第四話 もう一度、言葉にしてください
二人の間に、思いがけず笑い声が落ちた。
それから、互いの国の話をした。
フィーネの故国では冬になると城の屋根まで雪に埋もれること。幼い頃のアルベリクが剣術の稽古から逃げ、厩舎へ隠れていたこと。フィーネが三つの国の言葉を話せること。アルベリクが甘い菓子を好むくせに、誰にも知られないよう厨房から取り寄せていること。
気づけば、暖炉の薪は半分ほど燃え尽きていた。
「そろそろ休むか」
アルベリクが長椅子へ向かおうとする。
壁際に置かれている長椅子は、成人男性が横になるには明らかに短い。背の高いアルベリクでは、膝から下がはみ出すだろう。
「殿下も寝台をお使いください」
「しかし」
「こちらは十分に広いです。今さら、隣で眠った程度では驚きません」
「俺は驚く」
「先ほどは、あれほど熱心に口づけなさったのに?」
「フィーネ」
「試験でしたね。失礼いたしました」
アルベリクは額に手を当てた。
「お前は、どこでそのような性格を身につけた」
「この国へ着くまでは、もう少しおとなしい王女だったはずなのですが」
「俺とこの部屋のせいか」
「どちらも同じ王家の問題です」
「……長椅子で寝る」
「お好きになさってください」
フィーネは先に寝台へ入り、アルベリクへ背を向けた。
しばらく衣擦れの音がしていたが、やがてアルベリクも寝台の反対側へ横になった。
「長椅子では?」
「壁を壊す前に、身体を壊したくない」
「賢明なご判断です」
天蓋の向こうで、蝋燭の炎が揺れている。
二人の間には、大人がもう一人眠れそうなほどの距離があった。
それでも、眠気は訪れない。
先ほど重ねた唇の感触が、まだ残っている。
「フィーネ」
「はい」
「眠れないのか」
「殿下も起きていらしたのですね」
「ああ」
寝返りを打つ衣擦れの音がした。
フィーネも横を向く。
薄闇の中で、アルベリクと向かい合った。
「先ほどの質問だが」
「どの質問でしょう」
「扉を開けるために、どこまで必要なのか」
「はい」
「答えは、分かっているのだろう」
フィーネは目を伏せた。
「おそらくは」
「俺もだ」
アルベリクの手が伸び、頬へかかった髪をすくう。
指先が肌へ触れる寸前で、その手は止まった。
「このまま朝まで待つ。お前が気にする必要はない」
「本当に壁を壊すおつもりですか」
「扉と壁が駄目なら、天井でも床でも壊す」
「王宮が大変なことになりそうですね」
「修繕費なら俺が払う」
「王太子殿下のお金は、国のお金では?」
「個人資産から出す」
「よほど抱きたくない妻なのですね」
アルベリクの顔が強張った。
「違う」
「では、なぜ」
「お前を扉の鍵にしたくないからだ」
低い声が、胸の奥まで届いた。
「もし俺がお前に触れるなら、この部屋に命じられたからではなく、俺自身が望んだときでなければならない。お前にも同じ気持ちがなければ、何もしない」
フィーネは頬に触れる寸前で止まった手へ、自分の手を重ねた。
「殿下。わたくしは今、壁を壊すよりも簡単だから、殿下を選ぼうとしているのではございません」
「フィーネ?」
「先ほど口づけをしたとき、扉が開かなかったことを、少し嬉しく思いました」
アルベリクの瞳が揺れる。
「もう一度、殿下に触れていただく理由ができたからです」
「それは……」
「ですから、わたくしも選びます。壁ではなく、殿下を」
アルベリクの呼吸が止まった。
「後悔しないか」
「殿下こそ、ロゼリンド様がおられるのでしょう」
「明日、俺から話す。彼女を待たせると約束しながら、別の女性を望むような男に、彼女を迎える資格はない」
「わたくしのために、ロゼリンド様を捨てないでください」
「これは俺自身の責任だ。お前を言い訳にはしない」
「では、もう一度、言葉にしてください」
「何を」
「扉を開けるためではなく、今、わたくしに触れたいと」
アルベリクの手が、今度こそフィーネの頬へ触れた。
「今、俺がお前に触れたい」
「……わたくしもです」
胸の奥で、鼓動が大きく跳ねる。
次の瞬間、唇が重なった。
最初は確かめるような口づけだった。
けれど、フィーネがアルベリクの胸元をつかむと、背中へ回された腕に力がこもる。
身体が引き寄せられ、薄い夜着越しに互いの熱が伝わった。吐息が混じり、葡萄酒の甘い香りが鼻を抜ける。
「フィーネ。まだ、戻れる」
「戻りたいと申し上げた覚えはございません」
「……本当に、容赦がないな」
低い声に笑いが混じる。
アルベリクはフィーネの額へ唇を寄せ、それからもう一度、深く口づけた。
石板に刻まれた文言を、二人とも忘れたわけではない。
けれど、その夜に交わしたものは、扉を開けるための代償ではなかった。
二人は互いを望み、夫婦として最初の夜を迎えた。
やがて静まり返った室内に、かちり、と小さな音が響いた。
フィーネとアルベリクは、寝台の中で顔を見合わせる。
「……開きましたね」
「ああ」
「本当に、あれを確認するためだけの部屋だったのですね」
「頼むから、今は何も言わないでくれ」
「ご先祖様は、よほど王家の後継者が心配だったのでしょうか」
「フィーネ」
「はい」
「今すぐもう一度、口を塞いでもいいか」
「扉はもう開いていますよ」
「分かっている」
アルベリクの腕が、フィーネの腰へ回る。
今度の口づけには、扉を開けるという口実すら必要なかった。
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