ベルが眉を上げる。


「いつ」


「明日」


「何に使う?」


 流架は、


 店の奥を見る。


 普段は客が酒を飲み、


 くだらない話をして笑う場所。


 その中央には、


 一つの丸いテーブルが置かれている。


「集める」


「……全員か?」


「ああ」


 ベルは、


 誰を、と聞かなかった。


 聞く必要などなかった。


「来ると思うか?」


「来させる」


「相変わらず傲慢だな」


「今さらだろ」


 ベルは大きく息を吐く。


「飯は?」


「出せ」


「酒は?」


「出せ」


「代金は?」


「人類防衛費」


「お前が決めるな」


 流架は、


 ほんの少し笑った。


 だが。


 すぐに表情を戻す。


 テレビに映る、


 無数の白い翼を見つめた。


「親父が本気なら」


 流架は言った。


「こっちも本気で止める」


 椅子から立ち上がる。


 人間の名で呼ばれるようになって、


 長い時間が過ぎた。


 今さら。


 昔の知り合いたちと顔を合わせたいとは思わない。


 それでも。


 人類だけでは、


 あの軍勢には勝てない。


「始めるぞ、ベル」


「何を?」


 流架は答えた。


「円卓会議だ」


 開戦から三日。


 人類は早くも、


 最初の一国を失った。


 そして。


 人類の知らない場所で。


 かつて天より地へ堕とされた者たちが、


 再び集まろうとしていた。



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