第一話 宣戦布告
その日、神は人類に宣戦布告した。
もちろん。
最初からそれを神だと信じた者は、そう多くなかった。
二十一世紀である。
空から声が聞こえた程度で神を信じるほど、人類は素直ではない。
むしろ最初に人々が恐れたのは、
何が起きているのか、まったく分からないことだった。
〜
「……何、あれ」
東京都内。
昼休みを迎えた街で、誰かが空を指差した。
最初は一人だった。
次に二人。
三人。
気づけば交差点を歩いていた多くの人間が足を止め、同じ場所を見上げていた。
青空に、白い線が走っている。
飛行機雲にしては妙だった。
あまりにも真っ直ぐで。
何より、少しずつ広がっている。
「……割れてない?」
誰かが言った。
その表現が、一番近かった。
亀裂だ。
まるで巨大なガラスにひびが入るように、一本だった白い亀裂が枝分かれし、青空を侵食していく。
「何だよ、これ」
「やばくない?」
「とりあえず撮っとけって!」
何十台ものスマートフォンが、一斉に空へ向けられる。
写真。
動画。
配信。
異変は瞬く間にネット上へ拡散していった。
だが。
数分もしないうちに、さらに異常な事実が判明した。
『ただいま入ってきた情報です。ニューヨーク上空でも、日本と酷似した現象が確認され――』
街頭ビジョンがニュースへ切り替わる。
映っているのは東京ではない。
それなのに。
空には、同じ亀裂が走っていた。
『ロンドンでも確認されています』
『パリでも――』
『中国からも同様の映像が――』
「……世界中?」
誰かが呟いた。
その直後だった。
音が、
消えた。
「――――」
車は走っている。
人も動いている。
信号も点滅している。
目の前では、一人の男が何かを叫んでいた。
口は動いている。
だが、何も聞こえない。
クラクションも。
電車も。
街頭ビジョンも。
スマートフォンから流れていた動画の音声すら。
何も。
東京という巨大な街から、
音だけが消え去った。
人々が混乱し始める。
耳を押さえる。
スマートフォンを確認する。
隣にいる人間へ何かを叫ぶ。
しかし、届かない。
自分の声さえ聞こえない。
完全な無音。
そして。
『人よ』
声がした。
全員が止まった。
耳から聞こえたものではない。
耳を塞いでも関係ない。
イヤホンをつけていても関係ない。
音が存在しないはずの世界で。
その声だけが、はっきりと聞こえた。
頭の中。
いや。
もっと深い場所。
自分という存在そのものへ、直接言葉を刻み込まれるようだった。
『私は、長きにわたりお前たちを見てきた』
神。
この段階で、その言葉を思い浮かべた者は、どれほどいただろう。
あまりにも非現実的だった。
世界規模の情報工作。
未知の兵器。
集団幻覚。
地球外生命体。
どれだけ馬鹿げた仮説でも、
神よりはいくらか現実的に思えた。
だが。
声は続ける。
『初め、お前たちは弱かった』
『獣に怯え』
『寒さに震え』
『僅かな病に命を奪われた』
『それでも、お前たちは生きようとした』
空の亀裂から、白い光が漏れ出す。
『火を扱った』
『言葉を生み出した』
『大地を耕した』
『海を越えた』
『病を克服した』
『やがて空を飛び』
『星々へ手を伸ばそうとするまでになった』
人々は、
ただ空を見上げていた。
『私は、お前たちを創った』
ざわめきは起こらない。
音がないのだから。
しかし、人々の表情は明らかに変わった。
『そして、お前たちに選ぶことを許した』
誰かが口を動かした。
その声は聞こえない。
けれど。
唇の動きだけなら分かった。
――神?
今度は、
それを笑う者はいなかった。
信じたわけではない。
そんな簡単に信じられるはずもない。
ただ。
否定する材料もまた、
どこにもなかった。
『私は待った』
声には、ほとんど感情がない。
『お前たちが、いつか自ら歩くことを』
『私は待った』
『お前たちが、いつか争うことをやめることを』
空が変わった。
青空を覆うように、
無数の光景が映し出される。
剣を持った兵士。
炎上する城。
大砲。
銃。
戦車。
戦闘機。
焼け落ちる街。
逃げ惑う人々。
遠い過去から現代まで。
説明される必要などなかった。
戦争。
人間が繰り返してきた、戦争だった。
『土地を求め』
『富を求め』
『民族を掲げ』
『国家を掲げ』
『思想を掲げ』
一度。
声が途切れた。
『時には、私の名さえ掲げ』
『お前たちは殺し合った』
さっきまで祈っていた老人が、
ゆっくりと顔を上げた。
『私は待った』
『百年』
『千年』
『さらに、その先も』
『だが、お前たちは変わらなかった』
空に映る光景が、
現代へ近づいていく。
『武器を捨てては、より優れた武器を作った』
『争いを終えては、新たな争いを始めた』
『平和を願いながら』
『その平和のために、また争った』
反論する声はない。
そもそも、
声を上げることすらできない。
ただ、一方的に突きつけられていく。
声の主が本当に神なのか。
それはまだ分からない。
だが。
見せられているものだけは嘘ではなかった。
それは、
人類自身が積み重ねてきた歴史だった。
『ゆえに』
空から戦争の光景が消えた。
『私は、一つの結論へ至った』
静寂。
『人よ』
『お前たちが、それほどまでに戦争を好むというのなら』
『よかろう』
そして。
『今度は』
声の主は告げた。
『私が相手をしよう』
誰も動かなかった。
言葉の意味が分からなかったわけではない。
どう理解すればいいのか、分からなかった。
人間同士の戦争を止める。
そういう意味なのかもしれない。
人類へ罰を与えるという意味かもしれない。
あるいは。
本当に。
『人類へ告ぐ』
こちらの逃げ道を塞ぐように、
声が続いた。
『これは忠告ではない』
『啓示でもない』
『裁きでもない』
『私は今ここに』
『お前たち人類へ、宣戦を布告する』
戦争。
神を名乗る何かが、
人類を相手に。
戦争をする。
まだ信じられない。
信じたくない。
そのとき。
空が震えた。
亀裂が消えていく。
代わりに、
何かが姿を現した。
巨大な柱。
純白の石。
黄金の装飾。
人間が造ったとは到底思えない、
巨大な構造物。
それが、
空中に存在していた。
――門。
誰もがそう思った。
一つではない。
東京。
ニューヨーク。
ロンドン。
パリ。
北京。
モスクワ。
そして世界各地。
巨大な門が、
次々と空に姿を現していく。
それでも。
門は開かない。
固く閉ざされたまま、
人類の頭上に浮かんでいる。
『七日を与える』
七日。
『祈るがいい』
『逃げるもいい』
『愛する者と過ごすもいい』
『軍を集めるもいい』
『新たな武器を造るもいい』
『お前たちが積み重ねてきた知恵』
『お前たちが生み出してきた武器』
『そのすべてを用いるがいい』
それまで。
どこか現実感がなかった。
神を名乗る声。
空に浮かぶ巨大な門。
あまりにも非現実的で。
悪い夢を見ているようだった。
だが。
七日。
具体的な数字が提示された瞬間。
恐怖は、
突然現実になった。
七日後。
来週には。
戦争が始まる。
『七度目の夜が明けた時』
『門は開く』
『我が軍勢は、天より地上へ降りる』
世界中で。
誰もが頭上の門を見上げていた。
『備えよ、人類』
そして。
『七日後』
『戦争を始めよう』
声が消えた。
一瞬の完全な静寂。
そして、
世界へ音が戻った。
「うわっ!」
「何だったんだよ、今の!」
「おい、門! まだ残ってるぞ!」
「ニュース見ろ! 海外にも全部出てる!」
クラクション。
電車。
悲鳴。
怒号。
スマートフォンの通知音。
テレビから流れる緊急速報。
ありとあらゆる音が、
一度に押し寄せてきた。
それでも。
ほとんどの人間は、
その場から動けなかった。
ただ、
空を見ている。
閉ざされた巨大な門を。
交差点の信号だけが、
青から赤へ変わった。
そしてまた、
青になる。
それでも誰も渡らない。
世界は終わっていない。
電気もついている。
電車も動いている。
店もある。
会社もある。
学校もある。
明日は来る。
ただし。
七日後にも同じ日常がある保証だけが、なくなっていた。
◇
『政府は現在、現象の分析を急いでいます』
『各国政府との緊急協議を――』
『宗教団体からは神による啓示だとの声明が――』
『専門家は現時点で、この存在を神と断定する根拠はないと――』
『自衛隊では警戒態勢を――』
街頭ビジョン。
テレビ。
スマートフォン。
どこを見ても同じ話題だった。
神。
七日。
戦争。
そして、
空に浮かぶ門。
世界中で、
同じ問いが繰り返されていた。
神は、本当に存在するのか。
◇
「……はぁ」
一人の男が、
人混みの中で盛大なため息をついた。
神城 流架。
街ですれ違ったところで、
わざわざ振り返る者もいない。
少なくとも、
今の彼はそういう男だった。
周囲では誰もがスマートフォンを握りしめ、
頭上に浮かぶ巨大な門を見上げている。
「一週間後に世界が終わるのかな……」
「てか明日、学校あんの?」
「そこ気にする?」
「いや、だって休校なら連絡来るだろ」
そんな会話が聞こえてくる。
ついさっき。
神を名乗る何かが、
人類へ宣戦布告したばかりだというのに。
それでも人間は、
明日の学校や仕事を気にしている。
流架はほんの少しだけ、
口元を緩めた。
それから、
再び空を見る。
巨大な門。
驚きはなかった。
恐怖も。
ただ、
心底面倒そうな顔をしていた。
「……また親父は」
流架は頭を掻いた。
「余計なことしやがって」
世界中の人間が、
同じ疑問を抱いている。
あの声の主は、本当に神なのか。
七日後、
本当に天から軍勢がやってくるのか。
誰にも分からない。
ただ一人。
神城 流架を除いては。
あの声を、
聞き間違えるはずがない。
どれだけ長い間、
聞いていなかったとしても。
「変わってねえな、親父」
流架は、
空に浮かぶ巨大な門を見上げた。
世界中の人間が、
神の存在を疑っている。
そんな中。
彼だけは、
神が存在することなど一度も疑っていなかった。
何しろ。
ずっと昔から、
知っている。
開戦まで、
あと七日。




