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第31話

 まるでかんしゃくを起こした子供が叩き潰した積み木細工のように、石造りの建物がいくつもひしゃげた姿を見せている。桟橋近くの倉庫街だったはずの街区は、無残に崩れ落ちた残骸と化していた。


 荷運び人足の勢いのある掛け声、荷車のきしむ音、合間に響くカモメの鳴き声。いつもは喧騒に満ちているはずの倉庫街は、このとき奇妙なほどに静かだった。その空白を埋めていたのは、むっと鼻につくような水っぽい臭い。そして――

 

「止まってくれ、ダンス!」


 パディルの声だ。ダンスが反射的に振り返ると、唇を震わせたパディルがじっと行く手に目を凝らしていた。額には汗が光っている。そしておそらく本人は意識しないまま、左手を何度も握りなおしていた。

 

「『壁崩落』ってことは、あれだろ。そこらじゅうに『壁』が落っこちてるんじゃないのか? あれは……」


 パディルは言葉を飲み込んだが、その意味はダンスにもキディアスにもすぐさま通じた。キディアスは素早く両手を動かし、『壁観測』の礼式を施す。キディアスは息を呑んだ。

 

「パディルの言うとおりだ。この先、至るところに『壁』の破片が転がっている。透明だからほとんど見えないがな。この破壊自体が、空から落ちてきた『壁』のせいだと見ていいだろう」


 ダンスの脳裏に、パディルが歌った童謡の歌詞が甦った。


 『壁』の高さは20ミル 魔術院の塔より高く


 大人の背丈が、だいたい2ミルに届かないくらい。その10倍の高さから、分厚い『壁』が崩れ落ちてきたとすると、その落下の衝撃はどれほどのものだっただろうか。

 

 ダンスが知る限り、これまで『壁崩落』は『壁』の周縁部だけで起きていた。今回のように街の中央部、つまりドーム状の『壁』の頂点部分が崩れるのは初めてのことのはずだ。

 

 キディアスも考えを巡らせていた。だが彼女の思考は、『壁』そのものの謎へと引き寄せられていく。そう、街の中央で起こった今回の『壁崩落』では、生物を襲う『変貌』がいったい何なのか、それを解き明かす鍵を見つけられるのではないか。

 

「キディアス! 『壁防御』だ、頼むよ!」


 謎解きに気を取られたキディアスは、パディルの声にはっと我に返った。そうだ、ここはまだ危険の真っただ中だ。慌ただしく礼式を施すキディアスを、パディルは真剣な目で見つめている。

 

「済んだぞ。みんな、私から離れるなよ」


 キディアスを中心にして、3人は横一列に並び、ゆっくりと倉庫街に踏み込んでいく。周囲からは何の音も聞こえず、何の動きも見えない。ただ、自分たちの足音だけが耳を突いた。

 

 ここの路上には、いつも屋台が出ていた。

 漁船から仕入れた安い魚介類を時間をかけて煮込んだ海鮮スープ、パンとセットで2分の1ドゥカット。塩っ気が強くて、倉庫街で働く力仕事の男たちに人気だった。にぎやかな婆さんが気前よくよそってくれたものだ。

 

 今、その屋台があった場所には大量の木片が積み重なっているだけだ。スープの臭いだけが、以前の姿をかろうじて思い起こさせる。ひしゃげた鍋の脇からちらりとのぞいた婆さんの足を見て、ダンスは思わず顔をそむける。キディアスは目を伏せて黙っている。パディルは大きく回り込んで、屋台の跡を避けている。

 

 太陽だけがギラギラと光り、無人の倉庫街を照らしていた。3人は無言のまま足を運びつづける。

 

 それに最初に気づいたのは、キディアスの右手側にいたパディルだった。屋根が落ち、4面ある壁も1面しか残っていない倉庫。床を覆う瓦礫が、わずかに動いたような気がした。

 

 はっとしたパディルが向き直った瞬間、瓦礫の隙間から鉤爪のついた触手が飛びかかってきた。右手に握っていた弓でなんとか払いのけると、パディルは反射的に飛び退く。瓦礫をかき分けるようにして、粘液まみれの肉の塊が、のっそりと姿を現す。プルプルと震える体から、鉤爪付きの触手が何本もゆらゆらと立ち上がった。

 

「出たぞ、ダンス!」


 ダンスはしかし、パディルの叫びには応じられない。ダンスの正面、崩れかけた倉庫の2階から、まるで酔っぱらいの吐瀉物みたいにずるりと這い落ちてきたのは、鈍く太陽を反射する脂身のような大きな塊だった。表面には目玉が3つ開き、じっとダンスを見つめている。どこからともなく甘ったるい異臭が漂うと、ダンスの喉奥から苦いものがこみあげてきた。

 

 ダンスは丸盾を左手に構え、右手に剣を握ってじりじりと距離を詰める。脂身の3つの目玉は時折まばたきをしながら、ダンスから目を離さない。脂身はのたうつような動きを見せて、ダンスから遠ざかろうとする。

 

――こいつ、もしや。


 ダンスはいきなり地面を蹴って、一気に近い間合いに入った。脂身は怯えたようにぶるぶる震えながら、崩れ落ちた壁の後ろに隠れようとする。

 

――やはりそうだったか。こいつ、こっちを攻撃できないんだな。


 ダンスは剣を逆手に持ち替えると、3つの目の真ん中に突き込んだ。甘い臭いが一気に濃くなり、ダンスは吐き気をなんとか押しとどめた。脂身は大きく跳ねるような動きをすると、そのまま動かなくなった。

 

 パディルはダンスほど幸運ではなかった。肉塊は鉤爪を振るって襲いかかり、そのたびにパディルは弓で払いのける。とてもじゃないが、じっくり弓で狙いをつけるような余裕はない。

 

「パディル、そのままあいつを引きつけられるか」


 と声をかけてきたのはキディアスだ。

 

「そりゃできるけど、あんた何する気だ?」


「牧場でお前が見せてくれただろう」


 いつの間にパディルの荷物から抜き出したのか、キディアスの手には油が入った瓶があった。

 

「わかった、頼む!」


 パディルはそう叫ぶと、じりじりと前に進み始めた。近づけばより危険だが、キディアスが油瓶を投げつける余裕をつくるためだ。火種の準備はできている、油が決まれば楽勝だ。

 

 キディアスはパディルの逆側に回り込み、タイミングを見計らう。肉塊はパディルとのチャンバラに夢中のようだ。

 

「よし、今だ」


 キディアスは大きく振りかぶると、力強く油瓶を投げた。油瓶は一直線に肉塊めがけて飛ぶ。やった、とキディアスが拳を握りかけた瞬間、肉塊は鉤爪を2本飛ばして油瓶を受け止めた。

 

「バカな……」


 と呆然とするキディアスのすぐ脇を、ダンスが全速力で走り抜けた。身体の前に丸盾を掲げ、剣を直突きの構えで携えている。強烈な体当たりと同時に、ダンスの剣は柄元まで肉塊に突き刺さった。ダンスが剣をえぐり込むようにひねると、肉塊から出ていた触手は感電したように震え、やがて静かになった。

 

「助かったよ、ダンス」


 疲れ切った顔をしたパディルがつぶやくように感謝の言葉を漏らす。思わずその場に座り込んだキディアスの口からも、言葉がこぼれた。

 

「よくやった。これで喪失2、回復2だな」


 肉塊に念入りにとどめを刺していたダンスの動きが止まった。喪失、回復。

 

「そうか。じゃあ屋台の婆さんはどうなるんだ」


 キディアスは何かをのどに詰まらせたような表情をしていた。

 

「あれは……勘定には入らないんだ。喪失ではないし、回復の対象でもない」


 ダンスが吐き捨てる。


「それが魔術院の勘定か。人間が死んでるんだぞ」


 キディアスは黙り込む。見かねたパディルが仲裁に入った。

 

「今はよせよ、ダンス。それに……それに、まだ何も終わっちゃいないだろう?」



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