いしいしんじ「調律師のるみ子さん」解説①
この物語の題名は、「るみ子」ではなく「るみ子さん」と敬称がつけられている。「調律師のるみ子」と「調律師のるみ子さん」とでは、だいぶ聞いた印象が異なる。ここには語り手の「るみ子さん」へのある感情が含まれる。「るみ子さん」は語り手に愛されているのだ。
◇るみ子さんについての情報(冒頭部分)
・38歳
・女性
・ピアノの調律師
・「ピアノのチューニングを、いつも一音、わずかだけ外して」おく。それも「鍵盤中央のA音」。「客には全く聞き分けられないほどほんのわずか」。
わずかな情報だが、この裏側・背景への読者の想像はたくましくなるだろう。女性の38歳といえば、家庭を持ち、または独身のままで、子がおり、またはおらず、子を望んでいるとすれば焦りだす時期か。夫との関係性の変化、独身を貫くかどうかの判断、子を持つかどうかの判断、仕事をしていれば、そろそろ責任ある立場になっている。これらの、自身と他者にかかわる人生設計をどうするのか・どうなるのか。女性にとっては悩み多き年齢だ。人生における中間地点の一つだろう。
るみ子さんは手に職を持っている。ピアノの調律師の報酬は、それほど多くはないだろうが、彼女には仕事の依頼が継続する秘密がある。それは、チューニングをわざと一音だけ外していたことだ。
調律師は、一般的に、音楽やピアノが好きな人が専門技術で生計を立てる職業だろう。それなのになぜか外される一音。客へのいじわる・いやがらせか、仕事の継続のためか、それとも他の理由からか。プロ失格の不誠実な態度には、彼女なりの理由があった。
「鍵盤中央のA音」とはラの音で、楽器の音合わせ(チューニング)で最もよく使われる基準音。オーケストラでは演奏前にオーボエがAを出し、それに他の楽器が合わせることが多い。したがってるみ子さんは、最も外してはいけない音をわざと外していることになる。しかも「客には全く聞き分けられないほどほんのわずか」。どの客のピアノも。周到な悪意を感じる場面だ。
続く場面。
仕事が終わると、まあ、まるで新品にでもなったみたい、客は晴れやかな笑みで、るみ子さんの手を取ろうとする。そしてはっとします。手袋をはずしたるみ子さんの右手には、人さし指と中指がありません。
「客」と同時・同様に、読者も非常に驚く場面。
るみ子さんほどの鋭敏な音感を持ち合わせていない客たちは、決まってこの儀式に付き合わされるのだろう。自分のピアノが素晴らしく調律された喜び、それをなしたるみ子さんへの感動・感謝。それらの幸福感が、わざと手袋をはずして差し出された右手によって、無残にも打ち砕かれる。感謝が一瞬にして暗い驚きに変わり、客は差し出した自分の右手の扱いに困っただろう。
さきほど「儀式」と述べたが、るみ子さんはどの客にもわざと同じようにこの一連の流れを行い、心の中で相手の変化を楽しんでいたのだろう。若い女性が自分の体の欠損を他人に見せるという行為は、ふつう行わない。しかもるみ子さんの場合は、それがわざと行われている。そこに深い心の闇が感じられる。
手袋は、客のピアノを大切に扱うためだし、それを外すのは握手の時の礼儀だ。しかしここではこの二つのあたりまえのことが、逆に客を驚かせる装置として働いている。だから、るみ子さんはわざとこうしている。
差し出されたるみ子さんの右手。それを先に握ろうとしたのは、客の方。この二者に握手は成立しなかっただろう。それがかえって気まずさを増幅する。
これらすべてをるみ子さんは計算ずくで行っているのだ。客の「晴れやかな笑み」を一瞬にして暗黒へ突き落するみ子さん。
るみ子さんの演技的行為・演出はまだ続く。
るみ子さんは腰をかがめ、時計の針のようなお辞儀をすると、道具かばんを提げて玄関を出ていきます。
るみ子さんのこの機械的なお辞儀は、客の驚嘆などまったく気にしていないことの表現、表面的には正確な仕事が終わり報酬を得たことの律儀な感謝など、様々な感情を表している。これが客にとっては、まるで機械の針のような動きで印象付けられる。ただ仕事をきっちりやり終えたという様子をるみ子さんは表し、それを客も感じる。
まだ若い女性が、右手の指を二本も失っている事実は、彼女の心と人生に暗い影を落としているだろう。なぜ指を失ったのか、生まれつきなのか、その職業にとって特に大切な指が無いのに、どうして調律師の職に就いたのか。もしくはだからこそその職を選んだのか。
このように、様々な疑問が読者には浮かぶ。
るみ子さんの物語は次回に続きます。
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