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いしいしんじ「調律師のるみ子さん」④

「これじゃあピアノがかわいそうです。あなたは本当のところ、ピアノのことが、あまりお好きではないようですね」という老人の言葉に、「憤然として」帰るるみ子さんだった。初めて他者から、核心・痛いところを突かれてしまったからだ。


 「それから何日も雨が続」く。「仕事に出てもピアノの音が、なんだかくぐもって聞こえ」る。「首根っこが重く、食欲もない」。「るみ子さんは三件続けて注文を断」る。老人の言葉がよほど効いたと思われる。これまでの人生、判断への問いかけに、るみ子さんの心が揺らぐ。

 やがて彼女の心の中で、老人の言葉は反転する。「あなたは本当は、ピアノが好きなんでしょう。ビアノを労(いたわ)り愛していたはずた」と。自問するるみ子さん。

 そんな彼女の心を「たたく」ように、「雨音が家中に響」く。これは批判ではなく励ましだ。


 「薄曇りの夕方」(それは彼女の心模様と同じだ)、「ドアベルが鳴」る。届いたのは、「請求書の束と小包」。「請求書の束」は、彼女が稼いで生きなければならないことを表す。いま彼女に出来る方法はやはり、調律師の仕事だろう。「小包の差出人には見覚えがない」。「香ばしい匂い」に「添えられた手紙を開いた途端、るみ子さんは大きく息をの」む。

 「十年前のお礼から、その手紙は始まって」いた。以前述べられた、「事故」と「十年前に手指を失い」の詳細が、手紙によって明らかになる。


 「転覆した電車の中」でるみ子さんは、「見ず知らずの」「小学生だった私(手紙の差出人)」を助けたこと。これによって彼女は手指を失ったのだろう。「お怪我は大丈夫だったでしょうか」とあるから、相手はるみ子さんの手指の欠損を知らないでいる。るみ子さんが知らせていないのだろう。  

 「私のやけどはその後なんとか安定し、今年の春、調理師の免状をいただくことができました」からは、るみ子さんの大けがに対し、そうしてそれゆえに、相手の小学生は重いやけどで済んだこと。るみ子さんの大けがから推測するに、彼女が身を挺してかばうか助けなければ、小学生は命にかかわる状況になっただろう。やけどにもめげず、調理師として人生の一歩を踏み出そうとしている差出人。


 「香ばしい匂い」のもとは、チョコレートケーキだった。それは、「今私ができるせめてものお礼」で、「スポンジのつなぎにちょっぴり工夫を凝らしてあります」。ただのケーキではなく、「ちょっぴり工夫を凝らし」たもの。そこにはるみ子さんへの感謝の思いが含まれ、工夫を凝らすことができるまで心と体が回復したことが示される。また、少しのウイットも感じられる表現だ。

 ケーキのスポンジ生地の基本材料は、卵、砂糖、小麦粉、バターや牛乳等で、卵を泡立てて空気を含ませ、その泡を小麦粉で支えることでふんわりした食感を作る。「つなぎ」は、材料同士を結びつけてまとまりを良くする役割の材料を指す。そのため、「スポンジのつなぎにちょっぴり工夫を凝らしてあります」という表現を文字どおり解釈すると、ほんの少量のはちみつを入れてしっとり感を出したり、卵黄を少し多くしてコクを出すといった、食べた人にはっきりとした理由は分からないが、「なんだかいつもよりおいしい」と感じる工夫を指しているのだろう。ケーキ職人的な隠し技のニュアンスが感じられる表現だ。


 「ちょっぴり」の「工夫」。手紙の差出人の場合は、食べた人にすぐには分からない程度の小さな改良。るみ子さんの場合は、聞いた人にはすぐ分からない程度の小さな改悪。このふたりが自分の仕事や人生に向き合うベクトルは、正反対だ。積極的と消極的、前向きと後ろ向き。ケーキを一口食べるごとにるみ子さんは、そのことに気付くだろう。

 だからこのチョコレートケーキは、「工夫」された味によってるみ子さんを励ましているのだ。

 老人の言葉はるみ子さんを打った。チョコレートケーキはるみ子さんを励ました。


 料理は人の口に入り、その人の体の栄養になる。音楽は人の耳に入り、その人の心の栄養になる。だから少しでも人の幸せにつながるように、料理人も音楽家も「工夫」する。料理にまじめに向き合おうとするかつての小学生。それに対し今の自分は何なのだろう。るみ子さんはそう思っただろう。


 「つなぎ」の「工夫」とは、人の目に見えない工夫だ。外観を派手に飾り立てるのではなく、中身を充実させようとするかつての小学生。目立たないところに手間をかける心配り・姿勢。

 ピアニストの夢を絶たれたうえに、人から見えやすい手指を二本も失ってしまった。運命とはかくも残酷なものなのかと、るみ子さんは神を呪っただろう。その鬱憤を晴らすために、わざと一音、人に知られぬほどかすかに、いらぬ「工夫」をし音を外し続けていた。これからも自分はそれを続けていくのか。恨みに沈み、馬鹿な復讐をピアノと他人に施していた自分の人生とは何だったのか。


 ここにるみ子さんの「38歳」という設定が効いてくるだろう。彼女は人生の途中にあり、意志があればまだやり直せる。(人は何歳からでもやり直せるだろうが)

 手紙の最後は、「本当に、本当にありがとうございました」という感謝で結ばれていた。


(つづく)



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