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シア隊長乙女機密文書  作者: 戸佐秋彦
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第四話 四人の読者

場所は王城の書庫。

普段は静寂に包まれているはずのその一角で、異様な光景が広がっていた。

重々しい閲覧机の中央には、王都の精密な都市地図が大きく広げられていた。 その周囲を取り囲んでいるのは、治安維持隊長シア、総督エル、自治区長ナスルーラ、そして治安維持隊隊員ネアルコ。

かつて国の存亡を賭けた王国奪還戦以来と言ってもいい、王国の中枢にして最高戦力四名による合同作戦会議。

ただし、これは公務ではない。

彼らが眼光を鋭くさせ、見つめている議題はただ一つであった。

『回廊で抱きしめて 第五巻』三冊の確保。

エルが手元の資料に視線を落とし、淡々と現状の情報を整理する。

「現在、王都で第五巻を扱っている主要書店は七店舗。そのうち五店舗はすでに完売。残る二店舗についても、現時点で在庫は確認できていない」

ナスルーラが地図上の特定の区画へすっと指を滑らせた。

「次回入荷の予定は?」

「明朝だ。ただし、入荷冊数は店舗ごとに異なり、極めて少数と見込まれる」

腕を組んでいたネアルコが、不敵にニヤリと笑った。

「なら、俺たちが手分けして開店前から並べば済む話だろ」

「甘い。それでは確実性に欠ける」

エルが即座に却下した。

「明朝の王都の客足を考慮すれば、単に並ぶだけでは足らん。我々の目的は、三冊の確保だ。運に頼る余地はない」

そこから、恐ろしいほどの熱量で本気の作戦立案が始まった。

物流馬車が王都の関門を通過する想定時刻。 各書店の開店時刻と、過去数日間の客足の推移。 前回の発売日に完売するまでに要した時間。 現在地から各店舗までの所要時間。

軍議さながらの緻密な計算が交わされる中、ナスルーラがふと思いついたように微笑んだ。

「いっそのこと、自治区長としての権限を行使し、優先的に一冊ほど回していただくよう掛け合ってみては——」

「駄目です」

シアが食い気味に即答した。

「……では、事前に取り置きの予約だけでも——」

「駄目です」

「……それも?」

「一般の方々と同じ条件で買います」

「…………」

普段は控えめなシアが、ここだけは一歩も譲らない。

エルが短く頷いた。

「……正論だな」

誰も「たかが本だろ」とは言わない。全員がこの作戦の当事者であった。

「では、正規の手順で三方向から同時攻略を行う」

エルは地図上の三点を示した。

「ネアルコは、前回購入に成功した本店を担当。客の雰囲気や出足もよくわかっているはずだ」

「おう、任せとけ」

「私は城東地区の大型書店へ向かう」

「私は南市場の書店を担当いたしましょう」

ナスルーラが優雅に頷く。

「なお、シアはすでに第五巻を読了済みであるため、王城に残り、我々からの報告を統合・統括する本陣の役割を担ってもらう」

「……分かった」

シアは頷いた。

本当なら、自分も現場に向かいたい。

一刻も早く三人に第五巻を読ませたいのだ。 そして、話したい。 あの場面を。あの台詞を。あの続きを。

だが今は、耐えるしかない。

ナスルーラが満足そうに手を打った。

「素晴らしい。では、この歴史的な作戦の名称ですが——」

「不要です」

エルが即答した。

「まだ何も言っていませんよ?」

「名称をつける必要がありません」

「作戦には名称が必要でしょう?」

「これは書店へ本を買いに行くだけです」

「…………」

一瞬、書庫に沈黙が落ちた。

ネアルコが眉をひそめる。

「お前、さっきまで地図使って物流経路まで分析してただろ」

「それとこれとは別だ」

「何が違うんだよ」

「違う」

ナスルーラは心底不満そうに肩をすくめた。


翌朝。

朝靄が立ち込める王都で、三人が同時に動き出した。

【第一地点:中央本店】

開店二刻前。

前回より、さらに一刻早い。

今度こそ確実に手に入れるため、ネアルコはまだ街が目覚めきる前から中央本店へ向かっていた。

だが——。

「…………」

すでに、並んでいた。

その光景を目にした瞬間、ネアルコの頬がわずかに引きつった。

(……おいおい、マジかよ)

店の前には、すでにズラリと人が並んでいた。 前回の発売日を遥かに上回る長蛇の列。全員が殺気立った……いや、飢えた目をしている。

ネアルコは瞬時に列の人数を数え、過去の経験と照らし合わせた。

(前回より多い……! だが、入荷数が予定通りならギリギリ俺のところで届くはずだ……!)

ネアルコは即座に列の最後尾へつき、静かに精神を統一した。

【第二地点:城東地区・大型書店】

同じ頃、城東地区。

エルは静かに店舗の前に並んでいた。 綿密に組んだ予定どおり、計算した位置を確保している。

しかし、問題は別の場所にあった。

「……総督閣下?」

並んでいた市民の一人が、エルの横顔を見て目を丸くした。

「…………」

エルは正面を見つめたまま、微動だにしない。無視を決め込もうとした。 しかし、ざわめきは一瞬で列全体へ広がっていく。

「マジで総督閣下だ……」

「まさか、閣下も『コリ抱き』の五巻を……!?」

「あの総督様が……?」

エルは小さく溜め息をつくと、静かに顔だけを向けた。

「……ええ」

隠すだけ無駄だと悟ったエルは、堂々と、しかし苦々しい表情で認めた。

【第三地点:南市場・書店】

一方、南市場。

ここには、完璧な変装——つばの広い帽子に深いフード付きのローブを羽織った人物が立っていた。ナスルーラである。

身分を隠し、一人の読者として並ぶ。完璧な計画のはずだった。

「あの……自治区長様ですよね?」

隣に並んでいた町娘が、恐る恐る声をかけてきた。

ナスルーラは優雅な所作のまま、声のトーンをわずかに変えて答える。

「人違いです」

「でも、その耳飾りと……あと、立ち振る舞いがどう見ても……」

「人違いです」

「あ、すみません……でも、『コリ抱き』お好きなんですか?」

「人違いですが——好きです」

「ですよね!」

変装は完全に意味をなしていなかったが、ナスルーラは誇り高く列に留まり続けた。

こうして、三者三様の過酷な戦いが繰り広げられていた。


ガラガラと重い扉が開く音とともに、各店舗で運命の開店時刻を迎えた。


【第一地点:中央本店】

「押さないでください! 順番に——!」

店員の叫び声をよそに、店内へ雪崩れ込む群衆。

ネアルコは人波に呑まれぬよう踏ん張りながら、前へ進む。

狙うはただ一つ。

新刊特設コーナーに積まれた、薔薇の装丁。

(——あった!)

四方から伸びる腕。

ネアルコはそのわずかな隙間を見逃さなかった。

長身を生かして上方から腕を伸ばし、一冊を掴み取る。

「よしッ!」

そのまま本を胸元に抱え、レジへ向かう。

会計を終えた、その直後だった。

背後から店員の声が響く。

「申し訳ありません! 第五巻、完売です!」

「…………」

ネアルコは振り返った。

空になった新刊特設コーナー。

そして、自分の手の中にある一冊。

紙一重。

一冊目、確保。

ネアルコは勝ち誇った顔で、第五巻を胸元に抱えた。


【第三地点:南市場・書店】

一方、南市場。

ナスルーラは、変装が完全に意味をなさなくなった状態のまま、列に加わっていた。

それどころか、隣に並んでいた町娘とすっかり打ち解けている。

「三巻のあの場面、いいですよね!」

「分かります!」

「ローレンツが、ようやく自分の立場よりも——」

「あっ、そこ! 私も好きです!」

もはや自治区長としての威厳も、身分を隠すという当初の目的も、どこかへ消え去っていた。

やがて順番が来る。

ナスルーラは最後から二番目の第五巻を、正規の代金を支払って購入した。

紙包みを大切に受け取り、満足そうに微笑む。

「では、皆様も良き読書を」

「自治区長様も!」

「人違いです」

「まだ言うんですか!?」

二冊目、確保。


【第二地点:城東地区・大型書店】

そして、エル。

作戦そのものに、何のミスもなかった。

エルは予定通りの時刻に並び、予定通りの位置を確保し、開店と同時に店内へ入った。

列は極めて順調に進んでいく。

あと三人。

一冊、売れる。

あと二人。

もう一冊。

そして、エルの前に並んでいた女性が第五巻を受け取り、嬉しそうにレジを離れていった。

エルの番が来る。

「…………」

店員が申し訳なさそうに頭を下げた。

「申し訳ありません。いまので最後です」

「…………」

国家規模の策略を読み切り、数々の戦場を切り抜けてきた男が。

純粋な在庫数という、あまりにも単純な数字の前に敗れた。

エルはしばらく無言で店員を見つめた。

もちろん、店員には何の落ち度もない。

「……そうですか」

それだけ告げて、静かに店を出た。

朝の街を、一冊の本も持たずに歩く冷面総督。

その背中は、いつもと何一つ変わらない。

ただ、その足取りだけが。

ほんのわずかに、重かった。


【王城書庫・本陣】

その頃。

シアは一人、王城書庫で待っていた。

朝から閲覧机に広げられたままの王都の地図。

作戦開始から、すでに一刻以上が経っている。

「…………」

何の報告もない。

当然だった。

これは公務ではない。伝令を走らせるわけにもいかない。

シアにできることは、三人の帰還を待つことだけだった。

「統合・統括……とは言ったものの……」

通信手段の存在しない作戦において、本陣とは単に「待つ場所」でしかなかったのだ。

やがて、書庫の重い扉が勢いよく開いた。

「シア!」

「ネアルコ!」

「取ったぞ!」

飛び込んできたネアルコが、胸元の文庫本を高々と掲げる。

「……ッ!」

一冊目。

続いて、優雅な足取りでナスルーラが入ってきた。

「ただいま戻りました」

その手にも、丁寧に包まれた紙包み。

「二冊目……!」

シアの胸が高鳴る。

残るは、あと一冊。

エルだけだ。

二人とともに、エルの帰還を待つ。

待つ。

……遅い。

ようやく、書庫の扉が静かに開いた。

総督エル。

その手には、何も握られていなかった。

「…………」

「…………」

「…………」

エルは何も言わず、静かに席についた。

三冊確保を目標として開始された作戦。

戦果——二冊。

書庫に、気まずい沈黙が落ちた。


午後。

王城書庫。

朝には王都の地図が広げられていた大きな閲覧机の上に、今は二冊の『回廊で抱きしめて 第五巻』が鎮座していた。

ネアルコとナスルーラは、それぞれ自ら確保した一冊を前に、誇らしげな勝者の顔をしている。

対してエルは、無言のまま席についていた。

シアが気まずそうにその横顔を見つめる。

「……二冊あれば、回せるよ」

だが、誰も嬉しそうな顔はしなかった。

一冊を回し読みするということが、どれほど長い待ち時間を生むのか。

少なくとも、この場にいる者たちはよく知っていた。

エルが静かに口を開く。

「一人が二日で読めば、四日だ」

「無理です」

ナスルーラが即座に否定した。

「なぜです」

「仕事があります」

「……正論だ」

エルは押し黙った。

結局、手元にある二冊を誰が先に読むのかという、あまりにも大人げない問題が残った。

ネアルコが一冊を胸元へ引き寄せる。

「俺は自分で取ったんだから、俺が最初に読むぜ」

ナスルーラも、自ら確保した一冊にそっと手を置いた。

「私も自分の足で手に入れたものですので」

優雅な微笑みを浮かべてはいるが、譲る気配は微塵もない。

「…………」

エルだけが、何も持っていなかった。

最初に手に入れた第五巻は、シアに譲った。

そして今日、自分の手で手に入れようとした一冊は、あと一人というところで売り切れた。

シアはエルの横顔を見つめた。

「……エル」

いたたまれないような気持ちで、言葉に詰まる。

エルはそんなシアを一瞥すると、静かに口を開いた。

「二冊確保できた。それで十分だ」

それ以上、エルは何も言わなかった。

「…………」

第五巻を最初に探し出してくれたのは、エルだった。

あの時も、自分はまだ第一巻の途中だからと、当然のようにシアへ譲った。

そして今も、自分だけが待てばいいと思っている。

シアは小さく息を吐いた。

「……そういうところなのよ」

「何がだ」

「何でもない」

シアはそう答えて、何気なく視線を逸らした。

その視線が——止まった。

「…………」

書庫の奥。

見慣れた棚。

一年前、シアが偶然『回廊で抱きしめて』を手に取った、あの場所。

「……え?」

小さな声に、三人が振り向いた。

「どうした?」

シアは答えず、ゆっくりと立ち上がった。

そのまま棚へ近づいていく。

第一巻。

第二巻。

第三巻。

第四巻。

そして——

「…………」

その隣に。

見慣れた薔薇の装丁が、一冊。


『回廊で抱きしめて 第五巻』


「……ある」

「何?」

ネアルコが立ち上がった。

ナスルーラも続く。

エルだけが椅子に座ったまま、じっと棚を見つめていた。

「……なんでだ?」

ネアルコが呆然と呟く。

「朝はなかったぞ」

「……そうですね」

ナスルーラも目を瞬かせる。

朝には、確かになかった。

「——ああ、それですか」

不意に声がした。

四人が一斉に振り返る。

少し離れた場所で本を整理していた司書が、こちらを見ていた。

「先ほど、棚に置いたところです」

「……置いた?」

エルが立ち上がる。

司書は少し照れくさそうに笑った。

「実は、私も第五巻を買っておりまして。昨夜、ようやく読み終えたんです」

「…………」

「これまでの巻もこちらに置かれていましたし、せっかくですから第五巻も同じ場所に置いておこうかと」

司書は何でもないことのようにそう言った。

「先日、総督閣下もお探しでしたから。きっと、読みたい方が他にもいらっしゃるでしょうし」


「…………」


四人は、もう一度棚を見た。

そこには第五巻が、何事もなかったかのように静かに収まっている。

ネアルコが、ぽつりと呟いた。

「……俺たち、朝から何やってたんだ?」

「言わないでください」

ナスルーラが即座に制した。

「結果として二冊は確保できた。作戦そのものが無意味だったわけではない」

エルが淡々と訂正する。

「お前がそれ言うと、負け惜しみにしか聞こえねえぞ」

「事実を述べているだけだ」

シアは三人のやり取りを聞きながら、棚へ手を伸ばした。

第五巻を、そっと抜き取る。

その表紙をしばらく見つめてから、振り返った。

「エル」

「何だ」

シアは一冊の本を差し出した。

「はい」

「…………」

エルは本とシアの顔を交互に見た。

「これで、三人とも読めるね」

シアが小さく笑う。

エルはしばらく黙っていたが、やがて差し出された第五巻を受け取った。

「……ああ」


数日後、街の本屋。

発売直後から続いていた品薄も、ようやく落ち着き始めていた。

午後の店内は、あの日の騒ぎが嘘だったかのように穏やかだった。

シアは一人、入口の前に立っていた。

「…………」

店先には、見覚えのある看板が出ている。

『回廊で抱きしめて 第五巻 再入荷しました』

あの日。

この場所で、最後の一冊を買っていく女性を見送った。

欲しかった。

一年も待っていた。

それでも、自分で買うことができなかった。

『この本は、治安上の懸念がないか内容の精査が必要だから』

そんな苦しい言い訳までして、同行していた兵士に買わせようとした。

結局、その一冊を読むことができたのも、自分で手に入れたからではない。

エルが探し出し、借りてきてくれたからだ。

「…………」

シアは小さく息を吸った。

そして、店の扉を開けた。

カラン、と鈴が鳴る。

店内には、以前のような人だかりはない。

新刊特設コーナーには、再入荷した第五巻が何冊か平積みにされていた。

見慣れた薔薇の装丁。

シアは、その前に立った。

「…………」

一冊を手に取る。

もう、内容を確認する必要はない。

何が書かれているのかも知っている。

治安上の懸念など、もちろんない。

ただ——欲しい。

自分の本棚に置いておきたい。

それだけだった。

シアは第五巻を胸に抱え、レジへ向かった。

店員が本を受け取る。

「こちらでよろしいですか?」

一瞬だけ、シアの口が止まった。

けれど。

「はい」

今度は、ちゃんと言えた。

「これを一冊、ください」

代金を払い、紙に包まれた第五巻を受け取る。

「ありがとうございました!」

店を出る。

春の柔らかな陽射しの中、シアは手元の紙包みを見つめた。

ほんの少しだけ、口元が緩んだ。

それを大切に抱え、王城へと歩き出した。

王城書庫。

いつもの閲覧机には、すでに三人が集まっていた。

ネアルコは椅子に深く腰掛け、第五巻を読みながら何度も力強く頷いている。

「……やっぱローレンツ、男だぜ……」

「静かに読め」

向かいでは、エルが本から目を上げることもなく注意する。

少し離れた席では、ナスルーラが第五巻を開いたまま、口元を押さえていた。

「…………」

「区長?」

「何でもありません」

「泣いてるんですか?」

「泣いていません」

「いや、泣いて——」

「ネアルコ」

「はい」

静かな書庫が、いつになく賑やかだった。

シアは入口に立ったまま、その光景をしばらく眺めていた。

やがて、ネアルコが気づく。

「おう、シア。遅かったな」

「うん」

シアは三人のもとへ歩いていく。

そして、自分の席に腰を下ろした。

紙包みを、机の上に置く。

エルが顔を上げた。

「それは?」

「これ?」

シアは包みを開いた。

中から現れたのは、見慣れた薔薇の装丁。

『回廊で抱きしめて 第五巻』

ネアルコが目を丸くした。

「お前、もう読んだんじゃなかったのか?」

「読んだよ」

「じゃあ、なんで買ったんだ?」

「…………」

シアは、自分の第五巻にそっと手を置いた。

第一巻は、偶然だった。

第二巻から第四巻までは、いつの間にか書庫に増えていた。

第五巻は、エルが借りてきてくれた。

自分で『回廊で抱きしめて』を買ったのは、これが初めてだった。

シアは少しだけ照れくさそうに、それでも笑って答えた。

「……好きだから」

「…………」

エルが、ほんのわずかに目を細めた。

ナスルーラは何も言わず、柔らかく微笑んだ。

ネアルコだけが、何の含みもなく大きく頷く。

「だよな!」

「……うん」

四人の前に、それぞれ一冊ずつ。

同じ薔薇の装丁が並んでいた。

シアの前に一冊。

エルの前に一冊。

ナスルーラの前に一冊。

ネアルコの前に一冊。

同じ物語を読んでいても、見ているものは少しずつ違う。

それでも、四人ともこの本が好きだった。

「では」

ナスルーラが第五巻を閉じ、三人を見渡した。

その顔には、自治区長としてではない、一人の読者としての満面の笑みが浮かんでいた。

「全員、第五巻を読み終えたところで——第一回読書会を開催しましょう」

「おう!」

「はい!」

「…………」

三人の視線が、最後の一人へ向く。

エルはしばらく黙っていたが、諦めたように小さく息を吐いた。

「……分かりました」

ナスルーラの笑みが、さらに深くなる。

「決まりですね」

四人は再び、それぞれの本を開いた。

四人の読者。

四冊の第五巻。

そして、一つの物語。

王城の奥深く。

四方を本棚に囲まれた、小さな場所で。

奇妙な読書会が、静かに始まろうとしていた。



エピローグ:二つの薔薇

長い回廊を、シルヴィアは走っていた。

窓の外では、降り始めた雨が庭園を白く霞ませている。

「ローレンツ!」

呼び声に、回廊の先を歩いていた男が足を止めた。

ゆっくりと振り返る。

シルヴィアは何度も躓きそうになりながら、それでも走った。

「待って……!」

ローレンツが目を見開く。

「シルヴィア?」

ようやく、その背中に追いつく。

息が切れていた。

胸が苦しい。

言いたいことは、ずっと前から決まっていた。

けれど、その言葉だけが、どうしても口にできなかった。

「私……」

ローレンツは何も言わず、ただシルヴィアを見つめている。

逃げてはいけない。

今度こそ。

シルヴィアは震える手を、ぎゅっと握りしめた。

「私、あなたが——」

その続きを言う前に。

ローレンツの腕が、シルヴィアを強く抱きしめた。

「…………」

突然のことに、シルヴィアの身体が固まる。

耳元で、掠れた声がした。

「遅い」

「……え?」

「遅すぎるんだ……」

その声が、わずかに震えていた。

シルヴィアは目を閉じた。

そして、そっと彼の背中へ腕を回す。

長い回廊の真ん中で。

ようやく二人は、互いを抱きしめた。



「…………」

王城書庫。

シアは第五巻から顔を上げた。

「……いい」

そっと目頭を拭う。

窓の外には、春の王都が広がっていた。

あたたかな陽射しが差し込む、静かな午後。

閲覧机の上には、読みかけの第五巻。

その傍らには、薔薇を象った愛剣——プリンスローズ。

シアはしばらく、窓の外を眺めていた。

穏やかな街並み。

何事もない、いつもの王都。

「隊長!」

書庫の扉が勢いよく開いた。

「……!」

シアは電光石火で第五巻を背後に隠した。

飛び込んできた兵士が、肩で息をしている。

シアの表情が一瞬で引き締まった。

「何事だ!」

「城東地区の大型書店に、強盗集団です!」

「……! すぐ行く!」

シアは立ち上がり、第五巻を掴んで駆け出した。

「違う!」

即座に引き返す。

第五巻を置き、プリンスローズを掴む。

今度こそ、書庫から走り出た。

回廊は、午後の空気で柔らかく満たされていた。

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