第34話
「『壁』は人間を守るどころか危険だ、ということをですよ。そもそも街にこれだけの損害が出ているんだ」
そうキディアスは言い募るが、サイバルダ院長の表情は小揺ぎもしない。ドゥパルドは小鼻を膨らませると、キディアスの焦りを嗅ぎつけた。院長の勝ちだ。
「キディアス。気づいているか?君は先ほどから同じことを繰り返しているだけだ。それで私を説得できると思っているのかね? これだ、という証拠を出してこないと、議論にもならない」
サイバルダの言葉にははっきりと余裕が感じられる。勝利を確信した彼が攻勢に転じようとしたその時、それまで押し黙っていたパディルが立ち上がった。
「『壁』は危険だ。おれの左腕が証拠だよ」
パディルは上衣の袖をまくり上げると、両腕を並べて顔の前に突き出した。
「見えるか?院長。おれの左腕は、『壁』を抜けそこなってこうなった」
しなやかでいながら力強い右腕に対し、左腕は枯れ枝のようにしなびて変色し、関節部分だけがゴツゴツと節くれだっている。
サイバルダの視線はパディルの左腕の上に止まっている。あれほどなめらかに回っていた舌も動きを止めていた。
次に口を開いたのはダンスだった。
「パディルはおれが知っている中でも腕利きの射手だった。だが『壁』のせいで、子供と弓勝負をしても満足に戦えなくなってしまった」
この言い方はパディルからもドルグからも異議が出そうだな、と思いながら、ダンスは言葉を続ける。
「『壁』を越えるときに、パディルはつまづいて転んだんだよ。そのとき、『壁』の中に体半分残ったんだ。あの左腕は、あれからずっとそうだ。何日も経つが、一向に回復する様子はない」
「……痛ましい事故だな。だが、事故は事故だ。必要なら、『壁』に関する付帯事項として記録しておこう。しかし、それが『壁』の危険性を示していると、どうして言えるのかね」
サイバルダはやっと言葉を絞り出した。
「あんたたちが、このことを台帳にどう記録しようが構わない。事故だろうと喪失だろうと回復だろうと、好きにすればいい。だが、パディルの左腕は『壁』のせいでこうなった。その事実は動かない」
ダンスの言葉が落ちると、その場を静寂が支配した。形勢の変化を感じとったキディアスが再び顔を上げる。
「院長、ダンスの言うとおりです。魔術院が台帳に何を書こうが書くまいが、死者は蘇らないし失ったものは戻らない。『壁』が街の真ん中で崩れた今、そんなことではごまかしきれない」
「私がやっていることが、ごまかしだと言うのか」
サイバルダの口調からは、かすかな怒気が感じられた。
「私は街を守っている。それが目的だ、それが全てなのだ。君たちは何が望みだ? 君たちが信じる真実というやつを市民にぶちまけることかね? それで誰が救われるというのだ。教えてくれキディアス。君が求める先には何があるのだ?」
一気に吐き出すと、サイバルダ院長は持ち前の冷静さを取り戻した。
「キディアス・バル=スルミドカス。予告していた通り、君を配置転換する。内勤だ、もう『壁』の謎とやらを気にする必要はなくなる」
「院長」
キディアスは動じない。サイバルダのその言葉を、まるで待っていたかのように応じた。
「私は街を出ます。もう魔術院のために働くことはない。魔術師の地位も捨てる。街の外には世界があった。あそこには、記録に残されていない何かがある」
キディアスはそういうと、肩の留め金を外し、魔術師の証であるローブを脱ぎ捨てた。ドゥパルドは愕然とした。街の外だって? 『壁』の外には化け物がうろつく荒野しかないのに。キディアスは何をするつもりなんだ?
「奇遇だな。おれも街から出ようと思ってたんだ」
「おれもだぜ、ダンスのおっさん」
ダンスとパディルは、ニヤリと笑って顔を見合わせた。サイバルダは苦虫を噛み潰したような顔で黙りこくっている。ドゥパルドの視線は4人の顔の上を忙しくさまよっていた。
「それともう一つ。私の名はもうキディアスではない。この名前は、魔術師としての名だ。今からは……そうだな、キッドとでも呼んでくれ」
キディアス改めキッドは、ダンスとパディルを振り返るとそう言った。
「わかったぜ、キッドの姉ちゃん」
「じゃあ行こうか、キッド」
そう応じると、ダンスとパディルは荷物を背負い直した。キッドはサイバルダとドゥパルドに一瞥をくれると、ゆっくりと歩き出した。
魔術院の方角からは、次々に魔術師や吏員たちが走ってくる。3人はその人波に逆らうように歩き、やがて姿を消した。
サイバルダは、もう何も言わなかった。
ドゥパルドには、言うべきことは何もなかった。




