第六話 俺がフィーネを望んだ」
その日から、社交界で妙な噂を耳にするようになった。
王太子夫妻が寝室を共にしたのは、初夜の間から出るためだけ。
アルベリクが愛しているのはロゼリンドで、フィーネとの離縁を今も望んでいる。
異国の王女が、誓約魔法を利用して王太子を寝台へ引きずり込んだ。
夜会ではフィーネの衣装が故国風で野暮だと笑われ、茶会ではロゼリンドと親しい令嬢たちから、聞こえよがしに同情された。
「愛されない妻というのも、おつらいでしょうね」
「王太子妃殿下でしたら、お立場だけでも満足なさるべきでは?」
フィーネは笑顔で受け流した。
しかし、平気なわけではない。
アルベリクが植えさせた青い花を見るたび、期待が生まれる。
その直後に、彼がかつてロゼリンドを本命と呼んだ声を思い出す。
ある日、フィーネのもとへ一通の手紙が届いた。
『今夜の夜会には出席しなくてよい。体調不良として部屋で休め』
差出人はアルベリクとなっている。
けれど、彼はフィーネへ命令するときでさえ、理由を伝える。説明もなく部屋へ閉じ込めようとする書き方には、違和感があった。
フィーネは手紙を持って執務室へ向かった。
「この手紙をお書きになりましたか」
「書いていない。封蝋も、王太子家のものを似せただけだ」
「やはり、そうでしたか」
「誰が持ってきた」
「今朝から姿を見せない侍女です。半月ほど前に、別の部署から移ってまいりました」
アルベリクは侍従長を呼び、手紙を渡した。
「すぐに調べろ。ほかにも同じ封蝋を使った手紙がないか確認しろ」
「かしこまりました」
侍従長が出ていくと、アルベリクはフィーネの前へ立った。
「なぜ、今まで黙っていた」
「何をでしょう」
「衣装を笑われたことも、根も葉もない噂を流されていることも、俺の耳へ入っている」
「殿下がお忙しいことは承知しております」
「だからといって、お前が一人で耐える理由にはならない」
肩へ伸びてきた手が、また途中で止まる。
フィーネはその手を見つめた。
「殿下は、いつもそこで止めてしまわれますね」
「……何?」
「初夜のあと、一度もわたくしに触れてくださいません」
言ってから、頬が燃えるように熱くなった。
アルベリクは目を見開き、ゆっくり手を下ろした。
「触れてほしいのか」
「そのような質問へ答えられるほど、厚顔ではございません」
「フィーネ」
「今夜の夜会には出席いたします。偽の手紙を送った方の望みどおり、部屋へ閉じこもるつもりはございません」
逃げるように踵を返す。
扉へ手をかけたところで、背後から声が届いた。
「触れれば、もう止まれない」
フィーネの指先が固まった。
「あの夜は、部屋から出るためだという名目があった。次にお前へ触れるときは、俺自身の望みを伝えてからにしたい」
振り返る勇気はなかった。
フィーネは熱くなった頬を隠したまま、執務室を出た。
その夜の夜会で、アルベリクはフィーネの手を取り、広間の中央へ進んだ。
楽団が緩やかな曲を奏で始める。
アルベリクの手が腰へ添えられた瞬間、昼間の言葉がよみがえった。
触れれば、もう止まれない。
フィーネの足がわずかに乱れる。
「どうした」
「何でもございません」
「顔が赤い」
「殿下のせいです」
アルベリクは意味に気づいたのか、視線を泳がせた。
曲が終わり、二人が礼を交わす。
そのとき、貴族たちの間を押し分けるように、一人の令嬢が進み出た。
淡い金髪に、深紅のドレス。
フィーネは肖像画でしか見たことがなかったが、すぐにロゼリンドだと分かった。
「殿下!」
広間中の視線が集まる。
ロゼリンドは頬を紅潮させ、フィーネをにらみつけた。
「どうして、その女と踊っていらっしゃるのですか」
「フィーネは俺の妻だ。妻と踊ることに、君の許可が必要なのか」
「妻だなんて……形だけでしょう?」
ざわめきが広がる。
ロゼリンドは鞄から手紙を取り出し、高く掲げた。
「殿下は、わたくしに約束してくださいました。この結婚は両国のために受け入れるだけだと。王女とは白い結婚を貫き、すぐに離縁すると!」
フィーネの指先から、血の気が引いていく。
すべて事実だ。
ロゼリンドが持つ手紙には、アルベリクの署名もあるのだろう。
「仰っていたではありませんか。隣国から押しつけられた結婚など、うんざりだと!」
「……ああ。うんざりしている」
アルベリクの声が、広間へ静かに響いた。
ロゼリンドの顔に、勝ち誇った笑みが広がる。
「ほら、ご覧なさい!」
「妻を知ろうともせず、君に期待を持たせた、あの日の自分にな」
ロゼリンドの笑みが凍りついた。
アルベリクはフィーネの手を取り、指を絡めた。
「君に期待を持たせた責任は、俺にある。婚礼の翌日、約束を取り消すと伝えたときにも謝罪した」
「わたくしは認めておりません!」
「君の許可を求めたのではない。俺にはもう、君を待たせる意志がないと告げた」
「その女が、初夜の間で殿下を誘惑したからでしょう!」
「違う。あの部屋の魔法は、互いに望まなければ解けない」
夜会の広間が静まり返る。
アルベリクは一瞬だけ目を閉じ、覚悟を決めたように続けた。
「俺がフィーネを望んだ」
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