第三話 人情話
三日前。
早朝。街の本屋の前。
開店までまだ一刻以上あるというのに、店の前にはすでに異様な熱気を孕んだ行列ができていた。
その列の最後尾から数えて数人目。
大きな体躯を折り曲げるようにして、ネアルコは腕を組み、鋭い目つきで周囲を観察していた。
(……前方、十二名)
ネアルコは心の中で冷静に戦況を分析する。
(入荷数は不明。だが、全員が『あれ』を求めているとは限らない。……いや、あの身のこなし、あの殺気。やつらも『あれ』を狙ってると見て間違いない……!)
周囲の客たちもまた、殺気立った目で互いを牽制し合っている。
本日発売——『回廊で抱きしめて 第五巻』。
そもそも、ネアルコがこの物語を知ったのは一年前のことだった。
年の離れた妹が、ある日買ってきた一冊の本。
第一巻が家の机の上に転がっていたのを、ある晩、なんとなく手にとったのが始まりだった。
気がつけば夢中になり、第四巻まで一気読みしてしまっていた。
『え、お兄ちゃん、これ読んだの?! 意外過ぎるんだけど!』
目を丸くする妹に、ネアルコは腕を組んだまま短く『……まあな』と答えただけだったが、ネアルコ自身、早く続きが読みたくてたまらなかったのだ。
そして、今日。
ガラガラ、と店の重い扉が開く音が響いた。
「開店でーす!」
店員の声を皮切りに、静寂は一瞬で崩れ去った。
「押さないでください! 順番に——」
店員の制止も虚しく、店内にとなだれ込む群衆。
狙いは一目散に「新刊特設コーナー」だ。
(——甘い!)
ネアルコは人波に呑まれぬよう踏ん張ると、揉み合う人混みのわずかな隙間を見逃さず、長身を生かして上方から素早く手を伸ばした。
目の前に積まれた『第五巻』。
伸びてきた腕の隙間から、一冊を無事に掴み取る。
(よし……!)
確保。
あとは、この一冊を無事に会計まで運ぶだけだ。
ネアルコは本を胸元に抱え、人波を抜けてレジへ向かった。
「こちらでよろしいですか?」
「ああ」
店員が本を受け取り、代金を告げる。
ネアルコは財布から硬貨を取り出した。
その間にも、背後の棚からは次々と第五巻が手に取られていく。
「ありがとうございました!」
紙に包まれた一冊を受け取り、ネアルコは店を出た。
「……ふう」
朝の冷たい空気を吸い込み、紙包みを見下ろす。
任務完了。
開店から、わずか数分の出来事だった。
「ほら」
家に帰り、待っていた妹に差し出す。
「あ! 買ってきてくれたの!? ありがとう、お兄ちゃん!」
妹は嬉々として本を受け取ると、さっそく自分の部屋へ向かったのだった。
三日後。
ネアルコは朝から、妙に落ち着かなかった。
居間で腕を組み、何度も壁の時計と妹の部屋の扉を交互に見つめる。
(……そろそろ読み終わったはずだ)
ネアルコは妹の部屋の前に立ち、コンコンとノックした。
「おい、五巻……読み終わったか?」
扉が開き、妹が申し訳なさそうな顔で顔を出した。
「あ、お兄ちゃん。ごめん! 昨日、学校でミーナに貸してって言われて……貸しちゃった」
「…………」
「……どうしたの?」
「いや」
「読みたかった?」
「別に」
「ふーん」
「…………ちょっと用事を思いだした」
用事など、何ひとつなかった。
ネアルコは上着を羽織ると、足早に家を出た。
自分が発売日に並んで手に入れたはずの第五巻が、なぜか他人の手に渡り、自分はいまだに読めていない。 行き場のない不満を抱えたまま、ネアルコはあてもなく王城へと足を向けた。
ぶらぶらと廊下を歩いていたネアルコだったが、遠くから慌ただしく駆け寄ってくる兵士の足音に足を止めた。
「ネアルコ殿! ちょうどよかった!」
「どうした」
「城下で、悪質なひったくり事件が発生しました! 犯人は足が速く、警備兵を振り切って逃走中とのことです!」
「なに? 場所は?」
「西門を出てすぐの広場です……!」
「そんな場所で……舐めやがって!」
ネアルコは鋭い眼光で即座に指示を飛ばした。
「シアに知らせる、お前は先に向かえッ!」
「はッ!」
兵士を現場へ急行させると、ネアルコ自身は素早くシアの執務室へと向かい、ノックもそこそこに扉を叩き開けた。
「おい、シア! ひったくりだ、出動するぞ——」
部屋の奥。 デスクの前で、シアが跳ね上がるようにして立ち上がった。 その手には一冊の文庫本。表紙には見慣れた薔薇の装丁と『第五巻』の文字。
シアの顔は一瞬で真っ青になった。
「ネ、ネアルコ!? なんでここに……っ!?」
慌てて本を背中に隠そうとするが、ネアルコの視線はすでにその冊子を捉えていた。
(……五巻……!?)
ネアルコの目が、わずかに見開かれた。
(なんでシアが持ってるんだ? 俺は発売日の朝から並んで確保したのに、まだ読めてねえんだぞ……?)
シアの頭から、普段ならいくらでも思いつくはずの言い訳が、きれいさっぱり消え去った。
「い、いや! これは、その……! そう、エル! エルが読めって言ってきたのよ……!!」
必死の顔で人のせいにするシア。
しかし、一刻を争う現場だ。 さまざまな疑問と混乱が頭を巡るネアルコだったが、ひとまずそれを力づくでねじ伏せ、怒鳴るように叫んだ。
「話は後だ、行くぞッ!」
「えっ……あ、ええっ!?」
シアは慌てて第五巻を机の上に置くと、壁に立てかけていた剣を掴んだ。
城下の路地裏。
「ぐっ……!」
逃走していた男の進路へ、シアが回り込む。
男が慌てて方向を変えた、その先にはすでにネアルコが立ち塞がっていた。
「残念だったな」
太い腕が伸ばされ、男の身体を素早く地面へ押さえ込む。
「離せ!」
「大人しくしろ」
程なく駆けつけた警備兵へ男を引き渡し、奪われた鞄も無事に持ち主へ戻った。
事件を片付け、二人は並んで再び王城への帰路についた。
「さっきの話だけどよ」
ふいに、ネアルコが口を開いた。
シアは事件の後処理のことだと思い、前を向いたまま答えた。
「え……何の話?」
「しらばっくれるな、さっきの本だよ」
「…………」
シアの足が、ピタリと止まった。
「……え」
「さっき、執務室で隠そうとしてたろ」
「……だから、あれはエルが私に渡してきたもので……」
「そんなことはどうでもいい」
「……っ」
シアは答えなかった。
執務室で勤務中に私物を読んでいたことを追及されると思い、身を固くする。
「五巻を読んでたよな」
「……え?」
「ってことは、だ。四巻までは読んでるってことだよな」
「…………」
「……だから、今更しらばっくれるな。正直に言え」
「……わ、私……」
「面白いだろ?」
「……え?」
シアは呆然と顔を上げた。
ネアルコは腕を組み、満足そうに頷いている。
「だから、『コリ抱き』だよ。面白いだろ?」
「あ、うん、すごく」
「だよな! いや、話がわかるやつでよかったぜ」
ネアルコは嬉々として破顔した。
「え、と。ネアルコも読んでるの?」
「おう! 妹が読んでたんだけどよ、すっかり俺もはまっちまったぜ」
「そ、そうなんだ……」
シアはほっと息をついた。
口元に、自然と小さな笑みが浮かぶ。
「ああ! やっぱりいいよな、人情話はよ」
「え? にん……?」
「特に三巻な。ローレンツが親父に啖呵切るところ。あそこは痺れたぜ」
「…………」
「四巻の最後なんか最高だろ。あいつ、全部捨てて追いかけようとするんだぜ? 男だよなあ」
「…………」
シアは、ようやく気づいた。
(……この人、見てるところが全然違う……)
不穏な沈黙に気づく様子もなく、ネアルコは腕を組んで納得したように頷いた。
「そういや、さっき言ってたよな」
「……何?」
「エルが読めって渡してきたって」
「……あ」
「ってことは……あいつも『コリ抱き』読んでんのか?」
「…………」
シアは、完全に口を閉ざした。
自分のついた苦し紛れの嘘が、最悪の形で結実しようとしている。
「そうか、エルがな……」
ネアルコは感心したように遠くを見つめ、深々と頷いた。
「見直したぜ。あいつ、いつも澄ました顔して冷徹ぶってるが……中身はアツい人情がわかる男だったんだな」
(違う……! 絶対に違う……!!)
シアは訂正する言葉を見つけられないまま、ただ天を仰いだ。
王城の廊下。
事件を片付け、戻ってきたシアとネアルコの視界の先から、ちょうど書類を抱えたエルが歩いてくるのが見えた。
ネアルコは先ほどシアが口にした言葉を思い出し、妙に感心したような、どこか暖かい眼差しをエルに向けた。
「エル」
「何だ」
脚を止めたエルに、ネアルコは重厚に頷いてみせる。
「お前……見直したぜ」
「…………何の話だ」
エルの眉が不審そうにひそめられる。 その後ろで、シアだけが、
(やめて……お願いだから……)
と顔を蒼白にさせていた。
ネアルコはポンとエルの肩を叩いた。
「いや。お前みたいな奴にも、人情ってもんがわかるんだなと思ってよ」
「だから、何の話だ」
「『コリ抱き』だよ」
「……ああ」
エルが至極あっさりと頷いた。
ネアルコは誇らしげに胸を張る。
「やっぱり読んでんじゃねえか!」
(終わった……)
シアは心の中で崩れ落ちた。
「いいよなあ、あれ。特に三巻からの人情劇がよ」
熱く語り始めるネアルコに対し、エルの眉がぴくりと動いた。
「……人情劇?」
「おう」
「……あれは恋愛小説だろう」
空気の温度が、一瞬で数度下がった。
ネアルコは心底意外そうな顔でエルを見つめ返した。
「は?」
「何だ」
「お前、あれを恋愛小説として読んでんのか?」
「むしろ、それ以外の何だというんだ」
「いやいやいや。確かに男女の話はあるけどよ、あれの肝はそこじゃねえだろ」
「…………」
エルもまた、一歩も引く気配を見せない。
「ローレンツが親父に啖呵を切る場面を見てみろ。あそこの熱さが分からねえのか? 四巻の最後だってそうだ。家も立場も捨てて、男としての意地を通そうとする……あそこが一番アツいんだろうが!」
「それらはすべて、主人公二人の恋愛関係を成立させるために配置された物語上の構成要素だ。本質はそこにはない」
エルの淡々とした分析的な反論に、ネアルコは血圧を上げた。
「そういう冷めた読み方してっから、お前は冷てえんだよ!」
「作品の主題を正確に把握することと、私の人格に何の関係がある」
(なんで……)
言い争う二人を前に、シアは呆然と佇んでいた。
(なんで二人とも、こんなに真剣なの……?)
しかし、激化する二人の議論を聞いているうちに、シアの胸の奥からも熱いものがこみ上げてきた。
「でも、私は……」
二人が同時に振り向いた。
「何だ?」
「なんだよ?」
二人の視線を一身に受け、シアはぎゅっと拳を握りしめ、ぽつりと溢した。
「……シルヴィアが、初めてローレンツに自分の気持ちを言おうとしたところが、一番……」
吐き出してから、シアはハッと息を呑んだ。 自分から、一番好きな場面を口にしてしまった。
「…………」
気まずさにシアが固まった、その時だった。
「——何のお話ですか?」
鈴を転がすような、あまりにも朗らかな声が廊下に響いた。
三人が一斉に振り返る。
そこに立っていたのは、優雅な微笑みを浮かべたナスルーラだった。
「ずいぶん楽しそうですね。廊下の向こうまで聞こえていましたよ」
「いや、これは……」
シアが言葉を濁す。
ナスルーラは三人の顔を順に見渡した。
「ローレンツがどうとか、恋愛小説がどうとか……」
「…………」
その瞬間。 ナスルーラの微笑みが、わずかに深くなった。
「もしかして皆さん……『回廊で抱きしめて』のお話を?」
「…………」
「…………」
「…………」
ナスルーラの目が、爛々と輝き出した。
三人は言葉を失い、顔を見合わせたまま沈黙した。
最初に口を開いたのはネアルコだった。
「……殿下……あー、じゃなかった、区長も読んでるんですか?」
「ええ。もちろん」
あまりにも当然のように答えるナスルーラに、ネアルコは目を見開いた。
「第一巻から、すべて」
「マジかよ!」
ネアルコは大喜びで破顔した。
一方、エルだけは瞳をわずかに細め、ひっかかりを覚えていた。
「……待ってください」
エルはナスルーラを凝視した。
「区長。あなたは第五巻をまだ読んでいないはずでは?」
ナスルーラの優雅な笑顔が、ピキリと固まった。
「…………はい」
「買えなかったんですか……?」
ネアルコが素直に尋ねる。
「……売り切れていたのですよ」
「そう、ですか……でも、俺は買いましたよ! 発売日の朝から並んで!」
ネアルコは胸を張り、誇らしげに語る。
「ただ、妹に渡したら友達に貸しちまってよ。まだ俺も読めてねえ」
「…………」
ナスルーラはすっと人差し指を口元に当て、状況の整理を始めた。
「つまり……シアは第五巻を読んでいる」
「……はい」
「総督閣下は第四巻まで」
「ええ」
「ネアルコも第四巻まで」
「はい!」
「そして私も、第四巻まで」
四人、顔を見合わせる。
重苦しくも妙な沈黙が廊下に流れた。 全員が、同じ崖の縁に立っていた。
「……素晴らしいではありませんか」
ナスルーラがふっと目を輝かせた。
「私達四人とも、『回廊で抱きしめて』の素晴らしさを知っている」
エルが嫌な予感を察し、わずかに眉根を寄せる。
「……それが?」
「これだけ意見の異なる読者が四人も揃っているのですよ?」
ナスルーラの笑顔が眩しく輝く。
「シアは、シルヴィアの心情に惹かれている」
「……!」
自分から口にした場面を指し示され、シアが息を呑む。
「ネアルコは、人情劇として読んでいる」
「へへ!」
「総督閣下は、恋愛小説として構造を分析している」
ナスルーラの指摘に、エルは淡々と不服を唱える。
「……分析しているつもりはありません」
「技能の分析と作品の鑑賞は別物です」
ナスルーラに畳みかけられ、エルはさらに一言付け足した。
「知識としての整理だ」
「そして私は——」
ナスルーラはそっと胸に手を当て、慈しむような眼差しで遠くを見つめた。
「立場に縛られながら、それでも自分の人生を選ぼうとする者たちの物語だと思っています」
一瞬だけ、三人が静まり返った。
会話の最中に投げ込まれた、彼女の立場と生き様から滲み出る本質的な解釈。誰一人として、それを笑うことはできなかった。
「……これほど見方の違う四人がいるのです。語り合わない理由がありますか?」
エルが即答した。
「あります」
「ありません」
「あります」
「ありません」
「私は忙しい」
「私も自治区長です。忙しさなら負けません」
「競うところではない」
「いや、面白そうじゃねえか。やろうぜ」
ネアルコが二人の間に割って入った。
「えっ」
驚く二人に構わず、ネアルコはシアへ視線を飛ばした。
「なあ、シア」
「わ、私は……」
本来なら、治安維持隊長として即座に断るべきだった。 だが——さっき、自分から好きな場面を口にした時の、あの胸の弾み。
「…………たまになら」
シアは消え入りそうな声で呟いた。
ナスルーラが勝利の笑みを浮かべる。
「決まりですね」
エルはまだ諦めずに制そうとする。
「待ってください。私はまだ何も——」
「では、第一回読書会を——」
「ちょっと待ってください」
ネアルコが割って入った。 さっきまで上機嫌だった男の顔が、急に厳粛なものへと変わっている。
「その前に、問題がある」
「問題?」
ネアルコは指を一本立てた。
「俺たち三人、まだ五巻読んでません」
「…………」
「…………」
「…………」
致命的な現実が、四人の上にのしかかった。
唯一の読了者であるシアは、これ以上語ることを固く禁じられる。
「シア」
ネアルコが鋭い視線を向ける。
「五巻の話、絶対するなよ」
「しないわよ!」
「顔にも出すな」
「そ、それ、は……」
ナスルーラが、すっと表情を改めた。
その顔から先ほどまでの朗らかな笑みが消え、まるで王国奪還の重大な軍略を練るかのような覚悟と熱量を帯びる。
「では——最初にすべきことは、一つですね」
三人の視線がナスルーラに集まる。
「第五巻を、三冊確保します」
エルが素早く訂正を入れる。
「いや。一冊あれば回せます」
「二週間かかります」
「…………」
エルの脳裏に、第四巻を読み終えたあとの、あの絶望的な二週間がよぎった。
ネアルコが腕を組む。
「三冊だな」
「三冊です」
「…………」
エルもまた、第四巻のあまりにも凄絶な引きを思い出し、反論を諦めて深く溜め息をついた。
ナスルーラが三人を見渡す。
「では、私たちの最初の活動は——」
ーー『回廊で抱きしめて 第五巻』の確保。
後に王城の一角で密かに開催されることになる、奇妙な読書会。
王国を救った四人は、再び一つの目的のために結束した。
今度の敵は、国家でも思想でもない。
品薄だった。




