第30話
ダンスは自分の足音に耳を傾けていた。『壁』の外の村で泥に汚れたブーツが、魔術院へと続く石畳を踏みしめる。入念に手入れされた敷石が、ブーツの泥が削ぎ落していく。
「もう迷いはないな」
ダンスはキディアスに声をかけた。ここまでの道中で何度か繰り返したやり取りだが、それでも念を押してしまう。
「ああ。突きつけてやる」
キディアスは短く答えた。その言葉からは、自信と固い決意が透けて見える。
「だが、ただデジレ村長から聞いた話をするだけでは弱い。証拠がなければ、魔術院には通じないぞ」
ダンスの心配も、キディアスの意思を押しとどめるには至らない。
「大丈夫だ。いざとなれば、村長の家にあった魔術師のローブがある。あれを無視するのは難しいだろう」
そう答えたキディアスの目は、金色に燃えていた。その瞳には、サイバルダ院長の姿が映っていることだろう。これならそう簡単に折れはしない。ダンスは深々と頷いた。
心配なのはパディルの方だ。村を出てからも心ここにあらずというか、目の前のことに集中できていない様子が続いている。左手の感覚が戻らない、ということだが、パディルの取柄は弓だけではない。そこのところを、本人がどう折り合いをつけられるかだが……。
「なあ、ダンスのおっさん。おっさんも弓は扱うよな?」
パディルは左手をしきりに開いたり閉じたりしながら、ダンスに問いかけた。
「お前ほどじゃないが、どうした」
「左手の握りが甘くても使える弓って、あるのかな?」
パディルの悩みはまだ深いようだ。ダンスはパディルから見えないように、そっとため息をつく。
「そうだな、武器鍛冶屋のテダルに相談してみるか?あいつなら腕に着ける補助装具をいろいろ工夫してくれるだろうし。あとは……」
「あとは?」
「クロスボウだ。あれなら弓と違って、左手の握りが弱くても暴発したりはしないんじゃないか」
「なるほどねえ……」
腑に落ちた、とまでは見えないが、パディルの表情に多少は明るさが戻った。今すぐ解決はできなくても、寄り添っていくことも一つの方法だ、とダンスは唇を引き締めた。
そして、ダンス本人のことだ。『壁』は人々を守るのか、『壁』の向こうには何があるのか。ダンスの胸のなかに芽生えた小さな疑問は、今では大きく燃え盛っている。火をつけたのはキディアスだが、燃料はダンスの心の中に、本人も気づかないうちに積み重なっていたのだ。
三人はそれぞれの思いを胸に、ゆっくりと歩みを進めていた。
そして、ドゥパルドは焦っていた。
魔術院の魔術師、しかも内勤という身分はなかなか居心地のいいものだ。勤務中に少々席を外しても怒られることもない。この日のドゥパルドも、そんな「ちょっとした」外出からの帰り道だった。
魔術院に戻ろうと道を急いでいると、視線の先に見覚えのある魔術師のローブ姿、そして保守局員らしい男たちの姿が見えた。キディアスと、あいつらは誰だっけ?
ドゥパルドにとってのキディアスは、いわば二つの顔を持つ女だ。やっかいな面倒ごとを巻き起こすかと思えば、ありがたい現金収入をもたらしてくれる。さて、今回はどっちなのか?
反射的に物陰に隠れたドゥパルドは、この事態を自分のメリットに変えるにはどうすればいいのか、脳みそを必死に回転させていた。
そして次の瞬間。4人の耳を轟音が満たした。
水がパンパンに詰まった巨大な袋を石壁に叩きつけたような水気のある破裂音、続いて妙にベタついた粘り気のある甘い臭い。
「壁崩落だ!」
叫んだダンスは反射的に周囲を見回し、音と臭いがどの方向から来たのかを探ろうとした。キディアスとパディルも身構えている。
――いや、待てよ。
最初の一瞬が過ぎ、ダンスは冷静さを取り戻す。
――こんなところでか? 街のど真ん中だぞ!
壁崩落が何をもたらすのか、ダンスは嫌でも思い出す。牛だったもの、肉柱、9引く8は1。
「ダンス、こっちだ!」
風を読むかのように周囲にすばやく目を配っていたパディルは右手を上げ、魔術院の建物の向かい側を指し示す。この先3ブロックも行けば、倉庫街と桟橋、港があるはずだ。そっちが崩落現場か。
「キディアス、パディル、行くぞ!」
一声放つとダンスは剣の鞘を払い、先頭に立って走り出す。パディルは素早く弓を組み立て、キディアスは身にまとったローブを強く体に巻きつけると、それぞれダンスの後を追う。
三人が走り去るとすぐに、魔術院からもわらわらと人影が走り出てきた。魔術師の紫ローブ、吏員の黒装束。武装した保守局員の姿も見える。呆然とその場に立ちつくしていたドゥパルドの脇を、彼らは次々と駆け抜けていく。
魔術院の中では、定められた礼儀作法に従い、ゆるやかに歩む魔術師たちが、足を宙に飛ばして走っている。轟音や異臭よりも、ドゥパルドはそこに強く反応した。
――逃げよう。でも、どこへ?
迷っていたドゥパルドの頭上から声が響く。
「おや、ドゥパルド君。どうしたね?魔術師には全員出動を命じたはずだ。内勤といえども、ね」
顔を上げたドゥパルドからちょうど頭三つ分の高さで、サイバルダ院長は青銅の鐘の音のような声を響かせていた。
「『壁』の危機だ。我々魔術師には、なすべきことがある。さあ、一緒に来たまえ」




