いしいしんじ「調律師のるみ子さん」②
「事故に遭う前から、るみ子さんの耳は評判でした」。
るみ子さんの右手の欠損は、おそらく「事故」によるのだろう。その前から評判だった耳。
「音楽大学の発表会で、ピアノ曲の演奏途中、突然曲をやめ、黙々と調律を始めたことがあります」。
るみ子さんは音楽大学に入り、ピアノを専攻していた。ピアニストにとって右手の人さし指と中指はよく使用する大事な指だ。それを「事故」で失った彼女には、絶望が襲っただろう。
「音楽大学の発表会で、ピアノ曲の演奏」を「途中」で「突然」「やめ」ることはふつうあり得ない。何が何でも、どんなことがあっても終わりまで引き続けるのがピアニストだ。客席にはお客さんが座っている。みな、音楽を愛する人たちだ。それを無視し、「曲をやめ」るどころか、「黙々と調律を始め」るなど、正気の沙汰とは思えない。
つまりるみ子さんは、音の狂いが何よりも許せない人なのだ。「音楽大学の発表会」、「演奏途中、突然曲をやめ」、客前にもかかわらず「調律」を選択する人。そんな人が調律師となり、わざと一音外すなどふつうありえない。彼女がなぜそんなことをしているのかの理由を求めて、読者はこの後の物語をたどる。
「十年前に手指を失い、調律師の職に就きました」。
この説明により、るみ子さんの事情を、読者は知る。先に出てきた「事故」という情報も併せ、「十年前」の「事故」によって大事な「手指を失い」、仕方なく「調律師の職に就」いたるみ子さん。まだ若い28歳当時、彼女は駆け出しのピアニストだっただろう。突然将来の希望が断たれた悲しみが慮られる。彼女にとって調律師は、不本意な職業ということになる。以前のように自由自在にピアノを弾くことは永遠にできなくなってしまった。しかしせめて調律師として大好きなピアノにかかわっていたい。そのような思いからその職に就いたことが予想される。
しかし彼女の仕事への態度は、まったくもって不誠実だ。かつての自分と同じようにピアノを愛するがゆえに調律を依頼してくる客に対し、その期待に真っ向から抗う仕事ぶり。後に出てくる老人のセリフだが、「これじゃあピアノがかわいそうです」。
わざと一音狂わせることにより、「仕事の注文が途絶えることは」ない。さらに彼女には、その心の嵐とは正反対の「穏やかそうな容貌」があり、「確かな耳」がある。客を欺き、ピアノを欺くるみ子さん。
るみ子さんの物語は続きます。




