いしいしんじ「調律師のるみ子さん」③
とある週末、るみ子さんは紹介を受け、街はずれの邸宅を訪ねる。塀は公園のように延々と続き、やっとたどり着いた玄関には「白髪の小柄な老人が一人、黙りこくって立って」いた。老人は「口を結んだまま廊下を進み、じゅうたん敷きの居間に入ると、年季の入ったグランドピアノを指さし」た。
大邸宅に住む裕福な老人。るみ子さんとの会話が無いのは、その高慢な性格からなのか。グランドピアノもさぞかし高価なものだろう。この老人はピアノを弾くのだろうか。
相手の横柄とも取れる態度を気にせず、「るみ子さんは一つうなずくと音叉を出し、調律を始めました」。紹介を受けた仕事ということもあるだろう。
「老人は杖を突き、居間を出たり入ったりしています。どうやら目がほとんど見えないようです」。
老人のこの行動の理由は、二つ考えられる。一つは、とても大切にしているピアノだから、その調律を初めての調律師に任せることの不安。もう一つは、腕の良い調律師だと聞いていたのに、そうではないことに気づき落ち着かない様子。いかにもヨボヨボの老人だが、まだその正体は不明だ。
老人は、「どうやら目がほとんど見えないよう」だった。かつてはそのピアノの演奏を楽しんでいたのか。それとも家族の誰かの演奏を楽しんでいたのか。
視覚の制限は、他の感覚器官を鋭くさせるだろう。実際にこの後、老人の耳は確かであることが描かれる。
「三十分ほどたったでしょうか、るみ子さんは老人を振り向き、
「終わりました」
と声をかけました。老人は立ち止まり、
「あなた、ご冗談でしょう?」
と答えました。
「全然音が違っていますよ」」
グランドピアノの調律の所要時間は、一般的に1~2時間程度だという。だから、るみ子さんの手際・腕の良さがうかがえる。耳だけでなく、調律師としても優秀なるみ子さん。また、いつものように、客は笑顔を浮かべているだろう。
しかし彼女の期待は裏切られる。「終わりました」と声をかけられた老人は立ち止まり、まだ調律は済んでいないと指摘する。老人が「立ち止ま」った・それまで歩き続けていた、ということは、彼はまだ調律が終了していないと思っていたからだ。そこに・それなのにるみ子さんから終了を告げられたので、思わず「ご冗談でしょう」と答えたのだ。
「杖を突き」、「目がほとんど見えない」ようだが、「全然音が違っていますよ」と指摘する老人の耳は確かだった。
老人の言葉に、「頬を打たれたような表情」になったるみ子さん。
ヨボヨボで、おそらく耳も遠くなっているだろう。ピアノの音など聞き分けられるまい、と踏んでいただろう彼女は、慌てただろう。ほかの客は誰も聞き分けられなかったほんのわずかな調律の違い。まさかこんな爺さんにそれを指摘されるなんて。その驚きが、彼女の表情を思わず「頬を打たれたよう」にしたのだった。老人は言葉で彼女をたしなめたのだ。
「今度は慎重に、きわめて念入りに音を合わせました。鍵盤中央のA音もです。
「これでいかがでしょうか」
「お話になりませんな」
老人は細い肩をすくめて言いました」。
調律は完璧だ。今度はちゃんと仕事をこなした。そう思っていたるみ子さんを、再び老人の言葉が打つ。しかも、あきれてものも言えないという様子。
「でも」「音は全部合っていますよ」と「真っ赤になって」こたえる彼女に、老人は首を振る。
「これじゃあピアノがかわいそうです。あなたは本当のところ、ピアノのことが、あまりお好きではないようですね」
老人のこのつぶやきは、物語のテーマに重なる重要な言葉だ。老人は、自分のピアノを調律する音を聞いただけで、るみ子さんという人を見抜いた。
るみ子さんにしてみれば、今度は完璧に調律した。その仕事にスキはないはずだ。それなのにこの老人は認めてくれない。それはなぜなのか。それに、音のズレだけでなく、自分のピアノへの好悪まで指摘するなんて。
調律を聞いていた老人は、るみ子さんのピアノへの向き合い方に疑念を抱いたのだ。「腕のいい方と伺って」いたのに、何かが違う。彼女からは、ピアノへの愛が感じられない。そのことに老人は気付いたのだった。
老人の、「全然音が違っていますよ」という言葉には、深い意味が込められている。彼が指摘しているのは、単なる音のズレではない。
(つづく)
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