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第33話

 ドゥパルドは焦っていた。

 

 自分がなぜここにいるのか、そしてサイバルダ院長がなぜここにいるのか。事態は彼の想像をはるかに超えていた。

 

 いや、ドゥパルド自身はともかく、サイバルダ院長がここにいるのは意外なことではない。院長は常に自らの責任から目を背けず、事態の正面に立ち続ける。偉大なる現場主義者、生まれついてのリーダーだ。ドゥパルドからすればその行動原理は理解できないが、それだけに尊敬もしていた。

 

 ドゥパルドの心に焦りを生んでいるのは、「そのサイバルダ院長が出てくるほどの重大事態なのに、なぜ自分はその院長の脇にいるのか」という事実だった。魔術院の隅っこで内勤に精を出し、終業後のお楽しみのためだけに生きてきた自分が、なぜこんな鉄火場に。今すぐにでも、暗く静かで湿っぽい、石造りの執務室に戻りたい。

 

 彼にとって、『壁崩落』はあくまで書類の上での出来事だった。書式を確かめ、報告を受領し、誤字脱字なく整えられた書類を台帳に収める。はるか頭上から崩れ落ちてきた『壁』に押しつぶされた家屋を縫って歩くまで、ドゥパルドにとってそれは現実のことではなかった。

 

 サイバルダ院長の後を追ってここまで来る間にも、何体もの人間の死体、さらに何体ものよくわからない生き物の死体を見た。『壁』の内側しか知らないドゥパルドにとって、「人間の死」自体があり得ざる非日常だ。もちろん、「よくわからない生き物」については、ドゥパルドの理解をはるかに超えている。ドゥパルドは自分のブーツの底に、死んだ「生き物」のぬめつく脂がこびりついているのを思い出して吐き気を催した。

 

 次から次へと噴き出してくる汗にローブを濡らしながら、ドゥパルドは落ち着きなく視線をさまよわせる。圧倒的な存在感でその場に立つサイバルダ院長に対峙しているのは、魔術師メイジのキディアスと二人の男。ひとりは見覚えがある、ダンスとかいう名前のはずだ。もうひとりの背の高い若者にも、どこかで会っていたかもしれない。ドゥパルドはあいまいな記憶をたどるが、そこには何の正解も見つからない。

 

「それで、ダンス君。私はいつ、君の意見を求めたかね?」


 サイバルダ院長はそういうと、丁重にダンスに視線を向けた。ドゥパルドは震えあがった。サイバルダ院長にあの調子で言葉を向けられると、魔術院においては精神的な処刑を意味する。

 

「おれは自分が言いたいときに声を上げるし、意見したいときに意見する。院長、おれたちは自分の命を賭けて任務に当たっているんだ。何を言われたって、はいそうですかと黙りはしない」


 ダンスは決然と言い放った。ドゥパルドは目を見張る。魔術院の暗い通路から細々と立ちのぼる不平不満、じめじめした石畳に生える苔とは違い、ダンスの言葉には深く大地に根を張る強さがあった。

 

「『壁』を守るというが、それは何のためだ。人間を守るために『壁』を守るんじゃないのか」


「その通り。『壁』は人間を守っている。だから、『壁』を守ることは人間を守ることと同じだ。子供でも知っているだろう」


「あんた、ここまでこの倉庫街を歩いてきたな。死体も見ただろう。おれは、変貌しても死にきれない子供にとどめを刺しもした。それでもあんたはそう言うのか」


「もちろんだ。もし『壁』がなかったら、そもそもこの街自体が存在していない。街と、そのなかで暮らす人々すべては『壁』に守られている。不運にも今日ここで命を落とした人々は、『壁』があるからこそ今日まで生き延びることができたのだよ」


「それでもおれは、今日ここで死んだ人たちを見殺しにはできない」


 ダンスがそう言い切ると、サイバルダ院長は右の眉をキュッと引き上げた。

 

「ほう。それでは君は、これまでここで生まれて人生を終えた人々と、これからこの街で生まれ育っていくまだ生まれぬ生命、これらすべてよりも、今日不運に見舞われた人々を優先せよというのかね」


「いい加減詭弁を弄するのはやめていただきたい、院長」


 声の主はローブのフードを下ろすと、銀の髪と金色の肌を太陽のもとに晒した。金の瞳が、陽射しを受けてきらめく。


「あなたの理屈は、『壁』が本当に我々を守っているときにのみ成立する。だが、台帳に記録された事実と私が見た真実は、その前提が嘘だと証拠立てている」


 キディアスはいったん言葉を切り、静かに呼吸を整えた。

 

「『壁』は80年以上修復されていない。『壁』を修復する礼式はもはや機能していない。それでも我々魔術院は、『壁』を維持管理していると信じ込まされてきた。そんなものが、本当に人間を守っているのか?」


「もっと言おう。『壁』の外にも人間が住み、村を作り、生活を営んでいる。つまり、『壁』に守られなくても人間は暮らしていけるんだ。そして院長、あなたはそれをご存じのはずだ」


「ほう」


 キディアスの言葉に黙って耳を傾けていたサイバルダ院長が、穏やかに問い返す。

 

「私が何を知っている、というのかね?」



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