第二話 回廊で抱きしめて
王城の回廊を、エル・シャーリーはいつもの整った歩調で歩いていた。 その向かいから、昨日シアに同行した若手兵士がやってくる。兵士はエルに気づくと、慌てて足を止めて敬礼した。
「総督閣下、お疲れ様です!」
「ご苦労」
エルは短く応え、そのまま何事もなくすれ違おうとした。 ……が、兵士が「あ」と声を上げた。
「そういえば閣下。昨日、街でシア隊長とご一緒したんですが……」
エルがぴたりと足を止める。
「シアが?」
「はい。なんというか……ちょっと様子がおかしかったんですよ」
悪気など一ミリもない、純粋な世間話。エルはかすかに眉をひそめた。
「様子が?」
「はい。本屋の前で急に立ち止まったと思ったら、『この本は治安上の懸念がないか内容の精査が必要だ』とか言い出しまして。それで私に買ってくるよう命じられたんです」
「…………精査?」
「はい。ですが、結局売り切れてて買えなかったんですよね。そしたら隊長、最後の一冊を買っていった女性を、見えなくなるまでじーっと見送ってまして……何だったんでしょうね?」
「…………」
無言のまま兵士を見つめるエル。兵士は「あ、そうそう」と楽しげに付け加えた。
「ちなみにその本、今街で大流行している大衆小説なんですよ。『回廊で抱きしめて』。通称『コリ抱き』です」
「……コリ抱き」
聞き覚えのない異様な略称に、エルの眉がほんのわずかに動く。
「若い女性の間じゃ知らない人はいないってくらい人気らしくて。……閣下、何か気になることでも?」
「いや。何でもない。ご苦労だった」
エルは静かにそう告げると、再び歩き出した。 だが、その進路は本来の執務室ではなく——真逆の方向へと切られていた。
王城の深部にある大書庫。 静寂が満ちるその空間へ足を踏み入れたエルは、迷いなく奥の棚へと向かった。
(……確か、この辺りだ)
これまで歴史書や戦術書、法令集以外の棚に興味を持ったことはほとんどない。 それでも、その一冊だけは覚えていた。この堅苦しい王城書庫には、あまりにも不釣り合いな題名だったからだ。
棚から、その一冊を引き抜く。
『回廊で抱きしめて 第一巻』
「……これを、シアが」
半信半疑のまま、エルはページをめくった。 一読者としてではない。あくまで、シアの行動を理解するためだ。
……十ページ。 ……二十ページ。
(…………)
さらに、ページをめくる。
……五十ページ。
(……なるほど)
また、ページをめくる。
(シアが気にするのも、理解できなくはない)
また、ページをめくる。
気づいた時には、第一巻の半分ほどを読み進めていた。
第一巻を半分ほど読み進めたところで、エルは本を閉じた。
シアが買い損ねたのは、発売されたばかりの第五巻。 街の本屋では売り切れている。 だが、若い女性の間で広く読まれている本ならば、王城内にもすでに手に入れた者がいる可能性は高い。
(……探してみるか)
エルは書庫を出た。
その日の午後。
「失礼。少しいいか」
廊下を歩いていた二人の女官が、同時に足を止めた。
「は、はい! 総督閣下!」
エルはいつもと変わらぬ表情で尋ねた。
「『回廊で抱きしめて』の第五巻を持っていないか」
「…………」
二人の女官が固まった。
「……第五巻、ですか?」
「ああ」
「わ、私はまだ三巻までしか……」
「そうか。邪魔をした」
軽く頭を下げ、エルはその場を離れた。 残された二人は、その背中が角を曲がるまで黙って見送った。
「…………」 「…………」
やがて、一人が小さく口を開く。
「……今、総督様……」
「言わないで」
エルは次の女官にも同じことを尋ねた。
「第五巻を持っていないか」
「えっ」
「『回廊で抱きしめて』だ」
「え、ええと……私は持っていませんが、厨房のミリアが買ったと……」
「そうか。ありがとう」
さらに別の女官。
「第五巻?」
「ああ」
「昨日、侍女仲間で回し読みしていた者がいたと思いますけれど……」
「誰だ?」
「た、確か……」
聞き込みは、着実に進んでいった。
そして、小食堂近くの回廊を歩いていた時だった。
「あ、あの……総督閣下!」
背後から呼び止められ、エルが振り返る。 若い女官が一冊の本を胸に抱え、緊張した面持ちで立っていた。
「何か?」
「その……お探しだと聞きまして」
女官は胸元の本を差し出した。
『回廊で抱きしめて 第五巻』
「昨日読み終わったところなんです。三、四日くらいでしたら、お貸しできます」
エルは一瞬、本へ視線を落とした。
「……いいのか?」
「はい」
「助かる」
丁寧に両手で受け取る。
「必ず、期限までに返そう」
「は、はい!」
エルは女官へ一礼すると、そのまま歩き去っていった。 残された女官は、しばらくその背中を見送っていた。
「…………総督様も、読むんだ」
その日の夕刻。
シアは重い足取りで王城の書庫を訪れていた。 昨日、街の本屋で新刊を買い損ねたショックは、まだ尾を引いている。棚から見慣れた第四巻を引き抜き、パラパラとめくってみるものの、やはり一度読んだ物語では穴は埋まらない。
シアが小さな溜息をついた、その時だった。
横から静かに、一冊の本が差し出された。
見覚えのある薔薇の装丁。そして——『第五巻』の文字。
「……え」
シアは息を呑んだ。 本と、それを無表情で差し出しているエルの顔を、何度も交互に見つめる。
「……エル?」
「当たりだったな」
エルはいつもの静かな声で応えた。
シアは本を受け取ることも忘れ、目を丸くした。
「……どうして……」
「巡回の兵から聞いた。君が本屋で『回廊で抱きしめて』の第五巻を買おうとしていたと」
「……っ」
「君がこの書庫に通っていたこと、そしてここに四巻までが置かれていること。それらを繋げれば——」
「……もういい」
シアは片手で顔を覆った。
「どうやってこれを?」
「城中の女官に聞いて回った。一人、読み終わったから貸してもいいと言ってくれた」
「あなたねぇ……!」
シアは額を押さえて頭を抱えた。 冷面総督が城中で恋愛小説の所持者を捜索していた光景を想像し、眩暈すら覚える。
だが、ふとある可能性に思い当たり、シアは顔を上げた。
「……あなたも、読んだの?」
「第一巻を、半分ほどな」
静寂が降り立つ。 書庫の奥、古い紙の匂いだけが漂う空間で、二人の視線が交差する。
「……」 「……」
「……で?」
シアがぐっと身を乗り出した。
「……?」
「……どう、だったの?」
エルは一瞬だけ視線を外し、ほんのわずかに喉を鳴らした。
「……すべてを読んだわけではないが。続きは、気になった」
「……」
「街で人気なのも、理解できる」
その言葉を聞いた瞬間。
シアの顔に、パッと明かりが灯った。
「……そうでしょ!? ……そうなの!」
それまでの落ち込みが嘘のように、シアの瞳がキラキラと輝く。
エルはそんなシアをしばらく見つめると、手の中の第五巻を差し出した。
「君は四巻まで読んでいるのだろう」
シアは差し出された文庫本を両手で大切に抱えた。 ほくほくとした顔で本を見つめていたシアだったが……ふと、その動きが止まる。
「……待って」
シアは本を抱えたまま、眉をひそめた。
「エルが借りてきたのに、私が先に読んでもいいのかな」
「私はあいにく、まだ第一巻の途中だ。しかも、その本は数日中に返却せねばならん。期限までに読了できる君が読むのが、最も合理的だ」
だがシアは固い表情のまま首を振った。
「そうじゃないの……!」
「……何がだ」
シアは机の上に第五巻をそっと置くと、深刻な顔でエルを見つめた。
「あなたもきっと、二週間なんて待ちきれなくなるわ。明日にも四巻まで読んでしまう……それが、心配なのよ……!」
シアはまっすぐにエルを見つめていた。 その瞳に、迷いはない。
エルはしばらく無言でその視線を受け止め、わずかに間を置いた。
「…………その時は、その時だ」
エルは短くそう告げると、机の上の第五巻を持ち上げ、シアの手の中に押し戻した。
「いいから、持って行け」
二日後。
王城書庫。
エル・シャーリーは、第四巻の最後のページを見つめていた。
静寂に包まれた書庫で、ぱたりと本が閉じられる。 エルは椅子に深く腰掛けたまま、無言で天を仰いだ。
「…………」
その脳裏を、シアの真剣な眼差しと、あの言葉がよぎる。
『あなたもきっと、二週間なんて待ちきれなくなるわ。明日にも四巻まで読んでしまう……それが、心配なのよ……!』
予言は、一日ずれただけで的中した。
(……まさか、これほどとは)
もう一度、手元の第四巻を見る。
(……ここで終わるのか)
しばし沈黙。
(……ここで……?)
エルの眉間に、深い皺が刻まれた。
(……二週間)
ほんの二日前までは、何でもない時間だった。 今は違う。
(……シアは、一年待ったのか)
そこで初めて、あの日のシアの言葉の意味を、エルは完全に理解した。
『それが、心配なのよ……!』
「…………」
エルはゆっくりと立ち上がった。
少し離れた場所で、司書が本の整理をしている。 エルは第四巻を手にしたまま、まっすぐそちらへ歩いていった。
「お仕事中に、すみません」
司書は振り返り、エルの姿を見ると恐縮したように深く頭を下げた。
「これは、総督閣下。何かお探しでしょうか」
「この本の、第五巻についてだ」
エルは手に持った『回廊で抱きしめて 第四巻』を司書に見せた。
「現在、街では第五巻が発売されている。この書庫で導入する予定はあるだろうか」
「ああ、その本ですか……」
司書は小さく目元を緩め、親しみを感じさせる笑みを浮かべた。
「閣下もお読みでしたか。あれは素晴らしい物語ですね。ですが、申し訳ありません。この書庫の購入予算は、歴史書や法令集、戦術書などに限られておりまして……大衆向け娯楽小説の新刊を公金で購入することはできないのです」
「……そうか」
「申し訳ありません」
「いや。予算の規律を守るのは当然だ。謝る必要はない」
エルは頷き、ふとした疑問を投げかけた。
「では……第一巻から第四巻までは、寄贈されたものなのか? この書庫に入れたのは君か」
「いいえ。私がこちらへ勤め始めた時には、第一巻だけがすでに置かれていたんです」
「第一巻だけ?」
「ええ。それが、しばらくすると二巻が増えておりまして。その後も新刊が出るたびに、三巻、四巻と……」
司書は少し困ったように笑った。
「どなたが置いていかれたのか、私にも分からないのですよ。私も楽しみにしておりましたので、そのまま棚に置いてしまいましたけれど」
「……そうか」
エルは手元の第四巻へ視線を落とした。
第一巻だけは、以前からこの書庫にあった。 二巻以降は、新刊が出るたびに誰かが持ち込んでいる。
王城書庫へ自由に出入りできる者。 大衆向けの恋愛小説を読む人物。
「…………」
そこまで考えたところで、エルの思考が止まった。
(……まさか)
一人だけ、心当たりがあった。
王城東棟。
自治区長執務室。
コン、コン。
「どうぞ」
扉を開けると、書類仕事の手を止めたナスルーラが顔を上げた。
「まぁ、総督閣下。珍しいですね。どうしました?」
エルは無言で歩み寄ると、手にしていた『回廊で抱きしめて 第四巻』を、静かに机の上に置いた。
ナスルーラは一瞬、置かれた本に目を落とし——
「…………」
ほんのわずかに、その優雅な笑みがフリーズした。
「……何か?」
エルはいつもと変わらぬ無表情のまま、まっすぐナスルーラを見つめている。
「少し、お伺いしたいことがあります、殿下」
「……もう殿下はおやめください。今はただの自治区長です」
「そうでした。では、区長」
「……何でしょう。深刻な顔をして」
「王城書庫の棚に、この本の二巻、三巻、四巻を順次追加したのはあなたですね」
尋問のような一直線の問いかけ。 ナスルーラは数秒ほど沈黙し、それからふっと肩の力を抜いて、困ったように微笑んだ。
「……参りましたね。誰にも見つからないように置いていたつもりだったのですが。さすがは総督閣下、目ざとい」
「否定はなさらないのですね」
「隠しても無駄でしょう? 閣下がここまで確信を持って訪ねてきたということは、すでに証拠か論理を固めているということですし」
「……なぜです」
ナスルーラは答えなかった。 机の上に置かれた第四巻へ、静かに視線を落とす。
やがて、観念したように小さく息を吐いた。
「……読みたかったのですよ」
「……」
「私が」
「…………」
「そんな顔をしないでください。さすがに自室で読んでいるのを部下に見られでもしたら示しがつきません。ですから、書庫の奥深くに隠しておいて、執務の合間にこっそり読み進めていたのですよ」
「……」
「第一巻が最初からあそこに置かれていたのは幸いでしたね。おかげで『誰かが忘れていった本』という体裁で、二巻以降を紛れ込ませることができた」
何という緻密で無駄のない陰謀。 しかしエルは、その言い訳の中に決定的な隙を見逃さなかった。
「……待ってください」
エルは眉をひそめた。
「あなたが新刊が出るたびに購入し、読み終えたものを書庫へ置いていたのなら……」
ナスルーラの笑みが、わずかに固まった。
「第五巻は?」
「…………」
「発売から、すでに数日が経っている。それにもかかわらず、書庫には第四巻までしかない」
エルは静かに問いかけた。
「……買えなかったのですか」
「…………」
ナスルーラは静かに目を閉じ、深々と溜息をついた。 その顔からいつもの余裕ある笑みが消えた。
「……ええ。売り切れていたのですよ」
「……やはり」
「発売当日の夕刻に本屋へ赴いたのですが、すでに完売でした。店主に確認しましたが、昼過ぎには入荷分は全て売れてしまったと……」
「……」
「……あの第四巻の引きで生殺しにされる私の気持ちが分かりますか、閣下? 私はここ数日、まともに夜も眠れていないのですよ……!」
静かだが、尋常ではない熱量を込めて訴えかけてくるナスルーラ。
エルは無言でナスルーラを見つめた。
「……」
「……何です、その目は」
「いえ」
エルは静かに首を振った。
(……シアの言った通りだ)
二週間。 待てる者など、どこにもいなかった。
エルは自治区長室を後にした。
静かな回廊を歩きながら、ふと考える。
今頃、シアは第五巻を読んでいるのだろう。
一年待っていたのは、ナスルーラも同じだ。
だが——こればかりは仕方がない。
あの本は、シアのために借りたものだ。
「…………」
エルは歩きながら、小さく息を吐いた。
(……あと十日、か)




