第二話 戦争
神が人類へ宣戦を布告してから、七日。
世界各地の空に現れた巨大な門には、その間にいくつもの名前がつけられた。
天門。
神の門。
終末の門。
国によって。
宗教によって。
あるいは報道機関によって、呼び方は異なっていた。
だが。
いつしか世界でもっとも広く使われるようになった名前がある。
《ヘブンズゲート》
天国へ通じる門。
誰が最初にそう呼んだのかは、もう分からない。
ただ一つだけ。
人類はまだ知らなかった。
その向こうに、本当に天国があるのかさえ。
そして。
七日目の朝。
ヘブンズゲートは、開いた。
◇
アメリカ東部時間、午前六時。
ワシントンD.C.上空。
七日前から空に浮かび続けていた巨大な門が、初めて音を立てた。
大気が震える。
黄金の装飾に光が走る。
固く閉ざされていた純白の扉が、ゆっくりと左右へ開き始めた。
『ヘブンズゲートに動きあり!』
『全部隊、所定の配置につけ!』
『繰り返す! ゲートが開く!』
首都周辺に展開していた軍が、一斉に動き出す。
戦闘機が次々と離陸する。
地上では砲身が空へ向けられ、迎撃システムが起動する。
警察と州兵は、避難区域に残る民間人を地下施設へ誘導していた。
七日間。
人類は、何もせずに待っていたわけではない。
門の大きさ。
高度。
周辺で観測される未知のエネルギー。
分かることは、すべて調べた。
考えられる限りの事態を想定し、世界各国が軍を展開した。
なかでも、ワシントンD.C.周辺の防衛体制は、人類が用意できるものとして最大規模だった。
何が現れても迎撃する。
どれほど強大な敵であろうと、首都への侵入は許さない。
少なくとも。
そのときの人類は、そう信じていた。
『扉、開放率三十パーセント』
『ゲート内部の映像は?』
『光量が強すぎます。解析できません』
『熱源反応は』
『確認不能』
『何か来るぞ』
門が、完全に開いた。
向こう側には空も大地もなかった。
ただ、白い光が満ちている。
奥行きさえ分からない光の中から、何かが落ちてきた。
『物体を確認』
『何だ?』
『……羽根です』
『羽根?』
『白い羽根です』
一枚。
また一枚。
雪のように、門から無数の羽根が舞い落ちる。
人類の誰もが想像した。
その先にいるものを。
白い翼を持つ、人間に似た存在。
天使。
しかし。
門から最初に現れたものは、人ではなかった。
『大型反応!』
『何か出てくるぞ!』
白い光を割り、
巨大な爪が門の縁へ掛かった。
続いて、純白の鱗に覆われた頭部が現れる。
長い首。
鋭い角。
人間など一飲みにできそうな巨大な口。
門を通過した巨体から、二枚の翼が広がった。
「……ドラゴン?」
管制官の一人が呟いた。
『何だと?』
『ドラゴンにしか見えません!』
『大型飛翔生物と仮称。全機、警戒しろ!』
咆哮。
大気が震え、地上の窓ガラスが一斉に鳴った。
一体ではない。
二体。
三体。
巨大な飛翔生物が、次々と門の向こうから現れる。
『大型飛翔生物、複数確認!』
『まだ来ます!』
その下を縫うように、
白い翼を持つ人型の兵士たちが降下してきた。
白銀の甲冑。
手には剣や槍、弓。
顔立ちは人間とよく似ていた。
だが。
誰一人として表情を持っていない。
瞬きさえしない。
一糸乱れぬ隊列を組み、地上を見下ろしている。
『翼を持つ人型を確認』
『便宜上、翼人型と呼称する』
『翼人型、推定三千。なおも増加中!』
人類にはまだ分からなかった。
その翼人型たちは、天使ではない。
名前も。
意志も。
祈りも持たない。
ただ神の命令を実行するためだけに存在する、天界の兵士だった。
そして。
異常はそれだけではなかった。
『ゲート内に別の反応!』
『形状が……解析できません』
『何だ、あれは』
門の奥から、巨大な輪が現れた。
一つではない。
幾重にも重なった輪の表面を、無数の目が覆っている。
すべての目が別々に動き、地上を見つめていた。
『未確認物体を環状個体と仮称!』
『さらに後続!』
六枚の翼だけが宙に浮いている存在。
獣と人間の顔を同時に持つもの。
身体の前後も上下も判別できない、歪んだ塊。
人類の知る生物の法則へ当てはまらないものが、次々と門から出現していく。
『六枚の翼を持つ個体を六翼型と仮称』
『他の未確認個体については識別コードを付与します』
翼人型。
大型飛翔生物。
環状個体。
六翼型。
それは、兵士だけで構成された軍隊ではなかった。
天界という未知の世界そのものが、
軍となって地上へ降りてきたように見えた。
『全軍、警戒を維持!』
『攻撃許可が下りるまで待機せよ!』
『こちらからは絶対に撃つな!』
戦闘機が距離を保ち、空に現れた軍勢を包囲する。
地上部隊が照準を合わせる。
天から降りた軍勢も動かない。
どれほどの時間が経ったのか。
やがて。
一体の翼人型が、軍勢の前へ出た。
他の個体とまったく同じ顔。
同じ甲冑。
同じ白い翼。
その口は動かなかった。
それでも。
声が人々の意識へ直接届く。
『人の国へ告ぐ』
感情のない声だった。
『これより、この地を天の統治下へ置く』
『直ちに武装を解除せよ』
『我らへの抵抗を、永久に停止せよ』
『天門および天の軍勢への干渉を、永久に放棄せよ』
『人による国家統治を終了し、天の統治を受け入れよ』
淡々とした宣告。
『受諾するならば』
『天は、この地に生きる者の生命を保証する』
◇
「国家主権を放棄しろ、か」
地下指揮所。
壁一面に並ぶモニターには、ワシントンの空を覆う軍勢が映っている。
大統領は、正面の映像を見つめていた。
周囲には政府高官と軍首脳。
七日間、ほとんど眠っていない者もいる。
「回答期限は?」
「提示されていません」
「今すぐ決断しろということか」
「その可能性が高いかと」
大統領は軍司令官を見る。
「敵戦力をどう見る」
「現時点では不明です」
「それは聞いた」
「しかし、我々には七日間かけて構築した防衛網があります」
軍司令官は、モニターに映る巨大な門を見据える。
「相手が何者であろうと、戦う前から国を明け渡すことはできません」
「勝てるか?」
室内が静まり返る。
「予測で構わない」
軍司令官は答えた。
「戦えます」
勝てます、とは言わなかった。
大統領も。
その場にいた全員が、その違いに気づいていた。
それでも。
大統領の答えは決まっていた。
「降伏勧告を拒否する」
「閣下」
「これは私一人の国ではない。誰かに命じられて渡せるものでもない」
大統領が立ち上がる。
「民間人の避難を最優先。攻撃対象は敵軍とゲート周辺に限定する」
「承知しました」
「それと」
軍司令官が足を止める。
「最後まで交渉回線は維持しろ」
◇
『回答を確認した』
翼人型の声が響いた。
『人の国は、抵抗を選択した』
怒りはない。
失望もない。
『その選択を受理する』
『これより』
『戦争を開始する』
『全軍、攻撃開始!』
人類が先に空を裂いた。
戦闘機から放たれたミサイルが、白い軌跡を引いて敵軍へ向かう。
一発ではない。
十。
五十。
さらに地上から、無数の迎撃兵器が火を噴いた。
爆音が首都を揺らす。
空が爆発した。
炎。
黒煙。
衝撃波。
『第一波、着弾!』
『効果を確認しろ!』
『煙で見えません!』
モニターを埋め尽くす黒煙。
その中で、
何かが光った。
翼人型の軍勢を覆う、半透明の障壁。
だが、無傷ではない。
障壁の表面には、無数の亀裂が走っていた。
『効いている!』
『集中攻撃を続けろ!』
『第二波、発射!』
再び、空が爆発する。
光の障壁が激しく明滅した。
そして。
ついに砕けた。
炎に呑まれた翼人型が、次々に地上へ落下していく。
『撃墜を確認!』
『倒せるぞ!』
『敵は無敵ではない!』
歓声が上がった。
その声は前線だけでなく、中継を見守っていた世界中へ広がっていく。
神の軍勢は無敵ではない。
人類の武器が通用する。
七日前から世界を覆っていた恐怖へ、初めて亀裂が入った。
だが。
仲間が撃ち落とされても。
翼人型たちは、何の反応も示さなかった。
振り返りもしない。
怒りもしない。
ただ一斉に、
翼を広げた。
『翼人型、散開!』
『来るぞ!』
『各機、回避!』
白い翼が空を覆う。
パイロットが敵を認識したときには、翼人型はすでに戦闘機の横にいた。
『右だ!』
『振り切れない!』
『速すぎる!』
銀の剣が振り下ろされる。
火花。
戦闘機の翼が切断され、黒煙を噴きながら落下を始めた。
『メーデー! メーデー!』
『脱出しろ!』
『制御が――』
通信が途絶える。
別の翼人型が槍を掲げる。
穂先に白い光が集まった。
『敵人型に高エネルギー反応!』
『全機、散開しろ!』
光が空を走った。
ほんの一筋。
それだけだった。
だが。
その軌道上にいた複数の戦闘機が、跡形もなく消えていた。
『第三飛行隊、応答せよ!』
『第三飛行隊!』
返事はない。
直後。
咆哮が空を揺らした。
『大型飛翔生物が接近!』
純白の飛竜が、戦闘機部隊へ突っ込む。
機銃が鱗を叩く。
白い破片が飛び散り、その下から血が噴き出した。
巨大な生物が苦痛に首を振る。
『効いている!』
『頭部へ集中しろ!』
ミサイルが直撃した。
巨体が炎に包まれる。
一体の大型飛翔生物が翼を失い、地上へ落下していく。
『大型目標を撃墜!』
『次が来るぞ!』
二体目が、傷ついた仲間を避けるように上昇する。
口が開いた。
喉の奥に、白い光が集まっていく。
『回避!』
光が吐き出された。
空が焼けた。
複数の戦闘機が炎に呑まれ、燃えながら落下する。
その向こう。
門からは、新たな大型飛翔生物が次々と姿を現していた。
◇
一日目。
アメリカ軍は、敵軍の侵攻を首都上空で食い止めた。
被害は決して小さくない。
それでも翼人型を撃墜した。
大型飛翔生物を倒した。
地上への本格的な侵入を許さなかった。
その事実は、瞬く間に世界中へ伝えられた。
『神を名乗る存在の軍勢は無敵ではありません!』
『アメリカ軍は現在も防衛線を維持しています!』
『人類の兵器は通用しています!』
世界が沸いた。
人類は戦える。
勝てるかもしれない。
だが。
その希望は、
二日目の朝に崩れ始めた。
◇
『レーダーから反応が消えた!』
『目視では確認できる!』
『なのにロックできません!』
幾重にも重なった環状個体が、空中でゆっくりと回転する。
表面を覆う無数の目が光るたび、レーダー画面が乱れた。
通信。
照準。
誘導。
あらゆる電子機器が、正常に機能しなくなる。
『全システム、手動へ切り替えろ!』
『無理です、速すぎる!』
『接近を許すな!』
六翼型が、地上部隊の上空へ到達する。
六枚の翼が開いた。
音はない。
光すらない。
それでも。
その下にいた兵士たちが、一斉に倒れた。
『何が起きた!』
『部隊が沈黙!』
『攻撃が見えません!』
『直ちに退避させろ!』
大型飛翔生物が防衛線へ突撃する。
翼人型がその背後から降下する。
異形の未確認個体が、人類の通信と兵器を狂わせる。
それぞれが別々に動いているようで。
実際には、恐ろしいほど統制されていた。
環状個体が人類の目を奪う。
大型飛翔生物が陣形を崩す。
翼人型が、崩れた隙間へ入り込む。
『第一防衛線、突破されました!』
『全部隊、第二防衛線へ後退!』
『負傷者を置いていくな!』
『大型目標が来る!』
『対空兵器を――』
通信が途絶える。
一つ。
また一つ。
モニターに表示されていた友軍の反応が消えていく。
それでも。
アメリカ軍は戦った。
◇
二日目の夜。
空は赤く染まっていた。
戦闘機の残骸。
撃ち落とされた翼人型。
墜落した大型飛翔生物。
炎上する軍用車両。
街の灯りと戦火の区別すらつかない。
人間も。
翼人型も。
巨大生物も。
地上へ落ちている。
だが。
人間だけが疲れていた。
兵士は眠れない。
弾薬は減る。
燃料も。
兵器も。
交代要員も。
一方。
翼人型は、何時間戦っても動きを鈍らせない。
仲間が倒れても気にしない。
命令された場所へ向かい。
命令されたものを破壊し。
次の命令を待つ。
そして門からは、
新たな戦力が降り続けていた。
◇
三日目。
『第二防衛線、崩壊!』
『敵地上部隊、ポトマック川を越えました!』
『増援は!』
『到着できません!』
『なぜだ!』
『大型飛翔生物によって輸送路を遮断されています!』
『航空支援は!』
『残存航空戦力は二割を下回りました!』
地下指揮所。
大統領は、モニターに映る戦場を見つめていた。
目の下には濃い隈がある。
それでも、
目から戦意は消えていなかった。
「西部の戦力を回せ」
「すでに指示しています」
「空母打撃群は」
「環状個体の影響で、通信と索敵能力が低下しています。大型飛翔生物にも拘束され、首都圏への即時展開は困難です」
「州兵は」
「前線へ投入済みです」
「なら予備戦力を――」
「閣下」
軍司令官が遮った。
大統領が振り返る。
「何だ」
「…………」
「報告しろ」
軍司令官は、一度だけ目を閉じた。
「もう、ありません」
「何?」
「予備戦力もです」
「他州の部隊がある」
「移動中に敵の攻撃を受けています」
「まだ軍は残っている」
「残っています」
軍司令官が答える。
「ですが、戦力として再編成し、首都防衛へ投入できる部隊はありません」
「ならば残った兵を集めろ」
「閣下」
「武器を持てる者を集めろ。私も行く」
「なりません」
「大統領だからか?」
「違います」
軍司令官は、
まっすぐ大統領を見た。
「あなたが前線で死んでも、我が国の戦力は増えません」
「…………」
「兵士たちは戦いました」
「まだ戦っている」
「はい」
「なら私だけが、安全な場所で降伏を選べると思うか?」
大統領の声は低かった。
「まだ国民がいる」
「はい」
「まだ国土がある」
「はい」
「我々は、まだ負けていない」
それでも。
軍司令官は首を振った。
「いいえ」
室内が静まり返る。
大統領の顔に怒りが浮かんだ。
「今、何と言った?」
「我々は負けました」
「まだ首都は落ちていない」
「時間の問題です」
「軍人がそんなことを言うのか」
「軍人だから申し上げています」
軍司令官の手が震えていた。
恐怖ではない。
悔しさを抑えるためだった。
「もう戦う戦力が、我が国にはありません」
「…………」
「戦う意思ではありません」
軍司令官は続ける。
「戦う兵士はいます」
「では」
「ですが、彼らを送り出しても戦闘にはなりません」
モニターに映る。
崩壊した防衛線。
燃え上がる車両。
負傷した仲間を背負って後退する兵士。
その頭上を飛ぶ白い翼。
「これ以上は、戦争ではありません」
軍司令官が言った。
「兵士と国民を、死なせるだけです」
大統領は、
何も言えなかった。
拳を固く握りしめる。
「……私に」
絞り出すような声だった。
「国を明け渡せと言うのか」
「いいえ」
軍司令官は答えた。
「国民を生かしてください」
◇
同じ頃。
翼人型の一団が市街地へ入った。
逃げる市民を追わない。
武器を持たない者へ、剣を向けることもない。
だが。
「助けてくれ!」
崩れた建物の下。
瓦礫に足を挟まれた男が、通り過ぎる翼人型へ手を伸ばす。
翼人型が止まった。
男を見る。
感情のない瞳。
「頼む……」
翼人型は、
何もせず歩き出した。
男は敵ではない。
だが。
救助対象でもない。
天の軍勢が保証するのは、
降伏した者の生命だ。
今はまだ、
戦争中だった。
遠くで爆発が起きる。
衝撃が市街地を襲う。
瓦礫が崩れた。
◇
『天の軍勢へ』
三日目の夜。
通信が開かれた。
『こちらは、アメリカ合衆国政府である』
戦場を覆っていた翼人型が、
同時に動きを止める。
大型飛翔生物が翼を広げたまま、空中で静止する。
環状個体を覆う無数の目が、一斉に政府施設へ向いた。
『我々は』
一度だけ、
大統領が言葉を詰まらせる。
誰かに促されることはなかった。
自らの意志で、
続きを告げる。
『貴軍の提示した降伏条件を受諾する』
戦場が、
静まり返った。
『確認する』
翼人型の口は動いていない。
それでも、
声が意識へ直接響いた。
『天の軍勢に対する抵抗を、永久に停止するか』
『停止する』
『すべての軍事力を放棄し、天門および天の軍勢への干渉を永久に放棄するか』
大統領は目を閉じた。
軍司令官が帽子を取り、胸へ抱く。
『放棄する』
『人による国家統治を終了し、天の統治を受け入れるか』
この言葉だけは、
すぐに答えられなかった。
建国以来。
多くの人間が、その国を作ってきた。
守ってきた。
間違えながら。
争いながら。
それでも自分たちの手で、国家を続けてきた。
それを、
今から終わらせる。
『回答せよ』
感情のない声が告げる。
大統領は、
震える息を吐いた。
『……受け入れる』
声が答えた。
『降伏を受諾した』
『これより、この地に生きる者の生命を天が保証する』
『全軍』
『武器を収めよ』
その瞬間。
攻撃が、
完全に止まった。
一発も。
一振りも。
それ以上の攻撃は行われなかった。
翼人型が剣を下ろす。
巨大な飛翔生物が攻撃をやめる。
異形たちの光が消えていく。
数秒前まで命を奪い合っていたとは思えないほど、
正確で。
完全な停止だった。
その無機質さが、
何よりも恐ろしかった。
◇
『……速報です』
日本。
テレビの中で、アナウンサーの声が震えていた。
『アメリカ合衆国政府は先ほど、天の軍勢から提示された降伏条件を受諾しました』
手元の原稿へ視線を落とす。
『繰り返します』
『三日間に及ぶ戦闘の末』
『アメリカ合衆国は――』
一瞬。
声が途切れた。
『神軍へ、全面降伏しました』
世界が凍りついた。
一日目。
人類は敵を倒せると知った。
二日目。
それでも勝てないかもしれないと知った。
三日目。
戦う力そのものを失った。
国土は残った。
都市も残った。
人々も生きている。
だが。
軍事力を失った。
国家主権を失った。
そこを統治する者は、
もはや人間ではない。
その日。
アメリカ合衆国は、
人間の国ではなくなった。
世界地図から、
一つの国が消えた。
◇
「……食うか?」
テレビの前で、
男が皿を差し出した。
「いらん」
「お前が?」
「そういう気分じゃねえ」
「重症だな」
都内の裏通りにある、小さなバー。
看板には、準備中の札が掛かっている。
店主の名は、
黒崎 鈴司。
親しい者からは、
ベルと呼ばれている。
鈴。
英語にすれば、ベル。
ただし。
その呼び名には、人間には知られていないもう一つの由来があった。
カウンターには、
神城 流架が座っている。
テレビでは、アメリカ全面降伏の速報が繰り返されていた。
映像には、
政府施設の前に立つ白翼の兵。
その奥を飛ぶ巨大な生物。
空には、今もヘブンズゲートが浮かんでいる。
ベルは差し出した皿の料理を、
自分の口へ放り込んだ。
「人間は、あれを天使って呼んでるみたいだな」
「あの見た目なら仕方ねえだろ」
「天兵が聞いても何も思わんだろうが」
「そりゃそうだ。あいつらに、そんなもんねえよ」
ベルはテレビを見る。
瓦礫の中を歩く、
白い翼の兵士たち。
流架たちにとっては、
見間違えるような存在ではない。
《天兵》
名前も。
自ら選ぶ意志も持たない。
神の命令を実行するための兵。
人間たちが想像する「天使」とは、
最初から違う存在だった。
画面が切り替わる。
空を飛ぶ巨大な竜。
「神獣まで連れてきやがったか」
ベルが呟く。
「ああ。異形もな」
「随分、本格的じゃねえか」
「三日でアメリカを落とすくらいにはな」
ベルの手が止まる。
「……なのに、天使は一人も出てきてねえ」
流架が言った。
「ミカエルも?」
「見てねえ」
「ガブリエルも?」
「いねえな」
「…………」
ベルが料理の乗った皿を、
静かにカウンターへ置いた。
三日三晩。
世界最強クラスの軍事力を持つ国家を相手にしたのは、
天兵。
神獣。
異形。
神の命令に従う、
天界の軍勢。
そこに。
本物の天使は、
一人もいなかった。
「親父はまだ」
流架が低く言う。
「本命を一人も出してねえよ」
店内が静まり返る。
ベルが、
やがて短く息を吐いた。
「そりゃ、まずいな」
「ああ」
流架が答える。
神が宣戦布告した日。
流架は言った。
また親父が余計なことをしている、と。
だが。
門は本当に開いた。
三日三晩戦い。
一つの大国から、
人間による統治を奪った。
「親父は本気だ」
ベルが流架を見る。
「そうか」
「ああ」
「脅しじゃない?」
「脅すだけなら、ここまでやらねえよ」
「試してる可能性は?」
「それでも同じだ」
流架はテレビを見る。
瓦礫の中を歩いていく天兵。
苦しんでいる人間がいても、
命令になければ振り返らない。
悪意すらない。
ただ、
必要がないから助けない。
「人間が何人死ぬかを、親父は気にしない」
「昔からだろ」
「ああ」
正しいと決めたことを、
神は曲げない。
その正しさによって、
どれほど多くの者が傷ついたとしても。
「昔からそうだ」
流架が吐き捨てる。
「だから、タチが悪い」
ベルはそれ以上何も言わなかった。
料理を一口。
咀嚼する。
飲み込む。
それから、
流架を見る。
「で?」
「何が」
「お前、何か決めた顔してるぞ」
「分かるか?」
「何千年の付き合いだと思ってんだ」
「数えてねえよ」
「俺もだ」
流架はカウンターへ肘を置く。
少しだけ考える。
だが。
答えは最初から決まっていた。
「ベル」
「なんだ」
「店を貸せ」
ベルが眉を上げる。
「いつ」
「明日」
「何に使う?」
流架は、
店の奥を見る。
普段は客が酒を飲み、
くだらない話をして笑う場所。
その中央には、
一つの丸いテーブルが置かれている。
「集める」
「……全員か?」
「ああ」
ベルは、
誰を、と聞かなかった。
聞く必要などなかった。
「来ると思うか?」
「来させる」
「相変わらず傲慢だな」
「今さらだろ」
ベルは大きく息を吐く。
「飯は?」
「出せ」
「酒は?」
「出せ」
「代金は?」
「人類防衛費」
「お前が決めるな」
流架は、
ほんの少し笑った。
だが。
すぐに表情を戻す。
テレビに映る、
無数の白い翼を見つめた。
「親父が本気なら」
流架は言った。
「こっちも本気で止める」
椅子から立ち上がる。
人間の名で呼ばれるようになって、
長い時間が過ぎた。
今さら。
昔の知り合いたちと顔を合わせたいとは思わない。
それでも。
人類だけでは、
あの軍勢には勝てない。
「始めるぞ、ベル」
「何を?」
流架は答えた。
「円卓会議だ」
開戦から三日。
人類は早くも、
最初の一国を失った。
そして。
人類の知らない場所で。
かつて天より地へ堕とされた者たちが、
再び集まろうとしていた。




